木片の先へ届かせない
的は、薪小屋からもらってきた松の木片だった。
手のひらくらいの四角い板を、細い棒の先に釘で留めて、干し場の真ん中に立てる。台からの距離は、大人の歩幅で三歩。夏に母の前で光を渡した距離の、ちょうど倍だった。
「後ろに、これを」
フェリクスが、的のさらに二歩後ろに、水を張った浅い皿を置いた。皿の水面には、細かい木くずがぱらぱらと浮かべてある。
「光が的を越えて後ろまで来たら、水が揺れて、木くずが動くはずです。動かなければ、的のところで止まったということです」
「母上が言ってた、その向こう、だな」
「はい。イレーネ様の宿題です」
干し場の囲いの外側、的の後ろ側には、オルウェン師匠が霜の壁を一枚立てていた。人の背丈ほどの、白くて薄い壁。光が万が一的も皿も越えたら、そこで受け止める。
「私の壁まで届いたら、今日の実験はそこでおしまいだよ」
「届かせないよ。師匠の壁、焦がしたら、霜の分だけ怒られそうだし」
「それを確かめに来たんだろう」
秋の朝だった。囲いの紐が、北からの風にゆるくなびいている。干し場の隅には、夏の間に焦げの点がついた銅のかけらが、十いくつ、箱に並べてしまってあった。
セシリアの二番の雨は、母に見せた日の翌朝に降らせた。練兵場の柵の上で、彼女が持ってきた小さな野菊の鉢に。セシリアは雨の下に地図を広げかけて、あわてて引っこめ、それから三粒ぶんだけ指先で受けた。「二番にしては、悪くないね」と言って、その日の地図の余白に、小さな雨の絵を描いていた。
「今日は、狙うのが僕で、見張るのがフェリクス」
「狙う場所と見張る場所が違うので、目も二つ要ります」
フェリクスは皿の横にしゃがみ、木くずの浮いた水面に目を落とした。的は見ない。見るのは皿だけだ。
*
一回目。
台の上で雲を作り、崩れても追わず、冷たさを遅らせ、熱の道を外へ開く。今度は、右の銅のかけらから、的の木片へ向けて。
ちりっ。
光が走った。
的に向かって、まっすぐ――のはずが、木片の手前で、ぐにゃりと下へ曲がった。的の板をかすめて、それを支えている棒の、根元のほうへ吸いこまれた。じゅっ、と音がした。
的の板には焦げ一つない。代わりに、棒の根元が黒くなっていた。
「皿、揺れていません」
フェリクスの声。後ろへは行っていない。でも、狙ったところにも行っていない。
レオは棒に駆け寄って、根元に触った。指先が冷たく濡れた。
「……湿ってる」
朝露だった。棒の根元の、地面に近いところだけ、まだ乾ききっていない。光は、板よりも濡れた棒のほうへ引っぱられたのだ。夏に皿の縁の水溜まりへ逸れたのと、同じだった。
「もっと強くすれば、狙いどおり行くかも」
言いかけて、レオは自分で首を振った。
強くすれば、たぶん板には届く。でも、そのぶん棒にも、地面にも、その後ろにも、よけいに流れる。届いてほしくないところまで。
「拭く」
レオは布で棒の根元を拭いた。それでも残る湿りは、火で少し温めて飛ばした。それから、もう一つ変えた。
熱の道を、外へ開くだけではなく、開く先に、細い道を先に作っておく。風で空気を細く通し、そのまわりだけ、ほんの少し水で湿らせる。台から的まで、見えない糸を一本張っておくみたいに。乾いた空気の中に、その糸の上だけ、光が通りやすいように。
「さっきより、狭くする」
二回目。
ちりっ。
光は糸の上を走った。
曲がらなかった。台から三歩、ひと息に木片の真ん中へ。ぱしっ、と乾いた音がして、松の板に、親指の先ほどの黒い焦げがついた。焦げから、細い煙がひと筋、立ちのぼった。
「皿は」
「揺れていません」
フェリクスは顔を上げずに言った。
「木くず、一つも動いていません。後ろには来ていません」
レオは的に駆け寄った。焦げに鼻を近づける。松やにの焦げた匂いと、夕立の前の匂い。焦げの周りを指でなぞると、まだ温かかった。
「止まった。ここで」
「止まりました」
師匠が霜の壁の向こうから顔を出した。壁は真っ白なままだった。
三回目はわざと何も変えずにやった。
光は的に当たった。ただ、焦げは真ん中から指一本ぶん右。それでも、皿の木くずは動かなかった。
三回のうち二回、狙った場所へ通って、その先には一度も届かなかった。
レオは的の板を棒から外して、両手で持ち上げた。焦げが二つ、並んでいる。
「こっちのほうが丸い」
真ん中の焦げを指さすと、フェリクスが横からのぞきこんだ。
「右のほうが丸いです」
「いや、真ん中のほうが丸いって。右のは、ちょっと涙みたいな形してる」
「涙の形は、丸に近いです」
「近くない」
「では、測ります」
フェリクスは本当に寸法帳を出して、二つの焦げの縦と横を、細い物差しで測りはじめた。真ん中の焦げは、縦と横が同じだった。右の焦げは縦のほうが少し長かった。
「……真ん中のほうが丸いですね」
「ほら」
「ですが、右のほうが濃いです」
「それ、今関係ある?」
昼すぎに、レオは一つ試してみたくなった。
光が出たあと、そのまますぐに、もう一回。二回続けて撃てたら、すごいと思ったのだ。
一回目は出て、的に当たった。そのまま、手を休めずに、二回目の雲を作ろうとした。
作れなかった。
熱は皿の外へ逃げてしまって、もうない。冷たさも、風の輪も、さっきの一回でほどいてしまった。もう一度光を出すには、湯気を上げるところから、全部やり直さないといけない。そしてやり直そうとした腕は、さっきの一回の分だけ、ずしりと重かった。
「……続けては、無理だ」
「一回ごとに、雲から作るので」
「うん。それに、出したあと、腕がすごく疲れる」
レオは腕を振った。剣を振るのとは違う疲れだった。腕の中の、細いところが、全部いっぺんに使われたみたいな。
「走りながら出すとか、剣と一緒に出すとか、そういうのは、まだずっと先だな」
フェリクスはその一言も、ちゃんと帳面に書いた。
*
秋の終わりに、師匠が研究室の机いっぱいに、古い本と手紙を広げた。
夏から、知り合いの研究者たちに手紙を出し、塔の書庫を全部ひっくり返して、同じような光の記録を探していたのだ。
「空の雷の記録はたくさんある。雷を呼ぶという術の言い伝えも、いくつかある。でも、火と水と風を合わせて、小さな光を狙った場所へ渡したという記録は、今のところ、どこにもない」
師匠は手紙の束を、とんとそろえた。
「少なくとも、今生きている人の中ではね。古い時代のことは、まだ分からない」
「じゃあ、僕が最初?」
「今のところは、ね」
レオは、その「今のところ」が好きだった。最初かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。どこかに、まだ知らない誰かがいるかもしれない。
冬は、雷よりも、地味な練習が多かった。
火だけで、湯気の量を毎回同じにする練習。水だけで、皿の縁に置く湿りを、指でなぞっても分からない薄さにそろえる練習。風だけで、細い糸の道をまっすぐ張る練習。三つがそれぞれ正確になればなるほど、光は短く、細く、狙ったところでちゃんと止まるようになった。
ベルナルトとの三手の稽古も続いていた。三手は毎回受けられるようになった。四手目は、まだ一度も受けきれなかった。
「四手目、どうやったら受けられるの」
「三手目を受けたあとに、まだ構えていることだ」
「それ、去年も聞いた」
「去年も同じことをしていたからな」
ベルナルトの眉が、少しだけ動いた。
春の一月十日。十一歳の誕生日の朝、厨房の裏口で、レオは家政長のドーラにつかまった。
ドーラは王宮の台所と洗濯場と、井戸から運ぶ水の全部を取り仕切っている、背の低い、声の大きい人だった。袖を肘まで縛り上げて、腰に大きな鍵束を下げている。
「殿下。お誕生日おめでとうございます。それで、ちょっとお願いがあるんですがね」
「なに? また僕、どこか濡らした?」
「雷を当てられるようになったって、詰所でもっぱらの噂でしてね。それほど水と風を細かく扱えるなら――」
ドーラは、裏口の外に並んだ、二十いくつもの空の水桶を指さした。
「春の大掃除の間だけ、うちの水運びを手伝っていただけませんかね。井戸から台所まで、毎朝、半日がかりなんですよ」
レオはずらりと並んだ水桶を見た。それから、自分の手を見た。
皿の上の雨と、木片の焦げ。手のひらに乗るくらいの小さなものばかり、ずっと扱ってきた。王宮じゅうの人が使う水は、それよりどれくらい多いんだろう。
「やる」
言ってから、ちょっとわくわくしてきた。
「明日の朝、一番に行くよ。桶、全部いっぺんに満たしてみせる」
ドーラの眉が、ベルナルトとは比べものにならないくらい、大きく上がった。
「……全部いっぺんに、ですか」




