窓辺から届く拍手
母の部屋の窓は、夕日でいっぱいだった。
開け放った窓の外には中庭が見下ろせて、窓枠の内側に、素焼きの鉢が一つ置いてある。紅鈴草。温室の鉢と同じ花で、母の故郷の乾いた丘に咲く草だ。花の季節はとうに過ぎて、今は細長い葉だけが、窓からの風にかすかに揺れていた。
「一番の予約、でしょう」
母は窓辺の椅子に腰かけて、鉢を指さした。軍装の上着は椅子の背に掛けたまま、髪もほどいている。今日の夕方は、ここから始めると決めていた。
「去年の春から、一年半。ずいぶん待たせたわね」
「待たせたのは母上じゃなくて、僕だよ」
「だから言ってるのよ。待たされた分、今日はたっぷり自慢させてもらうわ」
レオは窓枠の前に立ち、鉢の上に手をかざした。
水差しから湯気を上げる。風でそっとくるむ。底を冷やす。窓辺の風は温室より気まぐれだったが、干し場の風よりはずっとおとなしい。部屋の中の、窓枠の陰。ちょうど淀んでいるところに、小さな雲を浮かべた。
ぽつ。
ぱた、ぱたた。
葉の上で雨が鳴った。
母は椅子から身を乗り出し、鉢の縁に頬杖をついた。雨の粒が葉を叩き、葉がしなって、しずくが土へ転がり落ちる。夕日を受けて、粒が一つずつ橙色に光った。
「この子もね、上から濡れるのは初めてよ」
「温室の子と同じこと言ってる」
「同じ花だもの。姉妹みたいなものよ。妹のほうが、一年半よけいに待たされたけど」
母は手のひらを雨の下に差し出した。去年の春と同じように、三粒、四粒。手のひらに受けた水を、母はしばらく眺めていた。
レオは雨を止めた。順番に術をほどく。窓辺に、濡れた葉と、葉の先から落ちるしずくの音だけが残った。
「ありがとう」
母はそう言って、鉢を両腕でひょいと抱え上げた。
「母上? それ、重くない? 持つよ」
「この子も連れていくわ。下の、雷のほう。一番の予約者のお供よ」
*
中庭にはもう準備ができていた。
石畳の真ん中に、フェリクスの台。その上に乾いた小皿と、右と左に銅のかけら。麦わらが二本、絹糸から下がっている。台の周りの石畳は、昼のうちにフェリクスが何度も拭いて、乾かしてあった。
台から十歩離れたところに、太い縄が一本、張ってある。見学の線だ。縄の外側に母の立つ場所がある。台の後ろには、植木鉢の柑橘の木が一本。そのずっと向こうが、中庭を囲む回廊の壁だった。
オルウェン師匠は台の斜め後ろ、合図の手が見える位置に立っていた。近衛のベルナルトが、縄の端で母の護衛についている。
「母上は線の外ね。護衛の人も。誰も中に入らないで」
「分かってるわよ。剣聖が二人とも縄の外で待ってるなんて、なかなかないわよ」
母は縄の手前に鉢を下ろし、その横に立った。ベルナルトの眉が、少しだけ動いた。
レオは顔を上げた。
中庭を囲む窓という窓に、人の顔があった。
二階の東の窓に、父とマルグリット。その隣の窓から、エドガーとユリウスが身を乗り出している。三階の端の窓には、侍女たちが鈴なりになっていた。厨房の窓からは、料理番が鍋を持ったままのぞいている。
回廊の手すりには、セシリアが腰かけて、膝の上に紙を広げていた。
「……みんな、なんで」
「私は一番の席を予約したけど」と母は言った。「ほかの席を売らないとは言ってないもの」
「売ったの?」
「話しただけよ。三回くらい」
レオは台の前に立った。
息を吸う。乾いた皿の縁に、薄い湿りを置く。湯気、風の輪、底を冷やす。小さな雲が浮かぶ。雲が崩れても追わない。冷たさを解く手を、遅らせる。熱の道を、外へ――
何も起きなかった。
皿の上で、雲がほどけて、ただの水になって落ちた。麦わらは垂れたまま、ぴくりともしない。
窓のほうで、誰かが小さく息をつく音がした。
レオは振り返って、母を見た。
母は縄の外に立っていた。顔は見えた。でも、どんな顔をしているのか、レオにはうまく読めなかった。読もうとしたとたん、胸の中が急にせかせかしはじめた。早く。次を。皿はこのままでいい、湿りもまだ残っている、急げばまだ夕日があるうちに――
レオの手が、濡れた皿の上に、もう一度上がりかけた。
かたん、と小さな音がした。
フェリクスが、台の脇の箱から、乾いた皿を一枚持ち上げていた。何も言わない。ただ、皿を両手で持って、レオの目の高さに掲げている。
レオは上げかけた手を下ろした。
濡れたまま次をやらない。自分で手帳に書いたことだった。
「ひとつ」
縄の外から、母の声がした。
レオは振り返った。母は足元の鉢の前にしゃがんで、葉の先を見ていた。さっき窓辺で降らせた雨のしずくが、まだ葉の先に残っていて、ときどき、ぽつりと土に落ちる。
「ふたつ」
母はしずくの数を数えていた。
急かしもせず、慰めもせず、ただ葉の先から落ちる水を、一つずつ。
「みっつ」
レオは台に向き直った。フェリクスから乾いた皿を受け取り、濡れた皿と取り替えた。縁を指でなぞる。乾いている。薄い湿りをもう一度置く。
「よっつ」
腕を回した。肩の力を抜いた。
湯気。風の輪。底を冷やす。
「いつつ」
雲が浮かんだ。崩れる。追わない。冷たさを遅らせる。
熱の道を外へ開いた。
ちりっ。
青白い線が、右の銅から左の銅へ、まっすぐに渡った。
夕暮れの中庭で、それは干し場で見たどの光よりも、明るく見えた。折れ曲がりが二つの、細い光の線。一瞬だけ中庭の石畳を青く染めて、消えた。夕立の前の匂いが、ふわっと漂った。
レオは手を上げなかった。
火を落とす。冷たさを解く。風の輪を外側からゆるめる。最後の風がほどけて、皿の上が静かになるまで、自分の手で終えた。
それから、振り返った。
母が、そこにいる。
鉢の横で両手を口に当て、目を大きく見開いたまま、さっき光が渡った場所をまだ見ている。
そして、手を下ろして、笑った。
去年の春、温室で、濡れた花を見たときと同じ笑い方だった。目尻にしわを寄せて、子どもみたいに。
「レオ」
「うん」
「あなた、本当に作ったのね」
母は縄の外から、身を乗り出すようにして言った。
「鉢の縁で光ったとき、あれが何なのか知りたいって、何度も言ってたでしょう。朝ごはんのときも、夕ごはんのときも。それを、自分の手で、見たいときに見られるようにしたのね」
レオは何か言おうとした。言葉より先に顔がぐしゃっとなった。笑っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からなかった。
頭の上から、ぱちぱちぱち、と音が降ってきた。
見上げると、窓という窓で、みんなが手を叩いていた。二階の窓の父たちも、身を乗り出しすぎて兄に襟をつかまれているユリウスも、侍女たちも、鍋を置いた料理番も。回廊の手すりでは、セシリアが紙を膝に置いたまま、両手を高く上げて叩いていた。
中庭いっぱいに、拍手が雨みたいに降っていた。
レオはそれを全部受けた。照れくさくて、背中がむずむずした。でも、下を向かなかった。
「あのね、母上」
気がつくと、しゃべりはじめていた。
「今のは、熱を抜く道を細くして、それを皿の外に開いたときに出るんだ。それが分かったのは、フェリクスが皿の裏の水の音を測ってくれたからで。上から見てると、裏の水は全然見えないんだよ。フェリクス、地面に寝て、耳を溝にくっつけて、何十回も数えてくれたんだ。それに、あの麦わらもフェリクスが作った。それがなかったら、光る前に何が起きてるか、分からなかった」
母はフェリクスのほうを向いた。
フェリクスは、交換用の皿の箱を抱えたまま、まっすぐに立っていた。
「ありがとう、フェリクス」
母は言った。
「この子の雷、半分はあなたのね」
「……三分の一くらいです。師匠の霜がありますので」
母が声を上げて笑った。窓の上で誰かがつられて笑った。
*
お菓子は、縄の外の石段に並んで食べた。
母が侍女に頼んで、干し杏の焼き菓子を籠いっぱい持ってこさせていたのだ。母とレオとフェリクス、それにオルウェン師匠とベルナルトまで、石段に一列に座った。窓から下りてきたユリウスが、一つ取ろうとして、長兄に手をはたかれた。
母は菓子をかじりながら、何度も台のほうを見た。
「もう一回、見たいわね」
「腕を休めてからなら、できるよ」
「じゃあ休んで。私、まだ少しいられるから」
母は膝に乗せた鉢の葉を、指でつついた。しずくはもう落ちなかった。
休んだあとの二回目は、一回目より少しだけ細かったが、ちゃんと右から左へ渡った。母はまた手を口に当てて、今度は手を叩いた。
そのあとで、台の後ろの柑橘の木を指さした。
「ねえ、レオ。いつか、的をもっと遠くに置くんでしょう」
「うん。木の的とか。十歩、二十歩って、少しずつ遠くして」
「そうしたら、その向こうも見たいわね」
母は柑橘の木から、その奥の回廊の壁まで、指でゆっくりなぞった。
「今の光、銅のかけらで止まったけど、もし的を外れたら、どこまで行くの? あの木まで届く? 壁まで? 私、それが分かったら、もっと安心して見ていられるわ」
レオは柑橘の木を見た。
それから、その向こうの壁を見た。考えたことがなかった。光が渡るところばかり見ていて、渡りきらなかったときのことは、まだ一度も測っていない。
「……測る」
レオは言った。
「的の後ろにも、何か置く。どこまで届いたか、分かるように。届いちゃいけないところまで、届いてないかも」
「試せたら教えて」
母は菓子の最後のひとかけを口に入れ、立ち上がった。夕日は沈みかけていた。伝令が回廊の角で待っている。次の予定の時刻だった。
母は膝の鉢を抱え直し、三歩歩いて、振り返った。
「《雷霆》、いい名前ね。とどろく日が来たら、それも一番の席で見るわよ」
鉢を抱えた母の背中が、回廊の向こうへ消えていった。
レオはしばらくそれを見送ってから、台の横にしゃがみこんだ。
「フェリクス。秋になったら、木の的。後ろに水の皿を置いて、届いたかどうか見る」
「水の皿を置くなら、皿が揺れたかどうかを見る係が要ります」
「じゃあ、それ、フェリクス」
「狙うのはレオで、見張るのが私ですね」
回廊の手すりから、セシリアがひらりと飛び降りてきた。
「ねえ。二番の雨は、いつ?」




