割れた台を捨てない
鉄の板がびくともしなかった。
「せー、のっ」
レオとフェリクスは二人がかりで板の端をつかみ、顔を真っ赤にして持ち上げた。指一本ぶんだけ浮いて、すぐにどすんと落ちた。工房室の床が揺れ、壁に掛けた火ばさみがかちゃかちゃ鳴った。
「……重い。これ、床にくっついてない?」
「くっついていません。重いだけです」
真夏の工房室は、窓を開けても熱がこもっていた。近衛の武具庫の隣にある古い部屋で、昔は馬具の金具を直すのに使っていたらしい。今は使う人がいないので、フェリクスが頼みこんで、夏の間だけ借りている。
床の上には、指二本ぶんの厚さの鉄板が一枚。これを台にすれば、どんな皿を載せても揺れない。それは間違いなかった。問題は、載せたあと誰も動かせないことだった。
「動く台を作るのに、動かない台ができました」
フェリクスは額の汗を袖でぬぐい、まじめな顔で言った。レオは床に座りこんで、笑い出した。
「これ、温室まで運ぶだけで夏が終わるよ」
「では、次は薄くします」
フェリクスは土と火の二つを持っている。
炉に鉄を入れ、火の術で赤くし、土の術で鉄の中の具合を感じ取りながら、金槌で叩いて伸ばす。普通の鍛冶屋が一日かける仕事を、半日でやってしまう。王宮に来たばかりのころ、騎士の家の三男が二つも属性を持っているなんて、と大人たちが噂していたのを、レオは覚えている。
薄い板を二枚作って、縁を叩いてつなぎ合わせた。軽い。片手で持ち上がる。
「いける!」
レオはさっそく、銅の皿に水を張って、真ん中に置いた。
ぱきん。
乾いた音がして、つなぎ目から板が二つに割れた。皿が傾き、水がフェリクスの靴にかかった。
水たまりの中で、二人ともしばらく動かなかった。
「……一回目の荷重で、ですか」
フェリクスは割れた板を拾い上げ、割れ口をじっと見つめた。指で何度もなぞる。眉の間に細いしわが寄っていた。
レオは靴の水を払いながら、思いついたことをそのまま口にした。
「下から風で支えたらどう? 板は薄いままで、重いぶんは僕が風で持つ」
「駄目です」
即答だった。
「台の下で風を回したら、皿の周りの空気が変わります。レオが観測したいのは、皿の上の空気でしょう。台が勝手に空気を動かしたら、何を測っているのか分からなくなります」
「……それは、そうだけど」
「それに」
フェリクスは割れた板を作業台に置いた。
「台の重さをレオが持つなら、それは台ではありません。レオの腕です」
レオは口をつぐんだ。
言い方は丁寧だった。でも、いつもより少し早口だった。
*
昼の鐘が鳴っても、二人は工房室から出なかった。
板を三枚にするか、二枚のままつなぎ方を変えるか。それで言い合いになった。
「三枚にしたら、また重くなるだろ」
「二枚のままでは、また割れます」
「つなぎ方を変えればいいじゃん」
「どう変えるんですか」
「それを今考えてるんだって」
フェリクスは返事をせず、炉の火を見ていた。レオは割れた板の破片を拾い集めて、意味もなく並べていた。
しばらくして、フェリクスがぽつりと言った。
「先月、叔父に言われました」
レオは破片を並べる手を止め、顔だけ上げた。
「火と土の二つ持ちを、王子の荷物持ちに使うな、と。せっかくの二属性がもったいないと」
レオの手が止まった。
フェリクスは炉のほうを向いたままだった。
「私は、荷物持ちだと思ったことはありません。従者は自分で選びました。やめたいとも思っていません」
炉の火がぱちっとはぜた。
「ただ、私の作った物で、レオの実験が変わるところを見てみたいんです。私がいなくても同じ結果が出るなら、叔父の言うとおりになってしまうので」
レオは何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
温室で雲の下側を見ていたのはフェリクスだった。ベルナルトの稽古で、踵の跡に石を置いたのもフェリクスだった。それなのに、手帳に書いてあるのは、いつもレオの名前だけだ。
レオは黙って、並べていた破片を二つ手に取った。割れた板の、割れ口同士を重ねてみる。
あれ、と思った。
「フェリクス、これ。ちょっと来て」
フェリクスは炉から目を離さなかった。
「割れ方が、全部同じ向きだ」
フェリクスが振り向いた。
破片の割れ口には、細い筋が走っていた。木の木目みたいに、鉄の中にも筋がある。叩いて伸ばした向きにそろっているのだ。そして板は二枚とも、その筋に沿って、まっすぐ割れていた。
「同じ向きに伸ばした板を二枚重ねたから、同じところで割れたんだ。だったら――」
「一枚を縦に、もう一枚を横に」
フェリクスの声が、レオの声に重なった。
二人は顔を見合わせた。フェリクスはもう炉に鉄を入れていた。
*
日が傾きかけたころ、三枚目の台ができた。
薄い板が二枚。一枚は縦に、一枚は横に伸ばしたものを、筋が十字に交わるように重ねて留めてある。脚はさっき割れた板の残りから作った。持ち上げると、片手でぎりぎり運べる重さだった。
レオは小さな銅の皿に水を張り、そっと載せた。
割れない。
指で台の端を押しても、ぐらつかない。
「大皿も試していい?」
「どうぞ。割れたら、四枚目の材料にします」
大きい素焼きの皿に水を張って載せた。台がみしっと鳴った。フェリクスがすぐに皿を持ち上げる。板の真ん中が、ほんの少しだけたわんでいた。
「大皿は無理ですね」
「……そっか」
レオは少しがっかりして、それから、こっそり手のひらを台の裏に向けた。板と板の間に薄い水の膜を張れば、たわみくらいは押さえられるかもしれない。
「レオ、手」
「手? 手がどうしたの」
「今、台の裏に何かしようとしましたね」
「……してない」
「しようとしました」
レオは手を下ろした。
「やめる。台の裏に水を入れたら、それも僕の腕になっちゃうもんな」
フェリクスは何も言わず、小刀を取り出した。台の側面に小さな字を彫りはじめる。
――小皿一枚まで。
「完成品ではないので」と彼は言った。「どこまで使えるか、台に書いておきます。次に使う人が、間違えないように」
その日の夕方、二人は台を温室まで運んだ。
小さな銅の皿を一枚、台に載せる。湯気を上げ、風の輪で囲み、雲を作る。初夏の中庭で母に約束したとおり、風の輪には一か所だけ出口を残した。台を指一本ぶんずつ動かして、出口と皿の位置を合わせていく。
雲が細くなった。
出口に向かって、白い糸のように一筋だけ伸びていく。ほかのところからは、少しも漏れない。台をずらすと、糸の向きもついてくる。
「出口、こっちで決められた」
レオは小声で言った。
「台が動くから、決められた」
フェリクスは雲の下側を見ていた。さっきまでの早口は、もうどこにもなかった。
工房室に戻ると、作業台の上には割れた板が三枚と、重すぎる鉄板が一枚、残っていた。レオがそれを片づけようとすると、フェリクスが止めた。
「捨てないでください。割れ方が全部違うので、あとで見比べたいです」
二人は割れた板を、壁ぎわに順番に立てかけた。一枚目、二枚目、重すぎた板。その隣に、使える台の寸法を書いた紙を貼る。
フェリクスの寸法帳を借りて、レオは今日の頁の一番上に、自分の名前を書いた。それから、その隣に、同じ大きさの字で書き足した。
――観測・製作、フェリクス。
フェリクスはその頁をしばらく見ていた。何も言わない。ただ、帳面を閉じる手つきが、いつもよりていねいだった。
工房室の扉がばんと開いた。
「いたいた。レオ、それとフェリクス」
立っていたのは、次兄のユリウスだった。十二歳でレオより頭一つ背が高い。手に、丸めた紙を一本持っている。
「秋の旗取り、今年はお前も入れてやるって兄上が言ってる。三人勝負だ」
「ほんと? 兄上が? 僕も旗、取っていいの?」
「ほんと。ただし、決まりが一つ増えた」
ユリウスは紙を広げた。長兄エドガーの、きちっとした字が並んでいる。
――取った旗は、自分の籠に入れて、自分で持ち帰ること。落とした旗は数えない。
ユリウスは、壁ぎわの割れた板と、レオの手にある寸法帳とを見比べて、にやっと笑った。
「お前、去年、霧で旗を全部隠そうとしただろ。今年は運ぶほうで泣かせてやるってさ」




