光の隊長と二本の木
物見の丘のふもとで、セシリアは小石を一つ拾い、靴の先で地面に線を引いた。
「ここが出発点。帰りもここ。お昼の鐘までに戻るからね」
初夏の朝だった。丘の斜面は膝の高さまで草が伸び、てっぺんのほうはまだ白くかすんでいる。王宮の北の外れにあるこの丘は、子どもだけで登っていいと許しの出ている、数少ない場所だった。とはいえ、ふもとの番小屋には近衛のロルフが座っていて、こちらをじっと見ている。
セシリアは背中の布袋から紙と細い棒を取り出した。紙には丘の形と、点線の道が描いてある。
「目的地は北側の窪地。朝霧がいちばん長く残るところ。途中で三回止まって、影の長さを測るから」
「三回も?」
「三回も。文句があるなら、四回にするけど?」
レオはもう丘のほうを見ていた。窪地はてっぺんの向こう側だ。三回も止まっていたら、着くころには霧が消えてしまうかもしれない。
隣でフェリクスが手を挙げた。
「隊長。帰りの道は、行きと同じですか」
「同じ。どうして?」
「歩数を数えておきます。帰りに迷っても、半分戻ったかどうかは分かりますから」
フェリクスはそう言うと、本当に小さな声で「いち、に」と数えながら歩き出した。セシリアがちょっとだけ嬉しそうな顔をしたのを、レオは見逃さなかった。
*
一回目の休みで、セシリアは棒を地面に立て、その影の先に小石を置いた。
二回目の休みでも同じことをした。影は少し短くなり、少し右へ回っている。セシリアは紙の上に二本の線を引き、指先に灯した光で、線と線の間に細い目盛りを刻んでいく。光の線は髪の毛くらい細くて、紙の上で何度も消えては、また灯った。
「霧はね、影の中に残るの。影の向きが分かれば、どこに残ってるか先に分かる」
「それなら、早く行って見たほうが早いじゃん」
「見る前に分かってたほうが、面白いでしょ」
レオは草の上で足踏みした。
面白いのは分かる。でも、窪地はすぐそこだ。てっぺんを越えれば見えるはずだし、草さえなければ、もっと速く歩ける。
「ちょっと先、見てくる」
「レオ、勝手に行かない」
「すぐ戻るって。てっぺんまで見てくるだけ」
手首を軽く振った。風が足元の草を左右に押し分け、一本の道ができる。気持ちいい。レオはその道を駆け上がった。後ろでフェリクスが歩数を数え間違えた声がした。
道の先に大きな木が二本立っていた。
同じくらいの太さの樫だった。枝の広がり方まで似ていて、まるで鏡に映したみたいだ。二本の間は、ちょうど人ひとり通れるくらい空いている。窪地はたぶん、この向こうだ。
レオは二本の間をくぐり抜け、また草を払って進んだ。斜面を下る。白いものが見えてきた。霧だ。
「あった――」
言いかけて、レオは足を止めた。
霧は霧だった。でも、窪地じゃない。ゆるやかな斜面の下に、薄い霧が広がっているだけだ。そしてその霧の向こうに、見覚えのある屋根が見えた。王宮の厩の屋根だ。
丘の、反対側に出ていた。
振り返ると、さっきくぐった二本の樫が、斜面の上に並んで立っている。ここから見ると、来たときとは左右が逆だった。どっちの木の右を通ったのか、もう分からない。
「……あれ」
「やっぱり、こっちに出た」
草を踏む音がして、セシリアとフェリクスが斜面を下りてきた。セシリアは息も切らしていない。フェリクスは額に汗をかいていて、口が小さく動いている。まだ数えているらしい。
「あの二本、双子の樫っていうの。そっくりだから、間をくぐると、みんな向きを間違える。去年のレオも間違えた」
「……覚えてない」
「でしょうね。覚えてたら、くぐってないもの」
セシリアは文句を言わなかった。それがかえって、レオには居心地が悪かった。
彼女は斜面を見回し、少し登ったところにある平たい岩を指さした。
「あそこまで戻る。あそこからなら、出発点の番小屋が見えるから」
岩の上に立つと、本当にふもとの番小屋が見えた。ロルフが小さく手を振っている。セシリアは番小屋の方向と、窪地のある方向へ、指先から光の線を二本伸ばした。細くまっすぐな線が、朝の空気の中に一瞬だけ浮かんで消える。
「窪地はこっち。この間を三つに分けて、目印を置きながら行く。――レオ、聞いてる?」
「聞いてる。三つに分けて、目印」
「草は、もう払わないで。払うと道がいくつもできて、帰りにどれが本物か分からなくなるから。代わりに、私が言った石に、水で印をつけて」
レオは少し考えて、うなずいた。
セシリアが「あの白い石」と言うたびに、レオは石の上に、指先ほどの水を丸く置いた。水は石の色を濃くして、小さな輪の形に残る。フェリクスはそのたびに歩数を口にし、セシリアはそれを紙に書きこんだ。
三人の進み方は、さっきレオが一人で走ったのより、ずっと遅かった。
でも一度も迷わなかった。
*
窪地に着いたとき、霧はもうほとんど消えていた。
日が高くなりすぎたのだ。すり鉢の底のような草地には、白いものがうっすら漂っているだけだった。
レオは肩を落としかけて、それから、目を見開いた。
「待って。……見て」
窪地の東側、背の高い岩の影になっているところ。そこの草の葉にだけ、大きな水の粒が乗っていた。一枚の葉に、二つ、三つ。豆くらいの大きさの粒が、朝日も当たらず、まだ丸いまま残っている。
日なたの草を触ってみた。もう乾いている。
影の草を触ってみた。指先が濡れて、冷たかった。
「同じ窪地なのに、影のところだけ残ってる」
レオはしゃがみこんで、葉の上の粒をじっと見た。皿の曇りと同じだ。熱がすぐ来るところは早く消えて、来ないところには長く残る。それが窪地いっぱいの大きさで起きている。
「影の線、ここで合ってた」
セシリアが紙を見ながら言った。彼女が測った三本の影の線の先が、ちょうどこの岩の影のあたりで重なっている。
「すごい。ほんとに、先に分かってた」
「だから言ったでしょ。見る前に分かってたほうが面白いって」
セシリアは得意そうに言って、紙の上に窪地を描きこんだ。それから、レオの走った道も描いた。二本の樫の間で、くるっと向きを変えて丘の反対へ抜けていく線。その横に、小さく「レオ、ここで迷子」と書き足す。
「それ、書くの?」
「書くよ。遅れた理由も地図のうちだもん。――次も、行程は私が作るからね」
レオは言い返そうとして、やめた。言い返す材料がなかった。
「……その代わりさ。余白、ちょっと借りていい?」
「何描くの。また迷子の道?」
「雲」
セシリアは少し迷って、それから紙の端を差し出した。
レオは窪地の絵の上の、何も描いていない空に、小さな雲を描いた。雲の下には、影の中の葉と、その上の粒を三つ。
「下手」
「うるさい」
「でも、粒は上手」
セシリアは紙を受け取って、大事そうに四つ折りにした。
*
帰り道、レオが置いた水の印のうち、いくつかは消えていた。
日なたの石の印は、乾いて跡形もない。影の石の印だけが、まだ薄く輪の形に残っている。
「ここ、印がない」
「大丈夫。こっちの木の皮に、光で焦がした点がある」
セシリアが指さした先、細い木の幹に、針で突いたくらいの小さな焦げ跡があった。行きのとき、彼女はこっそり、自分の目印も置いていたのだ。
「いつの間に」
「レオが水を置いてる間に」
「フェリクスは? フェリクスも何か隠してる?」
「三百十二歩目です」とフェリクスは言った。「あと二百五十くらいで、番小屋です」
レオは笑った。
自分は水で印を置き、セシリアは光で印を置き、フェリクスは歩数を数えていた。三人ともまるで違うことをしていた。誰か一人の分が欠けていたら、たぶん今ごろ、またどこかの斜面で厩の屋根を見ている。
番小屋が見えてきたころ、レオはずっと考えていたことを口に出した。
「ねえ、風の壁にも、影みたいなところって作れないかな」
「影? 風に影なんかないでしょ」
「風で囲うと、中は全部同じになるだろ。でも、わざと一か所だけ風の弱いところを作ったら、そこにだけ何かが溜まるかもしれない。窪地の影みたいに」
フェリクスが歩きながら首をかしげた。
「試すなら、温室ですか」
「その前に」レオは丘の上の空を見上げた。「明日、やっと母上の休みが取れたんだ。袖を取る勝負。風の壁、そこで使ってみる」
「剣の勝負に、実験を持ちこむんですか」
「母上、なんでも試していいって言ったもん。取れるほうを取りなさいって」
セシリアが横目でレオを見た。
「イレーネ様の袖、本気で取れると思ってるの?」
「思ってる。今度は作戦があるもん」
「ふうん」
彼女は四つ折りの地図を胸に抱えて、少しだけ笑った。
「じゃあ、見に行こうかな。負けたら、それも地図に描いてあげる」




