石に預けた水
井戸の水が空に向かって立ち上がった。
夜明けの厨房裏で、レオは両手を井戸の口にかざしていた。水を引き上げ、風で包み、一本の太い柱にして持ち上げる。柱の先を、裏口の前に並んだ二十いくつの水桶のほうへ傾ければ、あとは端から順番に注ぐだけだ。
「殿下っ、お待ちなさい!」
ドーラの声が柱より高く響いた。
家政長は鍵束をじゃらじゃら鳴らしながら駆けてきて、水桶の列の前に両手を広げて立ちはだかった。
「その水、どの桶に入れるおつもりで」
「全部。一回で、ざばーっと」
「全部は困ります!」
ドーラは桶を一つずつ指さした。
「こっちの六つは厨房。北の井戸の冷たい水でないと、肉が傷みます。こっちの八つは洗濯場。日なたの溜め池の、ぬるい水のほうが汚れが落ちる。そこの四つは庭師の。雨水樽の水で十分。で、殿下が今持ち上げてらっしゃるのは、奥の深井戸の水。飲み水です。陛下のお茶にもなる水を、洗濯に回されちゃたまりません」
レオは、空中に浮いたままの水の柱を見上げた。
どの水も同じだと思っていた。水は水だと。
「……戻します」
水の柱をそうっと井戸に戻した。
それから二人で、王宮の裏手を全部歩いた。
北の井戸、日なたの溜め池、雨水樽、深井戸。どの水がどこで使われ、どの道を運ばれているか。ドーラは歩きながら全部しゃべった。レオは全部手帳に書いた。
運ぶ道の途中に、古い石の樋が通っているのを見つけたのはレオだった。昔、雨水を流すのに使っていたもので、今は枯れ葉が詰まっている。
「水を全部まとめて運ぶんじゃなくて、それぞれの水を、それぞれの樋で流したらどう? 僕は、樋の詰まったところと、坂が足りないところだけ、風と水で押す」
三日後、北の井戸の水は厨房へ、溜め池の水は洗濯場へ、細い流れになって勝手に届くようになった。半日がかりだった水運びは、朝食の鐘の前に終わった。
ドーラは樋の終わりに置いた桶を見下ろし、腕を組んだ。
「全部いっぺんより、ずっと早いじゃありませんか」
その話は、その日の夕食で父の耳に入った。
父はスープをすくう手を止めて、しばらくレオを見ていた。
「水が使われるところを、見たいか」
「見たい。どこ? 遠い?」
「来週、灰冠鉱谷へ視察に行く。保流石の採掘場だ。一緒に来なさい」
*
灰冠鉱谷は、王都から早馬で六時間の北東にあった。
谷の両側に、灰色の岩の崖がそびえている。崖のてっぺんがぎざぎざに欠けていて、遠くから見ると、本当に灰色の冠をかぶっているように見えた。谷底には川が流れ、その両岸に、採掘民の家と倉庫と、坑道の入り口がいくつも並んでいた。
父の一行に、護衛のベルナルトと、従者としてフェリクスも加わっていた。
「殿下、こっちこっち」
谷に着いた翌朝、レオを手招きしたのは、採掘頭のゴードだった。顔も手も灰色の粉にまみれた大男で、笑うと歯だけが白い。足元に、八つくらいの女の子がくっついていた。ゴードの娘のピアだった。
「保流石の端っこだ。売り物にならないかけら。見たいって言ってたろう」
ゴードは、木箱いっぱいの石のかけらをレオの前に置いた。
灰色に青い筋が入った石だった。大きさはばらばら。手に取ると、見た目よりずっと軽い。
「これに水をかけるとな」
ゴードは柄杓で水をかけた。石が水を吸った。表面がすっと濃い色になり、やがて石の下の端から、細い水が垂れはじめた。ぽた、ぽた、と、のんびりと。
「水を預かって、少しずつ返す石だ。畑の溝に埋めときゃ、雨の降らない日でも根っこが乾かない」
レオは石に耳を近づけた。ぽた、ぽた。
霜晶みたいだ、と思った。師匠の霜は預けた水を順番に返す。この石は、預けた水をゆっくり返す。
箱の中の石を次々に水につけてみた。
すぐに全部吐き出してしまう石がある。いつまでたっても一滴しか出さない石もある。同じ谷の、同じ色の石なのに、水を返す速さがまるで違う。
「これ、出来の悪いのが混ざってるの?」
ピアがむっとした顔をした。
「悪くないもん」
「ピアの言うとおりだ」ゴードが笑った。「すぐ吐き出す石は、水車の溜めに使う。ちょびちょびしか出さない石は、畑だ。畑にはな、長く、弱く、ずっと流れてくれるのがいちばんいい。どの石も、どこかで役に立つ」
レオは手の中の石を見下ろした。
すぐ吐き出す石を、勝手に不良品だと思っていた。でも、それは使う場所を知らなかっただけだ。
「フェリクス、器、三つ」
フェリクスが、旅の荷物から木の椀を三つ出した。レオは三つの石を選んで、それぞれの椀の上に置いた。柄杓で同じ量の水をかける。
「どのくらい長く水を返すかと、どのくらいたくさん預かれるか。たぶん、別々なんだ」
「別々に測るんですね」
フェリクスが砂時計をひっくり返した。
一つ目の石は、たくさん預かって、すぐに返した。二つ目は、少ししか預からないのに、いつまでもぽたぽた返しつづけた。三つ目は、たくさん預かって、ゆっくり返した。
ピアが三つ目の石を指さした。
「それ、いちばん高く売れるやつ」
「やっぱり。いちばん欲張りな石だもんね」
「でも、うちの畑には二つ目のがいい。母ちゃんが言ってた」
ゴードが娘の頭をくしゃくしゃになでた。
昼は、採掘民たちと一緒に、坑道の入り口の前の岩に座って食べた。
ゴードの家の弁当だった。黒い硬いパンに、塩漬けの羊肉を挟んだもの。酸っぱい蕪の漬物。ピアが自分の分の漬物を一切れ、レオのパンの上にのせてくれた。
「酸っぱっ」
「でしょ」
ピアは得意そうだった。
レオは黒パンをかじりながら、谷を見回した。坑道から運び出される石、それを選り分ける人、荷車に積む人、倉庫で値札をつける人。師匠の研究室の棚に並んでいた保流石の標本も、きっとこういう人たちの手を通って、塔まで来たのだ。
「この石、ルーデンでしか採れないの?」
隣で同じ弁当を食べていた父が、首を振った。
「グランゼルの山でも採れる。南の国にもある。ルーデンの石が高く売れるのは、ゴードたちの選び分けと、運び方がいいからだ。山を持っているからではない」
「じゃあ、選ぶ人と運ぶ人がいなくなったら」
「ただの、水を吸う石だな」
父は真面目な顔で言って、漬物をかじり、少し顔をしかめた。
午後、レオは持ち帰る端材の一つ一つに、釘で小さく印を刻んだ。どの坑道の、どの深さから出た石か。ゴードに聞きながら。
それを見ていた運搬係の若者が、声をかけてきた。ハンネスという名前の、日に焼けた細身の男だった。
「殿下、石の出どころをそんなに気にするなら、帰りに運ぶ道も見ていきますか。王都への荷車の道。途中まで、俺が案内しますよ」
「行く。荷車の道も見たい」
即答してから、レオは倉庫の壁に貼られた、古い図に目をとめた。
谷の安全図だった。坑道と道が細い線で描いてある。王都へ荷車が通る大きな道は、谷の西側を通っている。でも、その南に、もう一本、細い点線があった。
――南旧道。
「この道なら、ずっと近いんじゃない?」
*
翌朝、南旧道の入り口で、ベルナルトが立ち止まった。
「俺の見える範囲までだ」
「全部行かないの?」
「全部行くかどうかは、見てから決める」
旧道は昔の採掘路だった。崖の下をくりぬいた細い道で、荷車がぎりぎり通れるくらいの幅がある。ベルナルトは一歩ごとに、足を置く前に、つま先で地面を軽く叩いた。叩いてから、体重をのせる。レオもまねをした。
途中で、灰色の上着を着た女の人が、崖に紐を張って何かを測っていた。測量係のイーダだった。
「荷車なら倉庫の裏までは通れますよ。でも、その先は、歩く幅を測り直してるところ。古い図の幅と、今の幅が、合わないんです」
「合わないの? 図なのに?」
「崖がちょっとずつ削れたり、崩れたりしてね。図は二十年前のだから」
旧道の途中から、谷の北側が見えた。北の崖の中腹に、黒い穴が一つ開いている。古い坑道の口だった。
ベルナルトが懐から、折りたたんだ図を出した。近衛が持たされている軍の地図だった。そこには、北の穴から谷の外へ抜ける線が引いてあり、横に「北隧道・空洞」と書いてあった。
「北隧道。中は空っぽの古い通路だ。今は誰も使っていない」
レオは北の穴を見た。
穴の口の下の岩肌に、黒っぽい筋が何本も垂れていた。
濡れた跡だった。それも新しい。古い苔の跡とは色が違う。穴の口から、岩の割れ目に沿って、水が染み出している。
「空っぽなのに、なんで濡れてるの」
ベルナルトが地図から顔を上げた。
イーダがレオの指さした先を見た。それから、自分の腰の袋から、紙の束を一つ出した。
「去年、私が出した地質の報告では、北の隧道の下は、水を含んだ層だって書いたんですよ。……でも、軍の図は古いままなんですね」
レオは自分の手帳を開いた。
旧道を、もう少し先まで行きたかった。行けば、この近道がどこまで使えるか分かる。足がうずうずした。
でも、ベルナルトはもう、つま先で地面を叩くのをやめて、来た道のほうを向いていた。
「ここまでだ」
「もうちょっとだけ」
「測り直しの終わっていない道に、王子を連れていく理由はない」
レオは唇を噛んで、黙ってうなずいた。
代わりに手帳に描いた。南旧道の、今日歩けたところまでの線。イーダが測った、新しい幅の数字。そして谷の向こう、北の穴から垂れる、図には描いていない濡れた筋。水がどこから来て、どこへ流れていくのか、矢印を一本ずつ。
描きながら、レオは一枚、紙を余分に用意していた。
同じものをもう一枚描くつもりだった。
「それ、誰の分?」
のぞきこんだフェリクスに、レオは答えた。
「母上の。近道を探してたって言ったら、絶対に、どこまで行けたのか聞くから」




