焼け残った線
角の店の看板には、丸い壺の絵と、「ベルカ陶具 オーラフの店」という字が焼きつけてあった。
レオが走りこんだとき、煙はもう二本に増えていた。
店先の棚に、木の台がいくつも並んでいる。台の上には、両手で抱えるくらいの丸い器。ふたつきで表面は乳のような白。その一つの台の下から、焦げた木の匂いと、細い煙が上がっていた。台の板の真ん中が、器の底の形に、じわじわと黒くなっていく。
――水。
考えるより先に、手のひらに水の玉ができていた。拳くらいの、冷たい玉。それを器の上へ――
「待って待って!」
声と一緒に、横から誰かの手が伸びてきて、レオの手首をつかんだ。
「器にかけないで! 急に冷やしたら割れる!」
女の子だった。レオと同じくらいの背で、赤い髪を後ろで一つにまとめている。粘土で汚れた前掛けをして、片方の頬に灰の筋がついていた。
つかまれた手首が、熱かった。手のひらにずっと火を持っていた人の熱さだった。
「中、何が熱を持ってるの」
レオは、水の玉を宙で止めたまま聞いた。
「壁。二重の、内側の壁。……ここ」
女の子は、器の胴の右下を、触れずに指さした。目は器から離れない。
「ここだけ、熱が溜まってる。外の壁に移って、底を伝って、台に出てる。器ごと冷やしたら、外だけ縮んで、ぱきって割れる」
「じゃあ、台は」
「台?」
「器じゃなくて、台だけ冷やす。燃えてるのは台だろ」
女の子が初めてレオの顔を見た。
一瞬だけですぐに器へ目を戻した。
「器に、一滴も触らないで。できる?」
「できる」
レオは水の玉をほどき、薄く、薄く、紙よりも薄くのばした。器の底のまわりの、黒くなりかけた板の上にだけ。器の底との間には、指一本ぶんの隙間を残して、そこには一滴も入れない。
じゅっ、と板が鳴った。
焦げの広がりが、止まった。黒い輪のふちで、白い湯気がしゅうしゅうと上がる。
桶一杯ぶんを一度にかぶせても、火は消せた。でも、跳ねた一滴が器に当たれば、それで割れる。
女の子の目が、一瞬だけ板の上へ動いた。器の底をぐるりと囲んで、指一本ぶんの隙間を残したまま、紙より薄い水が止まっている。女の子は小さく息を吸って、何も言わずに器へ目を戻した。
「台、止めた。でも、器の中が熱いままだと、また焦げる」
「分かってる。だから今、逃がすの」
女の子は、器の右下に手のひらをかざした。
目を閉じる。
レオは、そのとき初めて、火がそんなふうに動くのを見た。
器のふたの、小さな隙間から、糸のような炎が一本、するすると出てきた。針の先くらいの細さの、橙色の糸。それが宙で一度くるりと輪を描いて、ほどけるように消えていく。また一本。また一本。器の中に溜まっていた熱が、まとめて吹き出すのでなく、細い糸になって、順番に外へ引き出されていく。
――消すんじゃない。逃がしてる。
レオは自分の雨の雲を思い出した。入れた順番を逆にたどって、ひとつずつほどく。この子はそれを火でやっている。
七本目の糸が出たところで、女の子の眉がぎゅっと寄った。
「……あと一本。外の壁が、もう――」
ぴし。
小さな音がした。
器の右下の、外側の壁から、爪くらいの大きさの欠片が一枚、ぽろりと剥がれた。欠片は台の濡れた板の上に落ちて、ころんと転がった。
女の子は目を開けた。最後の糸を引き出して、手を下ろした。
器は割れていない。右下に、小さな欠けが一つできただけだった。台の煙は止まり、湯気だけが、細く残っていた。
「……八十九個目には、ならなかった」
女の子が小さく言った。
レオの耳にその数字が引っかかった。引っかかったのに、それが何なのか考える前に、女の子が濡れた板の上の欠片を拾い上げた。
「見て。これ」
*
欠片の内側に線が焼きついていた。
器の二重の壁の、内と外をつなぐところだったらしい。白い焼き物の肌に、茶色い線が一本走って、その先で三本に分かれている。木の枝みたいに。分かれた先の一本だけが、ほかよりずっと濃かった。
「つなぎ目が、ここだけ太かったんだ」
女の子は欠片を指でなぞった。
「細くしたつもりだったのに。粘土を足したとき、ここだけ盛りすぎた。だから熱がここに集まって、外へ抜けた。……あたしのせい」
言い方は悔しそうなのに、目は欠片の線を宝物みたいに見ていた。
「なんで、三本に分かれてるの」
レオは欠片をのぞきこんだ。
「え? ……三本?」
「熱が一つのつなぎ目に集まって抜けたなら、線は一本じゃないの。なんで途中で三本になってるの。しかも一本だけ濃い」
女の子は、欠片とレオを、交互に見た。
「……それ、あたしも今、気になってたとこ」
女の子は店の中から小さな作業台を引っぱり出し、欠片と、まだ温かい器を並べた。
「たぶん、ね」
女の子が言った。口が、さっきの倍の速さで動きだしていた。
「熱って、通りやすいところを選ぶの。粘土のつぶが詰まってるところとか、うわぐすりが薄いところとか。つなぎ目から外の壁に出たとき、外の壁の中で、通りやすい道が三つあったんだと思う。で、いちばん通りやすいのが、この濃いやつ。……でも、なんでここがいちばん通りやすいのかは、分かんない。見た目は、ぜんぶ同じ土なのに」
「熱、分かるの? 触らなくても」
「分かる。窯の横で寝て育ったんだもん。熱いのと冷たいのは、目をつぶってても分かる」
女の子は、器の胴に手のひらをかざした。
「今、ここが少しだけ温かい。こっちはもう冷めた。こっちと、こっちの間に、ちょっとだけ差がある。……でも、言葉で言えって言われると、困る。なんとなく、だから」
レオには何も分からなかった。器はどこも同じ白に見えた。
でも水なら分かる。
「ちょっと、見てて」
レオは、焦げた木の台の上に、水の粒を落とした。豆粒より小さな粒を、十。器を載せていた跡の、まだ温かい黒い輪のまわりに、ぐるりと。
粒はじっとしていなかった。
ゆっくりと、動きだした。十の粒が、少しずつ、同じほうへ寄っていく。黒い輪の、右下のほうへ。器の欠けた場所の、真下だった。
女の子が息をのんだ。
「……熱が、残ってるほうに、寄ってる」
「うん。冷めかけの板の上だと、温かいほうへ水が引っぱられるんだ。前に、皿の上で見つけた」
粒の一つが、途中で止まって向きを変え、ほかの粒とは別のほうへ這っていく。
「そこ」
女の子がその粒を指さした。
「そこ、もう一個、熱いとこがある。あたしも、さっきから、なんとなくそこが気になってた。……見える。あたしの『なんとなく』が、水で見える」
女の子の頬が赤くなっていた。灰の筋の下で、火にあたったみたいに。
レオは、作業台の端に積んであった値札の束から、白い裏の一枚を借りた。
「描いていい? 今の」
「描いて。早く。今の、冷める前に」
レオは筆を出して、描きはじめた。
器の断面。内の壁と、外の壁。そのあいだの、つなぎ目。つなぎ目から外の壁へ、熱が抜けていく道を、渦を巻く矢印で描く。三本に分かれるところまで。分かれる理由が分からないところは、小さな雲の形でぐるりと囲んで、真ん中に「?」を一つ。
最後に、水の粒が寄っていった向きを、矢印で足した。くるくると、また渦を巻いた。
「ほら。ここが分からないんだ。なんで、ここで――」
顔を上げると、女の子は図を見ていなかった。
いや、見てはいた。値札の裏の図を、目を見開いたまま、身じろぎもせずに見下ろしていた。
「……あの?」
女の子の唇がゆっくり動いた。
「くるくるしすぎ」
「え」
「矢印。くるくるしすぎ。どっちが熱いのか、三回読まないと分かんない」
女の子は、図の上の小さな雲を、指でとんと叩いた。
「それから、分かんないとこを、雲で囲んで、『?』」
女の子が顔を上げた。
レオと、目が合った。
「この図の描き方……」
値札の端をつまんだ指が、止まっていた。
「あんた、ローヴェンのレオ?」
*
レオは、筆を持ったまま、固まった。
通りの音が、急に遠くなる。目の前の女の子の、灰の筋のついた頬と、赤い髪だけが、やけにはっきり見えた。
――八十九個目には、ならなかった。
さっきの数字が、ようやく頭の中で形になった。
八十八個目は半分までしか割れなかった。全部、数えてる。
「……A.」
声が裏返った。
「ベルカの、A.?」
「そうだけど!」
「十一歳じゃなかったの!?」
「去年の夏はね!」
女の子――A.は、両手を腰に当てた。
「今は十二! 秋には十三! あんたこそ、なんでここにいるの。賢者さまのとこの、下働きの子じゃなかったの!?」
「下働き?」
「西の塔、オルウェン気付、って書いてあったから! 賢者さまのお屋敷の、床拭きとかしてる子が、こっそり研究してるんだと思ってた!」
「床拭きは、してる。毎日」
「してるの!?」
「師匠の研究室、すぐ水びたしになるから」
A.は口を開けて、閉じて、それから吹き出した。笑いながら、レオの手から筆をひったくった。
「ちょっと、名前、書いて。ここに」
値札の裏の、図の下の空いたところを指さす。レオは言われるまま、筆を受け取り直して書いた。
――レオ
A.はその字に顔を近づけた。ものすごく近づけた。
「……やっぱり」
「なにが」
「字が、ちっちゃい。虫めがねがいる字。あんたの手紙、全部この字だった」
A.は、勝ち誇ったように胸を張ったかと思うと、急に、少しだけ目をそらした。
「アネット」
「え?」
「名前。A.はアネットのA.。ベルカの、ダリオ窯の娘」
「アネット」
レオは、その名前を口の中で一回転がした。手紙を八通やりとりして、初めて聞いた名前だった。
「なんで、アステリアに」
「学園。春から、魔術科」
レオは筆を落としかけた。
「僕も」
「は?」
「僕も、春から、魔術科」
アネットはレオの顔をまじまじと見た。
「……『春から遠くの学校』って」
「……『春から遠くへ行く』って」
二人は同時に黙った。それから、同時に噴き出した。
「書けばよかったじゃん! どこの学校か!」
「そっちこそ! 『遠くへ行く』って、ほかの窯へ修業に出るんだと思ってた!」
「あたしは、宛先が決まったら書こうと思ってたの!」
「僕も! 便箋、一束買ってきたのに!」
アネットが腹を抱えて笑った。レオも笑いすぎて、作業台に手をついた。値札の裏の、くるくるした矢印の図が、二人の手の間でくしゃっとなった。
「あっ」
アネットが慌ててそれを引き抜いて、しわを手のひらでのばした。丁寧に二回。
店の奥から、白ひげの店主が配達の籠を提げて戻ってきて、焦げた台を見るなり「お嬢、また焦がしたか」と言った。
「焦がしてない! 台が焦げたの!」
アネットは焦げた台を背中に隠そうとして、隠しきれなかった。
*
道の向こうから、聞き慣れた声がした。
「レオ。剣の握り、巻き終わったって――」
セシリアだった。金具屋の袋を提げたフェリクスが、その後ろにいる。セシリアは角の店の前で足を止めた。レオと、赤い髪の女の子と、作業台の上の焦げた欠片を、順番に見た。
「……誰?」
「A.!」
レオは両手を広げた。
「ベルカのA.! アネット! 手紙の! ここにいた!」
セシリアはアネットを見た。アネットも、セシリアを見た。
「ふうん」
セシリアが言った。
フェリクスが、一歩前へ出て、礼儀正しく頭を下げた。
「はじめまして。フェリクスです。……字の大きい方ですね」
「なにそれ!? 字の大きさで人を覚えないでよ!」
アネットの声が、通りに響いた。
アネットは、それから注文の仕事に戻った。ベルカから器を運んできて、この店の奥の作業台を、学園の寮が開くまで借りているのだという。
「明後日。三つ目の鐘」
店の奥へ戻りかけて、アネットは振り返った。
「この器、直すから。直すとこ、見たかったら来れば」
「行く。……見るだけじゃなくて、手、出していい?」
「出すなら、洗ってから。それから」
アネットはレオの腰の袋を指さした。手帳の角が、のぞいている。
「あんたの熱の記録。あの、雲の底を冷やすってやつ。持ってきて。……全部、見たいから」
「持ってくる。全部」
ほんとうは今すぐ店の奥へついていきたかった。でも作業台には、もう注文の札が三枚。レオは手を振るだけにした。
帰り道、レオは何度も、空中に指で線を描いた。一本の線が途中で三本に分かれる。一本だけ、濃い。
「レオ、前。街灯と喧嘩する気?」
セシリアに言われて、レオはやっと、自分が街灯の柱にぶつかりかけているのに気づいた。
*
店じまいのあと、アネットは作業台の下の道具箱を引き寄せた。
ふたを開けると、紐でくくった紙の束が入っている。封筒が四通。いちばん上の封筒には、虫めがねがいるくらい小さな字で、ベルカのダリオ窯の宛名が書いてある。差出人はローヴェンのレオ。
アネットは、しわをのばした値札の裏の図を、その束のいちばん上に、そっと載せた。
くるくるの矢印と、雲の「?」。その下に、ちっちゃい字で、レオ。
紐を結び直しながら、アネットは一人で笑い、ふと手を止めた。
いちばん新しい封筒。器の図が三枚と、ちっちゃい字の「どうしてだろう!」。あれの返事をまだ書いていない。
「……明後日、口で言ってやる」
アネットは道具箱のふたを閉め、作業台に新しい粘土の塊をどすんと置いた。




