母の袖を取りにいく
中庭の回廊で母が深く頭を下げていた。
相手は東の領主の奥方で、羽根飾りのついた帽子をかぶり、侍女を三人も連れている。母は第二妃の顔で笑い、相手の話に二度うなずき、最後に「また秋に、ぜひ」と言った。その声は、稽古場で聞く声より一段高くて、やわらかかった。
奥方の一行が回廊の角を曲がって見えなくなった、その瞬間だった。
母は肩を一つ回し、首をこきっと鳴らし、柱に立てかけてあった木剣をつかんだ。
「お待たせ。さあ、やりましょうか」
声がいつもの低さに戻っていた。
レオは中庭の真ん中で木剣を握ったまま、母の格好を見た。来客用の、薄青い長い衣装。裾は地面すれすれで、袖は手首のところから大きく広がって、まるで鳥の羽みたいに垂れている。
「母上、着替えないの?」
「着替えないわよ。袖が大きいほうが、取りやすいでしょう」
母は片方の袖をひらりと振ってみせた。
「九歳の挑戦者へのおまけ。そのかわり、手加減はしないから」
回廊の柱の陰では、母の侍女が両手で顔を覆っていた。あの衣装の裾が砂まみれになるのを、もう覚悟しているらしい。その隣でフェリクスが焼き菓子の籠を抱え、さらにその隣の手すりには、セシリアが紙を広げて腰かけていた。本当に見に来たのだ。
「決まりは覚えてる?」
「袖に触ったら、僕の勝ち。母上の剣が僕に当たったら、母上の一本」
「そう。勝ったらお菓子を選ばせてあげる。籠の中で、いちばん大きいのをね」
フェリクスが籠を少し持ち上げた。干し杏をのせた焼き菓子が、一つだけ、ほかより明らかに大きい。
「それと、レオ。何か考えてきたんでしょう。顔に書いてあるわよ」
「……分かる? 顔、ちゃんと洗ってきたのに」
「昨日の夜、食堂で、ずっと指で机に丸を描いてたもの」
母は木剣の切っ先を下げたまま、中庭の端まで数歩下がった。
「見せてごらんなさい。準備ができるまで待っててあげる」
レオは息を吸った。
昨日、丘の窪地で見た。影のところにだけ、霧の粒が残っていた。
しゃがんで、中庭の白い砂に手のひらを当てる。風を、足元から、ゆっくり回す。砂が舞い上がった。最初は膝の高さ、それから胸の高さ。母とレオの間に、白っぽい砂の幕が、ぐるりと輪になって立ちのぼる。
回廊の侍女が小さく悲鳴を上げた。
輪の中の風は全部同じ強さにした。ただ一か所、母から見て右手前のところだけ、わざと風を弱くしておいた。窪地の影みたいに。そこだけ砂が薄くなって、向こうが透けて見える。
あそこから飛びこめば、母の右の袖に届く。
「いい砂煙ね」
幕の向こうから、母の声がした。楽しそうだった。
「行くよ。母上、目をつぶっててもいいよ」
「あら、優しいのね。開けたまま待つわ」
レオは走った。
砂の薄いところが、目の前で口を開けている。母の薄青い袖が、その奥にひらりと見えた。一直線だ。レオは腕を伸ばして飛びこんだ。
こつん。
頭の上に木剣が乗っていた。
砂の幕を抜けたちょうどその場所に、母の剣が先に来て、待っていた。
「一本」
母は剣をレオの頭に乗せたまま、にっこりした。
「……なんで」
「なんでって。あなたが開けた穴でしょう」
レオは砂の中に立ちつくした。
風が弱いところは、外から見れば一目で分かる。砂が薄いのだから。母は剣を下げて待ちながら、それを見ていた。どこから来るか、レオが自分で教えていたのだ。
「僕が選んだ道だと思ったのに」
「選んだのはあなたよ。私は、そこに剣を置いておいただけ」
母は剣を下ろし、もう一度、中庭の端まで下がった。袖の裾がもう砂で白くなっていた。
「もう一回、やる?」
「やる。今のは、練習」
*
二度目も、レオは同じように砂の輪を立てた。
ただし今度は、風の弱いところを作らなかった。輪を全部同じ強さで回し、向こうが見えないようにした。これなら、どこから来るか分からないはずだ。
ところが、輪を回しはじめてすぐ、右手前の砂がふっと薄くなった。
レオが作ったのではない。輪の向こうで母が一歩だけ動いたのだ。剣を横へ払ったのか、それとも衣装の裾でわざと風を受けたのか。砂の流れが母の体に当たって割れ、さっきとそっくり同じ場所に、透けた穴が開いていた。
レオの足が勝手にそっちへ向きかけた。
――同じ穴だ。
さっき、そこには剣が待っていた。
レオは走った。穴へ向かって、一直線に。母の袖が見える。剣はたぶん、さっきと同じ高さに置いてある。
穴の手前で、右足を半歩、外へ踏み替えた。
ベルナルトの三手目のときと同じだった。押してくる力の横へ、体をずらす。穴の真ん中ではなく、穴のふちの、砂がまだ濃いところへ。目に砂が入って、何も見えなくなった。その代わり、指先に何かが触れた。
さらりとした、薄い布の感触。
同じ瞬間、頭の上に、こつん、と木剣が乗った。
砂が落ちていく。
視界が戻ると、母の顔がすぐ近くにあった。木剣はレオの頭の上に乗っていて、レオの指先は、母の左の袖の端を、ほんの一つまみぶんだけつまんでいた。
どちらも、すぐには口を開かなかった。
二人は同時に相手の手元を見た。
「一本」母が言った。「剣のほうが、ほんの少しだけ早かった」
「袖、触った。触ったよ、ほら、指」
「触ったわね。砂だらけの指で」
「じゃあ、引き分け?」
「勝負は勝負。一本は私よ」
母はそう言ったが、口の端が上がっていた。それから、左の袖を持ち上げてレオの目の前で広げてみせた。薄青い布の端に、砂だらけの小さな指の跡が、くっきり残っていた。
「でも、これは見て。あなたの手よ。同じ穴に二度は飛びこまなかった。最初の一本より、こっちのほうがずっと嬉しいわ」
回廊で拍手が起きた。セシリアだった。膝の上の紙には、砂の輪と、二本の矢印が描いてある。一本は穴へまっすぐ、もう一本は、穴の手前でちょっと右へ折れていた。
「負けたけど、ちゃんと地図に描いたよ」
「負けたは余計」
*
お菓子は結局二人で分けた。
回廊の段に並んで座り、母がいちばん大きい干し杏の焼き菓子を二つに割る。割れ目はずいぶん片寄っていて、大きいほうがレオの手に乗せられた。
「勝ったのは母上なのに」
「いちばん大きいのを選べるのは勝った人。選んだ人が誰にあげるかは、自由でしょう」
母は自分の小さいほうをかじり、砂だらけの裾を気にする様子もなく、脚を伸ばした。侍女が遠くで天を仰いでいる。
「ねえ、レオ。最初の砂煙、わざと弱いところを作ったでしょう」
「うん。丘で、影のところにだけ霧が残ってたんだ。風の壁にも、そういう場所を作れると思って」
「面白いわね。剣の稽古じゃ、まず思いつかないわ」
母は菓子のかけらを指で払い、少し考えるように空を見た。
「ただ、守っている側から見るとね。穴が一つしかない壁は、そこを見張っていればいいから楽なのよ。穴が二つあったら、私でも少し困ったかもしれない」
「二つ……」
レオは手の中の菓子を見つめた。それから、ぱっと顔を上げた。
「温室でやる。風の輪に出口を一つだけ残すんだ。雲がどこから漏れるか、こっちで決められるかもしれない。決められたら、次は二つ」
「試せたら教えて。私の窓辺の鉢の予約も、まだ残ってるんだから」
母はあっさり言って、立ち上がった。
「私はこれから軍務の打ち合わせ。この格好で行ったら、ベルナルトに笑われるわね」
「ベルナルトは笑わないよ。眉が動くだけ」
「それを笑うって言うのよ」
母は木剣を侍女に渡し、砂だらけの裾をつまんで、回廊を歩いていった。途中で一度振り返り、袖の指の跡を高く掲げて見せた。
レオは手を振り返し、残りの菓子を口に押しこんで、隣のフェリクスに向き直った。
「フェリクス、温室の実験台、動かせる?」
「あれは石の台です。動きません」
「じゃあ、動く台がいる。出口の場所に合わせて、皿の位置を変えたいんだ」
フェリクスは空になった籠を膝に置いたまま、しばらく黙った。
その目が、いつもの帳面をめくるときとは違う光り方をしていた。
「……作ってもいいですか。私が」




