買わなかった剣の重さ
アステリアの大通りでは、三歩ごとに知らない言葉が聞こえた。
宿に荷を置き、預ける物を預け、フェリクスが帳面に最後の一行を書き終えるのを待ってから、三人は街へ出た。春の二月の、よく晴れた午後。
果物屋の店先で、耳の長い女の人が、細い指で林檎を選んでいた。その隣では、レオの胸くらいまでしか背のない、ひげの濃い男が、樽を一つ軽々と肩にかついで歩いていく。広場の噴水のふちには、背中に灰色の翼をたたんだ若者が腰かけて、パンをかじっていた。
「エルフ……ドワーフ……今の、ハーピー?」
「指をささない。見るなら、目だけで」
セシリアがレオの手首をつかんで下ろした。そのくせ、自分も噴水のほうをちらちら見ている。片手には、もう新しい紙が広がっていた。
「宿を出て右。二つ目の角を左。パン屋の看板の先で、また右」
口の中でつぶやきながら、セシリアは歩きながら線を引いていく。曲がる順番。目印になる看板。坂になっているところには、小さな山の印。
看板が多かった。
鍛冶屋、薬屋、本屋、仕立て屋。そのあいだに、ひときわ大きな看板が四つ、通りのあちこちに出ていた。
――ヴァルディス流 護りの剣 市の東。
――セイラン流 流れの剣 川沿い。
――ガルドラム流 大剣 北門。
――レイゼン流 遠鐘館 鐘楼の下。
「四つとも、この街にある」
レオは四枚の看板を順に見た。ベルナルトの紹介状は、懐の内側に入っている。
「全部、見に行く」
「全部見てたら、入学が終わるでしょ」
「終わらないよ。四つだけだし」
「レオの『だけ』は、いつも『だけ』じゃないの」
セシリアは看板の場所も、地図に書き足した。
*
星環窟の管理門は、近くで見ると、馬車の窓から見たときよりずっと大きかった。
石を積んだ輪の高さは、王宮の西の塔の半分くらいある。輪の内側には石段があって、それが地面の下へ、暗く、深く、続いている。門の前の広場には、受付の窓口が二つ並んでいた。
――探索者 受付。
――学園生 受付。
レオはまっすぐ学園生の窓口へ行き、ベルナルトの紹介状と、学園の合格の書状を並べて出した。
「今日、少しだけ入ってみたいんです。一層の入口だけでも」
窓口の若い男は、書状を丁寧に読んで、丁寧に返した。
「入学おめでとうございます。学園生の入坑は、入学後の講習を受けてからになります。講習の名簿は、入学の日に出ます」
「入口だけでも」
「入口から先は、全部、迷宮です」
男はにこりともせずに言った。言い方は柔らかいのに、少しも動かない返事だった。
レオは口を開けかけて、閉じた。
この男は、毎日何人もの「入口だけでも」を断っているのだろう。そして断った人が、勝手に入って帰ってこない日のことも、たぶん知っている。
「……じゃあ、地図は買えますか」
「それなら、こちらで」
男は窓口の横の棚を指した。筒に巻かれた地図が並んでいる。いちばん安いのが、一層から八層までの浅い層の図。いちばん高いのが、全層の重ね図だった。
フェリクスが帳面を開く前に、レオは全層の図の値札を見て、それから浅い層の図を一本取った。
「こっち。高いほうは、三十六層まで行けるようになってから」
「その頃には、値段も上がっていると思いますが」
フェリクスはそう言いながら、銅貨を数えた。
広場の隅の石段に座って、三人で地図を広げた。
一枚の紙に、八つの層が重ねて描いてある。いちばん上の一層は、広くて、道が多い。下へ行くほど、道は細く、枝分かれが増えていく。層と層をつなぐ階段の位置に、赤い丸がついていた。
地図の端に、小さな字で注意書きがあった。
――星環窟は全七十二層と古記録に伝わる。現行の測量図は三十六層まで。
「七十二……三十六」
レオは、その二つの数字を指でたどった。
「半分しか、分かってないんだ」
「半分も、分かってるんじゃない?」
セシリアが言った。
「誰かが三十六層まで行って、帰ってきて、描いたんでしょ。帰ってこなかったら、地図は残らないもん」
そのとき、門の石段の下から、人の声が上がってきた。
六人の探索者だった。全員、膝から下が泥だらけで、いちばん後ろの一人は、肩を借りて足を引きずっている。先頭の、髪の短い女の人が、探索者の窓口に一枚の紙を叩きつけた。
「帰路図。三層の東、水が出て道が変わってた。描き直した」
窓口の中から、年配の受付係が身を乗り出して、六人の顔を一人ずつ見た。指で数えていた。
「入坑、六名。帰還、六名」
受付係は帳簿に線を一本引いた。
「おかえりなさい」
女の人は、泥だらけの顔で、ふっと笑った。
帰路図は、窓口の奥の壁に、すぐに貼りだされた。泥の指の跡がついたままの紙。三層の東の道に、太い線で×印がついて、そのすぐ横に、新しい道が描き足されていた。
レオは、自分の膝の上の、きれいに刷られた地図を見た。それから、壁の泥だらけの紙を見た。
「……あっちの地図、欲しいな」
「買えないよ。あれは、帰ってきた人のだもん」
セシリアは、壁の帰路図から目を離さなかった。
「私たちも、いつか、ああいうのを持って帰ってこよう」
フェリクスが帳面を閉じた。
「帰ってきたら、帳簿に線を一本引いてもらえます。私は、あれがいいです」
*
宿への帰り道は、工房街を通った。
通りの両側に窯と炉が並んでいる。鉄を打つ音。ふいごの息。どこかの窯の口から、橙色の光が漏れていた。
ふと、レオの足が止まった。
匂いがした。土が焼ける匂い。焦げているのとは違う。乾いた土が、熱で別のものに変わっていく、少し甘いような、喉の奥がかわくような匂い。
どこかで器を焼いている。
「レオ、足が止まってる」
セシリアがレオの袖を引いた。
「寄り道は、明日」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
セシリアは笑って、地図の工房街のところに、小さな印を一つ描き足した。窯の形の印だった。
「明日は、道具を見るって決めたでしょ。剣と、器と、両方ある通りがあるって、宿の人が言ってた。そこを通ればいいじゃない」
レオは、もう一度だけ匂いのほうを振り返ってから、セシリアの地図の新しい印を見て、うなずいた。
*
翌日の用具店は、剣の店だった。
壁一面に剣が掛かっている。幅の広い大剣。反りのある片刃。柄の長い両手剣。レオは店に入ったとたん、口が開きっぱなしになった。
「坊ちゃんがた、何をお探しで」
店の主人は腹の出た陽気な男だった。レオがセシリアに「雷の加速のとき、手首がさ」と話しているのを聞きつけて、手を打った。
「雷! なら、これだ」
主人が壁から下ろしたのは、細い剣だった。
刃が、レオの指二本ぶんくらいの幅しかない。そのかわり長く、つばは小さく、柄には青い革が巻いてある。持たされると、驚くほど軽かった。
「速い踏み込みに合わせて作った剣だ。レイゼンの剣士がよく買う。軽いから、振り遅れない」
レオは細い剣を振った。
ひゅっ、と、空気が鳴った。自分の木剣とは、まるで違う音だった。速い。手の先に何もないみたいに速い。
「……すごい」
レオの目が輝いた。
フェリクスが横から値札をのぞいた。値札の数字は、レオの去年一年分の実験費より大きい。
フェリクスは値段のことは言わなかった。
「レオ。今の剣と、比べてもらえますか」
「比べる?」
「重さと、受けたときの手首です。振るだけなら、軽いほうが速いのは当たり前です」
レオは腰の剣を抜いた。ルーデンを出る前に、ベルナルトが選んでくれた、ごくふつうの剣だ。両方を持って、店の奥の、試し振りの場所へ行った。
主人が木の棒を構えた。軽く打ちこんでくる。
レオは細い剣で受けた。
母の角度で。斜めに立てて、横へ流す――
手首が流れた。
棒の重さを受けた瞬間、細い剣は、レオの思った角度よりずっと先まで倒れた。軽すぎて、手首が止められない。流すはずの力に、剣ごと持っていかれる。
もう一度。もう一度。三回とも同じだった。
ふつうの剣に持ち替えた。受けた。棒の重さが、剣を伝って手首に来て、そこで止まる。止まったところから、横へ流せる。
「……こっちのほうが、受けられる」
レオは細い剣を見下ろした。
そのとき、隣の試し振りの場所で、別の客が同じ細い剣を振っていた。灰色の稽古着の、二十歳くらいの若い男だ。主人の弟子が打ちこむ棒を、男は細い剣で受けなかった。受ける前に、もう半歩、横へ出ていた。棒が空を切る。男の剣はもう次の場所に戻っている。
受けていない。最初から、受けない場所にいる。
レオは、その男の足を、じっと見た。
「……剣が悪いんじゃないんだ」
小さく、つぶやいた。
「あの人の動きに合わせた剣なんだ。僕の動きとは、違う」
主人が少し残念そうな顔をした。でも、すぐに笑った。
「よく見たな。たいていの客は、軽いのを振ってそのまま買っていく」
「いつか、ああいう動きができるようになったら、また来ます」
レオは細い剣を主人に返して、自分の剣を差し出した。
「この剣の、握りの革だけ、巻き直してもらえますか。十二日、馬車で汗をかいて、ちょっと滑るんです」
主人は剣を受け取って、握りの革を親指でこすった。
「いい剣だ。地味だが芯が通っとる。鐘一つ鳴るまでに巻き直してやる」
セシリアは、そのあいだに、別の棚から一本の剣を選んでいた。細すぎず、重すぎず、刃の長さがレオの剣より拳一つぶん短い。何度も足を踏み替えながら振って、それから、その一本を主人のところへ持っていった。
「これ。自分で払う」
「セシリア、それ――」
「私の足に合うの。私が選んだの」
セシリアは、レオのほうを見ずに財布を出した。
フェリクスは、そのあいだずっと、剣の刃ではなく、つばと柄の継ぎ目ばかりのぞいていた。主人をつかまえて、鋲の打ち方や、柄の中の芯の長さや、革を巻く前に塗るにかわの種類を、次から次へと聞いている。
「フェリクス、剣、見てる?」
「見ています。剣の、継ぎ目を」
セシリアが吹き出した。
「それなら、剣屋じゃなくて、金具屋に行けばいいじゃない。お向かいにあったよ。ねじと鋲と蝶番の店」
「……あとで行きます」
「今、行けば? 握りの巻き直し、次の鐘までかかるんだって」
フェリクスは、帳面を閉じるより早く、店を出ていった。セシリアも笑いながらついていった。
レオは店の前の石段に座った。巻き直しの終わる剣を待ちながら、手のひらを開いたり閉じたりした。細い剣の、何もないような軽さ。自分の剣の、手首で止まる重さ。どちらも、まだ手の中に残っている。
そのとき、鼻の奥に、匂いが来た。
昨日の、土が焼ける匂いではなかった。もっと鋭い。木が焦げる匂いだった。
レオは顔を上げた。
通りの角の店。店先に、丸い陶器の器が、木の台に載せていくつも並べてある。その一つの、台の下から、細い煙が一本、まっすぐ上がっていた。




