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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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13/23

窓辺から届く拍手

母の部屋の窓は、夕日でいっぱいだった。

 開け放った窓の外には中庭が見下ろせて、窓枠の内側に、素焼きの鉢が一つ置いてある。紅鈴草。温室の鉢と同じ花で、母の故郷の乾いた丘に咲く草だ。花の季節はとうに過ぎて、今は細長い葉だけが、窓からの風にかすかに揺れていた。

「一番の予約、でしょう」

 母は窓辺の椅子に腰かけて、鉢を指さした。軍装の上着は椅子の背に掛けたまま、髪もほどいている。今日の夕方は、ここから始めると決めていた。

「去年の春から、一年半。ずいぶん待たせたわね」

「待たせたのは母上じゃなくて、僕だよ」

「だから言ってるのよ。待たされた分、今日はたっぷり自慢させてもらうわ」

 レオは窓枠の前に立ち、鉢の上に手をかざした。

 水差しから湯気を上げる。風でそっとくるむ。底を冷やす。窓辺の風は温室より気まぐれだったが、干し場の風よりはずっとおとなしい。部屋の中の、窓枠の陰。ちょうど淀んでいるところに、小さな雲を浮かべた。

 ぽつ。

 ぱた、ぱたた。

 葉の上で雨が鳴った。

 母は椅子から身を乗り出し、鉢の縁に頬杖をついた。雨の粒が葉を叩き、葉がしなって、しずくが土へ転がり落ちる。夕日を受けて、粒が一つずつ橙色に光った。

「この子もね、上から濡れるのは初めてよ」

「温室の子と同じこと言ってる」

「同じ花だもの。姉妹みたいなものよ。妹のほうが、一年半よけいに待たされたけど」

 母は手のひらを雨の下に差し出した。去年の春と同じように、三粒、四粒。手のひらに受けた水を、母はしばらく眺めていた。

 レオは雨を止めた。順番に術をほどく。窓辺に、濡れた葉と、葉の先から落ちるしずくの音だけが残った。

「ありがとう」

 母はそう言って、鉢を両腕でひょいと抱え上げた。

「母上? それ、重くない? 持つよ」

「この子も連れていくわ。下の、雷のほう。一番の予約者のお供よ」


  *


 中庭にはもう準備ができていた。

 石畳の真ん中に、フェリクスの台。その上に乾いた小皿と、右と左に銅のかけら。麦わらが二本、絹糸から下がっている。台の周りの石畳は、昼のうちにフェリクスが何度も拭いて、乾かしてあった。

 台から十歩離れたところに、太い縄が一本、張ってある。見学の線だ。縄の外側に母の立つ場所がある。台の後ろには、植木鉢の柑橘の木が一本。そのずっと向こうが、中庭を囲む回廊の壁だった。

 オルウェン師匠は台の斜め後ろ、合図の手が見える位置に立っていた。近衛のベルナルトが、縄の端で母の護衛についている。

「母上は線の外ね。護衛の人も。誰も中に入らないで」

「分かってるわよ。剣聖が二人とも縄の外で待ってるなんて、なかなかないわよ」

 母は縄の手前に鉢を下ろし、その横に立った。ベルナルトの眉が、少しだけ動いた。

 レオは顔を上げた。

 中庭を囲む窓という窓に、人の顔があった。

 二階の東の窓に、父とマルグリット。その隣の窓から、エドガーとユリウスが身を乗り出している。三階の端の窓には、侍女たちが鈴なりになっていた。厨房の窓からは、料理番が鍋を持ったままのぞいている。

 回廊の手すりには、セシリアが腰かけて、膝の上に紙を広げていた。

「……みんな、なんで」

「私は一番の席を予約したけど」と母は言った。「ほかの席を売らないとは言ってないもの」

「売ったの?」

「話しただけよ。三回くらい」


 レオは台の前に立った。

 息を吸う。乾いた皿の縁に、薄い湿りを置く。湯気、風の輪、底を冷やす。小さな雲が浮かぶ。雲が崩れても追わない。冷たさを解く手を、遅らせる。熱の道を、外へ――

 何も起きなかった。

 皿の上で、雲がほどけて、ただの水になって落ちた。麦わらは垂れたまま、ぴくりともしない。

 窓のほうで、誰かが小さく息をつく音がした。

 レオは振り返って、母を見た。

 母は縄の外に立っていた。顔は見えた。でも、どんな顔をしているのか、レオにはうまく読めなかった。読もうとしたとたん、胸の中が急にせかせかしはじめた。早く。次を。皿はこのままでいい、湿りもまだ残っている、急げばまだ夕日があるうちに――

 レオの手が、濡れた皿の上に、もう一度上がりかけた。

 かたん、と小さな音がした。

 フェリクスが、台の脇の箱から、乾いた皿を一枚持ち上げていた。何も言わない。ただ、皿を両手で持って、レオの目の高さに掲げている。

 レオは上げかけた手を下ろした。

 濡れたまま次をやらない。自分で手帳に書いたことだった。

「ひとつ」

 縄の外から、母の声がした。

 レオは振り返った。母は足元の鉢の前にしゃがんで、葉の先を見ていた。さっき窓辺で降らせた雨のしずくが、まだ葉の先に残っていて、ときどき、ぽつりと土に落ちる。

「ふたつ」

 母はしずくの数を数えていた。

 急かしもせず、慰めもせず、ただ葉の先から落ちる水を、一つずつ。

「みっつ」

 レオは台に向き直った。フェリクスから乾いた皿を受け取り、濡れた皿と取り替えた。縁を指でなぞる。乾いている。薄い湿りをもう一度置く。

「よっつ」

 腕を回した。肩の力を抜いた。

 湯気。風の輪。底を冷やす。

「いつつ」

 雲が浮かんだ。崩れる。追わない。冷たさを遅らせる。

 熱の道を外へ開いた。

 ちりっ。

 青白い線が、右の銅から左の銅へ、まっすぐに渡った。

 夕暮れの中庭で、それは干し場で見たどの光よりも、明るく見えた。折れ曲がりが二つの、細い光の線。一瞬だけ中庭の石畳を青く染めて、消えた。夕立の前の匂いが、ふわっと漂った。

 レオは手を上げなかった。

 火を落とす。冷たさを解く。風の輪を外側からゆるめる。最後の風がほどけて、皿の上が静かになるまで、自分の手で終えた。

 それから、振り返った。


 母が、そこにいる。

 鉢の横で両手を口に当て、目を大きく見開いたまま、さっき光が渡った場所をまだ見ている。

 そして、手を下ろして、笑った。

 去年の春、温室で、濡れた花を見たときと同じ笑い方だった。目尻にしわを寄せて、子どもみたいに。

「レオ」

「うん」

「あなた、本当に作ったのね」

 母は縄の外から、身を乗り出すようにして言った。

「鉢の縁で光ったとき、あれが何なのか知りたいって、何度も言ってたでしょう。朝ごはんのときも、夕ごはんのときも。それを、自分の手で、見たいときに見られるようにしたのね」

 レオは何か言おうとした。言葉より先に顔がぐしゃっとなった。笑っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からなかった。

 頭の上から、ぱちぱちぱち、と音が降ってきた。

 見上げると、窓という窓で、みんなが手を叩いていた。二階の窓の父たちも、身を乗り出しすぎて兄に襟をつかまれているユリウスも、侍女たちも、鍋を置いた料理番も。回廊の手すりでは、セシリアが紙を膝に置いたまま、両手を高く上げて叩いていた。

 中庭いっぱいに、拍手が雨みたいに降っていた。

 レオはそれを全部受けた。照れくさくて、背中がむずむずした。でも、下を向かなかった。

「あのね、母上」

 気がつくと、しゃべりはじめていた。

「今のは、熱を抜く道を細くして、それを皿の外に開いたときに出るんだ。それが分かったのは、フェリクスが皿の裏の水の音を測ってくれたからで。上から見てると、裏の水は全然見えないんだよ。フェリクス、地面に寝て、耳を溝にくっつけて、何十回も数えてくれたんだ。それに、あの麦わらもフェリクスが作った。それがなかったら、光る前に何が起きてるか、分からなかった」

 母はフェリクスのほうを向いた。

 フェリクスは、交換用の皿の箱を抱えたまま、まっすぐに立っていた。

「ありがとう、フェリクス」

 母は言った。

「この子の雷、半分はあなたのね」

「……三分の一くらいです。師匠の霜がありますので」

 母が声を上げて笑った。窓の上で誰かがつられて笑った。


  *


 お菓子は、縄の外の石段に並んで食べた。

 母が侍女に頼んで、干し杏の焼き菓子を籠いっぱい持ってこさせていたのだ。母とレオとフェリクス、それにオルウェン師匠とベルナルトまで、石段に一列に座った。窓から下りてきたユリウスが、一つ取ろうとして、長兄に手をはたかれた。

 母は菓子をかじりながら、何度も台のほうを見た。

「もう一回、見たいわね」

「腕を休めてからなら、できるよ」

「じゃあ休んで。私、まだ少しいられるから」

 母は膝に乗せた鉢の葉を、指でつついた。しずくはもう落ちなかった。

 休んだあとの二回目は、一回目より少しだけ細かったが、ちゃんと右から左へ渡った。母はまた手を口に当てて、今度は手を叩いた。

 そのあとで、台の後ろの柑橘の木を指さした。

「ねえ、レオ。いつか、的をもっと遠くに置くんでしょう」

「うん。木の的とか。十歩、二十歩って、少しずつ遠くして」

「そうしたら、その向こうも見たいわね」

 母は柑橘の木から、その奥の回廊の壁まで、指でゆっくりなぞった。

「今の光、銅のかけらで止まったけど、もし的を外れたら、どこまで行くの? あの木まで届く? 壁まで? 私、それが分かったら、もっと安心して見ていられるわ」

 レオは柑橘の木を見た。

 それから、その向こうの壁を見た。考えたことがなかった。光が渡るところばかり見ていて、渡りきらなかったときのことは、まだ一度も測っていない。

「……測る」

 レオは言った。

「的の後ろにも、何か置く。どこまで届いたか、分かるように。届いちゃいけないところまで、届いてないかも」

「試せたら教えて」

 母は菓子の最後のひとかけを口に入れ、立ち上がった。夕日は沈みかけていた。伝令が回廊の角で待っている。次の予定の時刻だった。

 母は膝の鉢を抱え直し、三歩歩いて、振り返った。

「《雷霆》、いい名前ね。とどろく日が来たら、それも一番の席で見るわよ」

 鉢を抱えた母の背中が、回廊の向こうへ消えていった。

 レオはしばらくそれを見送ってから、台の横にしゃがみこんだ。

「フェリクス。秋になったら、木の的。後ろに水の皿を置いて、届いたかどうか見る」

「水の皿を置くなら、皿が揺れたかどうかを見る係が要ります」

「じゃあ、それ、フェリクス」

「狙うのはレオで、見張るのが私ですね」

 回廊の手すりから、セシリアがひらりと飛び降りてきた。

「ねえ。二番の雨は、いつ?」


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