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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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母の袖を取りにいく

中庭の回廊で母が深く頭を下げていた。

 相手は東の領主の奥方で、羽根飾りのついた帽子をかぶり、侍女を三人も連れている。母は第二妃の顔で笑い、相手の話に二度うなずき、最後に「また秋に、ぜひ」と言った。その声は、稽古場で聞く声より一段高くて、やわらかかった。

 奥方の一行が回廊の角を曲がって見えなくなった、その瞬間だった。

 母は肩を一つ回し、首をこきっと鳴らし、柱に立てかけてあった木剣をつかんだ。

「お待たせ。さあ、やりましょうか」

 声がいつもの低さに戻っていた。

 レオは中庭の真ん中で木剣を握ったまま、母の格好を見た。来客用の、薄青い長い衣装。裾は地面すれすれで、袖は手首のところから大きく広がって、まるで鳥の羽みたいに垂れている。

「母上、着替えないの?」

「着替えないわよ。袖が大きいほうが、取りやすいでしょう」

 母は片方の袖をひらりと振ってみせた。

「九歳の挑戦者へのおまけ。そのかわり、手加減はしないから」

 回廊の柱の陰では、母の侍女が両手で顔を覆っていた。あの衣装の裾が砂まみれになるのを、もう覚悟しているらしい。その隣でフェリクスが焼き菓子の籠を抱え、さらにその隣の手すりには、セシリアが紙を広げて腰かけていた。本当に見に来たのだ。


「決まりは覚えてる?」

「袖に触ったら、僕の勝ち。母上の剣が僕に当たったら、母上の一本」

「そう。勝ったらお菓子を選ばせてあげる。籠の中で、いちばん大きいのをね」

 フェリクスが籠を少し持ち上げた。干し杏をのせた焼き菓子が、一つだけ、ほかより明らかに大きい。

「それと、レオ。何か考えてきたんでしょう。顔に書いてあるわよ」

「……分かる? 顔、ちゃんと洗ってきたのに」

「昨日の夜、食堂で、ずっと指で机に丸を描いてたもの」

 母は木剣の切っ先を下げたまま、中庭の端まで数歩下がった。

「見せてごらんなさい。準備ができるまで待っててあげる」

 レオは息を吸った。

 昨日、丘の窪地で見た。影のところにだけ、霧の粒が残っていた。

 しゃがんで、中庭の白い砂に手のひらを当てる。風を、足元から、ゆっくり回す。砂が舞い上がった。最初は膝の高さ、それから胸の高さ。母とレオの間に、白っぽい砂の幕が、ぐるりと輪になって立ちのぼる。

 回廊の侍女が小さく悲鳴を上げた。

 輪の中の風は全部同じ強さにした。ただ一か所、母から見て右手前のところだけ、わざと風を弱くしておいた。窪地の影みたいに。そこだけ砂が薄くなって、向こうが透けて見える。

 あそこから飛びこめば、母の右の袖に届く。


「いい砂煙ね」

 幕の向こうから、母の声がした。楽しそうだった。

「行くよ。母上、目をつぶっててもいいよ」

「あら、優しいのね。開けたまま待つわ」

 レオは走った。

 砂の薄いところが、目の前で口を開けている。母の薄青い袖が、その奥にひらりと見えた。一直線だ。レオは腕を伸ばして飛びこんだ。

 こつん。

 頭の上に木剣が乗っていた。

 砂の幕を抜けたちょうどその場所に、母の剣が先に来て、待っていた。

「一本」

 母は剣をレオの頭に乗せたまま、にっこりした。

「……なんで」

「なんでって。あなたが開けた穴でしょう」

 レオは砂の中に立ちつくした。

 風が弱いところは、外から見れば一目で分かる。砂が薄いのだから。母は剣を下げて待ちながら、それを見ていた。どこから来るか、レオが自分で教えていたのだ。

「僕が選んだ道だと思ったのに」

「選んだのはあなたよ。私は、そこに剣を置いておいただけ」

 母は剣を下ろし、もう一度、中庭の端まで下がった。袖の裾がもう砂で白くなっていた。

「もう一回、やる?」

「やる。今のは、練習」


  *


 二度目も、レオは同じように砂の輪を立てた。

 ただし今度は、風の弱いところを作らなかった。輪を全部同じ強さで回し、向こうが見えないようにした。これなら、どこから来るか分からないはずだ。

 ところが、輪を回しはじめてすぐ、右手前の砂がふっと薄くなった。

 レオが作ったのではない。輪の向こうで母が一歩だけ動いたのだ。剣を横へ払ったのか、それとも衣装の裾でわざと風を受けたのか。砂の流れが母の体に当たって割れ、さっきとそっくり同じ場所に、透けた穴が開いていた。

 レオの足が勝手にそっちへ向きかけた。

 ――同じ穴だ。

 さっき、そこには剣が待っていた。

 レオは走った。穴へ向かって、一直線に。母の袖が見える。剣はたぶん、さっきと同じ高さに置いてある。

 穴の手前で、右足を半歩、外へ踏み替えた。

 ベルナルトの三手目のときと同じだった。押してくる力の横へ、体をずらす。穴の真ん中ではなく、穴のふちの、砂がまだ濃いところへ。目に砂が入って、何も見えなくなった。その代わり、指先に何かが触れた。

 さらりとした、薄い布の感触。

 同じ瞬間、頭の上に、こつん、と木剣が乗った。


 砂が落ちていく。

 視界が戻ると、母の顔がすぐ近くにあった。木剣はレオの頭の上に乗っていて、レオの指先は、母の左の袖の端を、ほんの一つまみぶんだけつまんでいた。

 どちらも、すぐには口を開かなかった。

 二人は同時に相手の手元を見た。

「一本」母が言った。「剣のほうが、ほんの少しだけ早かった」

「袖、触った。触ったよ、ほら、指」

「触ったわね。砂だらけの指で」

「じゃあ、引き分け?」

「勝負は勝負。一本は私よ」

 母はそう言ったが、口の端が上がっていた。それから、左の袖を持ち上げてレオの目の前で広げてみせた。薄青い布の端に、砂だらけの小さな指の跡が、くっきり残っていた。

「でも、これは見て。あなたの手よ。同じ穴に二度は飛びこまなかった。最初の一本より、こっちのほうがずっと嬉しいわ」

 回廊で拍手が起きた。セシリアだった。膝の上の紙には、砂の輪と、二本の矢印が描いてある。一本は穴へまっすぐ、もう一本は、穴の手前でちょっと右へ折れていた。

「負けたけど、ちゃんと地図に描いたよ」

「負けたは余計」


  *


 お菓子は結局二人で分けた。

 回廊の段に並んで座り、母がいちばん大きい干し杏の焼き菓子を二つに割る。割れ目はずいぶん片寄っていて、大きいほうがレオの手に乗せられた。

「勝ったのは母上なのに」

「いちばん大きいのを選べるのは勝った人。選んだ人が誰にあげるかは、自由でしょう」

 母は自分の小さいほうをかじり、砂だらけの裾を気にする様子もなく、脚を伸ばした。侍女が遠くで天を仰いでいる。

「ねえ、レオ。最初の砂煙、わざと弱いところを作ったでしょう」

「うん。丘で、影のところにだけ霧が残ってたんだ。風の壁にも、そういう場所を作れると思って」

「面白いわね。剣の稽古じゃ、まず思いつかないわ」

 母は菓子のかけらを指で払い、少し考えるように空を見た。

「ただ、守っている側から見るとね。穴が一つしかない壁は、そこを見張っていればいいから楽なのよ。穴が二つあったら、私でも少し困ったかもしれない」

「二つ……」

 レオは手の中の菓子を見つめた。それから、ぱっと顔を上げた。

「温室でやる。風の輪に出口を一つだけ残すんだ。雲がどこから漏れるか、こっちで決められるかもしれない。決められたら、次は二つ」

「試せたら教えて。私の窓辺の鉢の予約も、まだ残ってるんだから」

 母はあっさり言って、立ち上がった。

「私はこれから軍務の打ち合わせ。この格好で行ったら、ベルナルトに笑われるわね」

「ベルナルトは笑わないよ。眉が動くだけ」

「それを笑うって言うのよ」

 母は木剣を侍女に渡し、砂だらけの裾をつまんで、回廊を歩いていった。途中で一度振り返り、袖の指の跡を高く掲げて見せた。

 レオは手を振り返し、残りの菓子を口に押しこんで、隣のフェリクスに向き直った。

「フェリクス、温室の実験台、動かせる?」

「あれは石の台です。動きません」

「じゃあ、動く台がいる。出口の場所に合わせて、皿の位置を変えたいんだ」

 フェリクスは空になった籠を膝に置いたまま、しばらく黙った。

 その目が、いつもの帳面をめくるときとは違う光り方をしていた。

「……作ってもいいですか。私が」


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