三度目の歓声
「名前がいる」
干し場の囲いの中で、レオは腕を組んでいた。
台の上には、焦げの点がついた銅のかけらが二つ。昨日から、もう五十回は眺めている。
「師匠の霜晶だって名前があるだろ。母上の《緋堤》だって。名前がないと、手帳に書くとき、いちいち『ちりっとするやつ』って書かなきゃいけない」
「昨日の手帳には、そう書いてありましたね」
フェリクスが、乾いた布で皿を拭きながら言った。
「だから困ってるんだって」
レオは指を折った。
「青糸。ちりっ。……青い稲妻。雷一号」
「雷一号は、二号が出たら困ります」
「じゃあフェリクスも考えてよ」
「私は、記録に番号を振るほうが向いています」
囲いの外で、オルウェン師匠が古い辞書をめくっていた。表紙の角がすり切れて丸くなった、分厚い本だ。
「創成の名前は、作った人がつけるものだよ。私の霜晶は、初めて成功した朝の窓の霜から取った」
師匠は頁の途中で指を止め、本をくるりと回してレオに見せた。
「雷の字のつく言葉を、昔の人はいくつも作っている。たとえば、これ」
――霆。
「雷の中でも、とどろくほうの雷。光るだけでなく、空を揺らすくらい鳴るもの」
「とどろくほう」
レオは口の中で繰り返した。
「雷と、霆。らい、てい。……《雷霆》」
声に出したとたん、背中がぞくっとした。かっこいい。
「それにする!」
「まだ、ちりっとしか鳴っていませんが」
「そのうち、とどろく。……たぶん。いつか」
フェリクスは何も言い返さず、帳面の新しい頁の一番上に、ていねいな字で書いた。
――《雷霆》試行記録。
*
今日は十回やる、と決めた。
一回ごとに、砂時計を二回ひっくり返すぶん休む。腕を揉み、水を飲み、昨日の干し場と今日の干し場で違うところがないか、紐の揺れを見る。
一回目は出た。
ちりっ。昨日の二回目と同じくらいの、細い光。右から左へ。
「よし!」
二回目。同じ皿のまま、もう一度雲を作った。熱の道を外へ開く。
ちりっ。
光は、左のかけらには行かなかった。皿の上で小さく曲がって、皿の内側の、こぼれた水の溜まりへ落ちた。じゅっと音がして、水が少し跳ねた。
「……逸れた」
「皿が濡れたままでした」
フェリクスが台の下から言った。
「一回目の雨が、皿の縁に残っていました。光は、かけらより先に、そっちに行ったんだと思います」
レオは皿の縁を指でなぞった。確かに薄く濡れている。
レオが道を作ったつもりのところと、実際に濡れていたところが、ずれていた。それだけのことだ。
「皿、替えよう」
「もう用意してあります」
台の横の板の上に、乾いた小皿が四枚、きっちり並んでいた。グレタの店の端材箱から、あとで買い足した同じ厚さの皿だ。フェリクスは濡れた皿を受け取り、乾いた一枚を差し出した。
「濡れたまま次をやらない。それだけ決めておけば、条件は崩れないはずです」
三回目は、乾いた皿で光りかけたが、出なかった。雲を作るのを急ぎすぎたせいだ。
四回目も出なかった。今度は皿が乾きすぎていたのだ。雲を作っても縁で水がまとまらない。レオは焦って風を強めかけ、手を止めた。強めるのではなく、雨に戻す。小さな雨を三粒だけ降らせて、そのまま止めた。
「失敗のときは、雨に戻して止める。濡らしたまま、続けて次をやらない」
レオは手帳に書いた。それから、首をかしげた。
「乾きすぎてもだめで、濡れすぎてもだめ。……じゃあ、最初にちょっとだけ濡らしておけばいいんだ」
五回目。乾いた皿の縁に、雲を作る前に、息を吹きかけるくらいの薄い水を置いた。指でなぞっても分からないくらいの、湿り。
ちりっ。
出た。右から左へ。焦げが、二つのかけらに一つずつ増えた。
「出た。ほら、出た」
「出ました。五回目、記録します」
二人の声はさっきより落ち着いていた。でも、レオの手は勝手に握りこぶしを作っていた。
六回目、七回目、八回目は出なかった。雲の崩れ方が毎回違って、熱の道がうまく細くならない。九回目は、光は出たが左のかけらに届かず、空中でふっと消えた。数えない。
十回目の前にレオは長めに休んだ。
干し場の真ん中に寝転んで、空を見た。雲が一つ、塔の上を流れていく。あの雲の中でも、いつか、とどろく雷が鳴るのかもしれない。それと自分の、ちりっ、が同じものなのかどうか、まだ誰にも分からない。
分からないのが、面白かった。
「やる」
起き上がった。
乾いた皿。薄い湿り。湯気、風の輪、底を冷やす。雲が崩れても追わない。冷たさを解く手を遅らせて、熱の道を、外へ。
ちりっ。
青白い線が右から左へ渡った。今日いちばんまっすぐな線だった。折れ曲がりが二つしかない。
「――出たっ!」
声を上げたのは、レオではなかった。
台の下で、フェリクスが跳ね起きていた。麦わらを二本とも指さし、口を開けたまま、両方とも揺れたと言おうとして、言葉になっていなかった。
レオはフェリクスを見た。フェリクスもレオを見た。
フェリクスの顔が、みるみる赤くなっていく。
「……今のは、記録の読み上げです」
「読み上げで、そんな声出る?」
「出ます」
「出ないよ」
レオは笑いながら、両手を突き出した。フェリクスは今度は迷わなかった。ぱちん、と大きな音がした。
*
十回のうち、右から左へ、狙ったとおりに渡ったのは三回だった。一回目と、五回目と、十回目。
二人は台の上に、今日の十枚の記録を並べた。昨日の二回分も並べた。昨日の最初の一回と、今日の十回目のかけらを並べると、焦げの大きさまで、ほとんど同じだった。
「同じだ。昨日のと今日の、双子みたい」
「同じ条件にすると、同じ形になります」
フェリクスは、二つのかけらを交互に指さした。
「線の折れ曲がり方まで似てきています。最初はぎざぎざが四つでした。今日の最後は、二つです」
レオはかけらを光にかざした。条件をそろえるほど、出てくるものもそろってくる。雷そのものより、それがなんだか一番面白かった。
囲いの外で記録をまとめていた師匠のところへ、近衛のロルフがやってきた。昼の交代の途中らしい。ロルフは干し場をのぞきこみ、声をひそめた。
「殿下、詰所で噂になってますよ。昨日、イレーネ様が練兵場で剣を突き上げたって。王子が雷を出した、世界でただ一人の創成だって」
「まだ、ただ一人かどうかは分からないよ」
レオが答えるより先に、師匠が言った。
「私の知っている本には載っていない。それだけのことだ。どこかの山奥で、同じことをしている子がいるかもしれない」
師匠は、十二枚の記録をそろえてロルフに見せた。
「それより、こっちのほうがずっと値打ちがある。皿の材料、湿りの具合、休んだ時間、失敗したときの止め方。これを読めば、別の人でも同じ条件をたどれる。一人しかできないものは、その人がいなくなったら終わりだからね」
ロルフは記録を見て、目をぱちぱちさせた。
「……字が、細かいですね」
「フェリクスの字だよ」とレオは言った。
師匠は記録を二つの束に分けた。一つには、何が起きたかと、止め方だけを書いた紙。もう一つには、湿りの量や雲の大きさを書いた細かい紙。
「人に見せるのは、こっちの束だけでいい。何が起きるのか、どうやったら止まるのか。細かいほうは、まだ私たちの研究の途中だから、塔にしまっておこう」
夕方、レオとフェリクスは工房室で、台を磨いた。
母に見せる日のために。鉄の板の表面を布でこすり、脚の留め具を締め直し、側面に彫った「小皿一枚まで」の字に、煤を擦りこんで黒く浮き上がらせた。
「交換用の皿は四枚。乾いたのを箱に入れて、蓋をしておきます」
「不発だったら、すぐ替える」
「不発だったら、すぐ替えます」
工房室の扉を叩く音がした。母の侍女だった。小さな札を一枚、レオに渡して、にこりと笑って帰っていった。
札は母の字だった。
――夏の終わりの十日目、夕方。中庭。一番の席を予約済み。名前は決まった?
レオは札を、フェリクスの目の前に突き出した。
「決まったって、返事書く。《雷霆》って」
「まだ、ちりっとしか鳴っていませんが」
「母上の前で、とどろかせる」
「とどろかせないでください。中庭の窓が割れます」




