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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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5/20

光の隊長と二本の木

物見の丘のふもとで、セシリアは小石を一つ拾い、靴の先で地面に線を引いた。

「ここが出発点。帰りもここ。お昼の鐘までに戻るからね」

 初夏の朝だった。丘の斜面は膝の高さまで草が伸び、てっぺんのほうはまだ白くかすんでいる。王宮の北の外れにあるこの丘は、子どもだけで登っていいと許しの出ている、数少ない場所だった。とはいえ、ふもとの番小屋には近衛のロルフが座っていて、こちらをじっと見ている。

 セシリアは背中の布袋から紙と細い棒を取り出した。紙には丘の形と、点線の道が描いてある。

「目的地は北側の窪地。朝霧がいちばん長く残るところ。途中で三回止まって、影の長さを測るから」

「三回も?」

「三回も。文句があるなら、四回にするけど?」

 レオはもう丘のほうを見ていた。窪地はてっぺんの向こう側だ。三回も止まっていたら、着くころには霧が消えてしまうかもしれない。

 隣でフェリクスが手を挙げた。

「隊長。帰りの道は、行きと同じですか」

「同じ。どうして?」

「歩数を数えておきます。帰りに迷っても、半分戻ったかどうかは分かりますから」

 フェリクスはそう言うと、本当に小さな声で「いち、に」と数えながら歩き出した。セシリアがちょっとだけ嬉しそうな顔をしたのを、レオは見逃さなかった。


  *


 一回目の休みで、セシリアは棒を地面に立て、その影の先に小石を置いた。

 二回目の休みでも同じことをした。影は少し短くなり、少し右へ回っている。セシリアは紙の上に二本の線を引き、指先に灯した光で、線と線の間に細い目盛りを刻んでいく。光の線は髪の毛くらい細くて、紙の上で何度も消えては、また灯った。

「霧はね、影の中に残るの。影の向きが分かれば、どこに残ってるか先に分かる」

「それなら、早く行って見たほうが早いじゃん」

「見る前に分かってたほうが、面白いでしょ」

 レオは草の上で足踏みした。

 面白いのは分かる。でも、窪地はすぐそこだ。てっぺんを越えれば見えるはずだし、草さえなければ、もっと速く歩ける。

「ちょっと先、見てくる」

「レオ、勝手に行かない」

「すぐ戻るって。てっぺんまで見てくるだけ」

 手首を軽く振った。風が足元の草を左右に押し分け、一本の道ができる。気持ちいい。レオはその道を駆け上がった。後ろでフェリクスが歩数を数え間違えた声がした。


 道の先に大きな木が二本立っていた。

 同じくらいの太さの樫だった。枝の広がり方まで似ていて、まるで鏡に映したみたいだ。二本の間は、ちょうど人ひとり通れるくらい空いている。窪地はたぶん、この向こうだ。

 レオは二本の間をくぐり抜け、また草を払って進んだ。斜面を下る。白いものが見えてきた。霧だ。

「あった――」

 言いかけて、レオは足を止めた。

 霧は霧だった。でも、窪地じゃない。ゆるやかな斜面の下に、薄い霧が広がっているだけだ。そしてその霧の向こうに、見覚えのある屋根が見えた。王宮の厩の屋根だ。

 丘の、反対側に出ていた。

 振り返ると、さっきくぐった二本の樫が、斜面の上に並んで立っている。ここから見ると、来たときとは左右が逆だった。どっちの木の右を通ったのか、もう分からない。

「……あれ」


「やっぱり、こっちに出た」

 草を踏む音がして、セシリアとフェリクスが斜面を下りてきた。セシリアは息も切らしていない。フェリクスは額に汗をかいていて、口が小さく動いている。まだ数えているらしい。

「あの二本、双子の樫っていうの。そっくりだから、間をくぐると、みんな向きを間違える。去年のレオも間違えた」

「……覚えてない」

「でしょうね。覚えてたら、くぐってないもの」

 セシリアは文句を言わなかった。それがかえって、レオには居心地が悪かった。

 彼女は斜面を見回し、少し登ったところにある平たい岩を指さした。

「あそこまで戻る。あそこからなら、出発点の番小屋が見えるから」

 岩の上に立つと、本当にふもとの番小屋が見えた。ロルフが小さく手を振っている。セシリアは番小屋の方向と、窪地のある方向へ、指先から光の線を二本伸ばした。細くまっすぐな線が、朝の空気の中に一瞬だけ浮かんで消える。

「窪地はこっち。この間を三つに分けて、目印を置きながら行く。――レオ、聞いてる?」

「聞いてる。三つに分けて、目印」

「草は、もう払わないで。払うと道がいくつもできて、帰りにどれが本物か分からなくなるから。代わりに、私が言った石に、水で印をつけて」

 レオは少し考えて、うなずいた。

 セシリアが「あの白い石」と言うたびに、レオは石の上に、指先ほどの水を丸く置いた。水は石の色を濃くして、小さな輪の形に残る。フェリクスはそのたびに歩数を口にし、セシリアはそれを紙に書きこんだ。

 三人の進み方は、さっきレオが一人で走ったのより、ずっと遅かった。

 でも一度も迷わなかった。


  *


 窪地に着いたとき、霧はもうほとんど消えていた。

 日が高くなりすぎたのだ。すり鉢の底のような草地には、白いものがうっすら漂っているだけだった。

 レオは肩を落としかけて、それから、目を見開いた。

「待って。……見て」

 窪地の東側、背の高い岩の影になっているところ。そこの草の葉にだけ、大きな水の粒が乗っていた。一枚の葉に、二つ、三つ。豆くらいの大きさの粒が、朝日も当たらず、まだ丸いまま残っている。

 日なたの草を触ってみた。もう乾いている。

 影の草を触ってみた。指先が濡れて、冷たかった。

「同じ窪地なのに、影のところだけ残ってる」

 レオはしゃがみこんで、葉の上の粒をじっと見た。皿の曇りと同じだ。熱がすぐ来るところは早く消えて、来ないところには長く残る。それが窪地いっぱいの大きさで起きている。

「影の線、ここで合ってた」

 セシリアが紙を見ながら言った。彼女が測った三本の影の線の先が、ちょうどこの岩の影のあたりで重なっている。

「すごい。ほんとに、先に分かってた」

「だから言ったでしょ。見る前に分かってたほうが面白いって」

 セシリアは得意そうに言って、紙の上に窪地を描きこんだ。それから、レオの走った道も描いた。二本の樫の間で、くるっと向きを変えて丘の反対へ抜けていく線。その横に、小さく「レオ、ここで迷子」と書き足す。

「それ、書くの?」

「書くよ。遅れた理由も地図のうちだもん。――次も、行程は私が作るからね」

 レオは言い返そうとして、やめた。言い返す材料がなかった。

「……その代わりさ。余白、ちょっと借りていい?」

「何描くの。また迷子の道?」

「雲」

 セシリアは少し迷って、それから紙の端を差し出した。

 レオは窪地の絵の上の、何も描いていない空に、小さな雲を描いた。雲の下には、影の中の葉と、その上の粒を三つ。

「下手」

「うるさい」

「でも、粒は上手」

 セシリアは紙を受け取って、大事そうに四つ折りにした。


  *


 帰り道、レオが置いた水の印のうち、いくつかは消えていた。

 日なたの石の印は、乾いて跡形もない。影の石の印だけが、まだ薄く輪の形に残っている。

「ここ、印がない」

「大丈夫。こっちの木の皮に、光で焦がした点がある」

 セシリアが指さした先、細い木の幹に、針で突いたくらいの小さな焦げ跡があった。行きのとき、彼女はこっそり、自分の目印も置いていたのだ。

「いつの間に」

「レオが水を置いてる間に」

「フェリクスは? フェリクスも何か隠してる?」

「三百十二歩目です」とフェリクスは言った。「あと二百五十くらいで、番小屋です」

 レオは笑った。

 自分は水で印を置き、セシリアは光で印を置き、フェリクスは歩数を数えていた。三人ともまるで違うことをしていた。誰か一人の分が欠けていたら、たぶん今ごろ、またどこかの斜面で厩の屋根を見ている。

 番小屋が見えてきたころ、レオはずっと考えていたことを口に出した。

「ねえ、風の壁にも、影みたいなところって作れないかな」

「影? 風に影なんかないでしょ」

「風で囲うと、中は全部同じになるだろ。でも、わざと一か所だけ風の弱いところを作ったら、そこにだけ何かが溜まるかもしれない。窪地の影みたいに」

 フェリクスが歩きながら首をかしげた。

「試すなら、温室ですか」

「その前に」レオは丘の上の空を見上げた。「明日、やっと母上の休みが取れたんだ。袖を取る勝負。風の壁、そこで使ってみる」

「剣の勝負に、実験を持ちこむんですか」

「母上、なんでも試していいって言ったもん。取れるほうを取りなさいって」

 セシリアが横目でレオを見た。

「イレーネ様の袖、本気で取れると思ってるの?」

「思ってる。今度は作戦があるもん」

「ふうん」

 彼女は四つ折りの地図を胸に抱えて、少しだけ笑った。

「じゃあ、見に行こうかな。負けたら、それも地図に描いてあげる」


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