出発前の一本
講堂の床は、靴が運んできた雪の水で、まだらに光っていた。
正面には、アステリア学園の審査官が三人。ここで落ちれば、春の馬車には乗れない。
王都の学問所の大講堂。冬の一月の終わりに、アステリア学園から審査官が三人、ルーデンまで出張してくる。北の国々を順に回って、出願した子どもたちの実技をまとめて見るのだという。今朝は外が吹雪で、受験生も付き添いも、みんな濡れた外套のまま講堂へ入ってきた。壁際の床には、靴から落ちた雪がいくつも小さな水たまりを作っている。
「次。ルーデン王都、レオニス」
正式な名前で呼ばれて、レオは立ち上がった。
審査官の席には、学園の紋――本と星――を胸に縫いつけた三人が座っている。まんなかの年配の女の人が、手元の紙を見ながら言った。
「火、水、風。三つとも、基礎の型を順に」
火は、燭台の芯にだけ灯して、隣の芯には移さない。水は、杯から杯へ、一滴もこぼさずに渡す。風は、机の上の紙を一枚だけ、ほかの紙を動かさずにめくる。
どれも、九つのころから何百回もやってきたことだった。三つ目の紙がめくれたとき、壁際の付き添いの誰かが小さく息を吐いた。
右端の若い審査官が、机の下から燭台を一つ出した。芯が五本、枝分かれした燭台だった。
「一本おきに。三本だけ」
付き添いの列で、誰かが首を振った。芯と芯のあいだは、指二本ぶんもない。
レオは息を一つ吸った。吐くあいだに、一本目、三本目、五本目の芯に、ぽ、ぽ、ぽ、と火が灯った。二本目と四本目は、焦げ目一つない白のままだった。
若い審査官は白い芯をつまみ、冷たいのを指で確かめてから、何も言わずに燭台を机の下へ戻した。
「結構」
年配の審査官はうなずくと、少しだけ身を乗り出した。
「ところで。噂を聞いています。創成の、雷の術があると」
講堂の空気が変わった。
壁際の受験生たちが、いっせいにこちらを見た。付き添いの大人たちも。レオは背中に、その視線が何十本も刺さるのを感じた。
――見せたい。
正直に言えば、すごく見せたかった。乾いた床なら、記録の中でいちばんまっすぐな一筋を、この講堂でも通せる。ここで一筋走らせたら、みんなどんな顔をするだろう。
でもレオは足元を見ていた。
床は濡れている。壁際の水たまりの上には、濡れた外套を着た人が並んでいる。
「今日は、やりません」
レオは言った。
「床が濡れてて、壁際の人の外套も濡れてます。雷は濡れたほうへ曲がります。どこへ曲がるか、ここだと決められないので」
講堂がざわっとした。
「……見せられないんじゃないのか」
壁際の受験生の誰かが、小声で言った。何人かが、うなずきかけた。
年配の審査官は、表情を変えなかった。
「では、どうやって評価しろと?」
「記録があります」
レオは、フェリクスに預けていた紙の束を受け取って、机に置いた。十歳の夏から取っている、雷の記録の写しだった。公開用と保管用に分けた、公開用のほうだ。乾いた皿と、薄い湿り。逸れた回の向きと、そのときの床の濡れ具合。的の後ろの水皿と、師匠の霜の壁。
「十回やって三回しか通らなかった頃からの、全部です。安全に見せる手順も書いてあります。学園で、乾いた場所を貸してもらえたら、その手順でやります」
審査官は束をめくった。一枚、二枚。三枚目で手が止まる。逸れた雷の向きが、くるくると渦を巻く矢印で描いてあるところだった。
隣の若い審査官が、横からのぞきこんで、何か小声で言った。年配の審査官は、小さくうなずいた。
「この記録は、預かります。――合格です。次」
レオが席に戻ると、壁際のざわめきは、さっきとは違う音になっていた。
*
セシリアは剣術科の課題で、木の杭を並べた細い道を、光で足元を照らしながら走り抜けた。照らすのは目の前の三本だけ。審査官が杭を一本抜いて道を変えても、足が止まらなかった。
フェリクスの課題は、受けの型を二十。最後の一つで審査官がわざと強く打ちこんだが、フェリクスは受けた木剣の角度を一度も崩さず、終わってから「十九本目、少し遅れました」と自分で申告した。審査官が笑った。
三人とも、合格。
帰り道、雪の止んだ王宮の回廊で、セシリアが一枚の紙を広げた。学園から配られた、一年生の時間割の見本だった。
「魔術科は、朝から昼まで講義。午後は研究と実験。剣術科は、朝が稽古で、昼から講義。……ぜんぜん重ならないね」
「昼ごはんは?」
「魔術科と剣術科で、食堂の時間がずれてる」
レオは紙をのぞきこんだ。たしかに、二つの科の時間は、きれいに互い違いになっていた。
「じゃあ、朝ごはん」
「剣術科は、朝の鐘の前に稽古」
「夕ごはん。……夕ごはんもだめなら、夜食」
「それは、たぶん大丈夫」
セシリアは紙をたたみながら、急に早口になった。
「毎日一緒にいるわけじゃないって、前にも言ったでしょ。分かってたことだから」
「分かってるよ。だから、ごはんの時間を数えてたんだけど」
「……分かってるなら、いい」
フェリクスが間に入るように言った。
「私は、夕方から従者の仕事です。夕食は、三人とも取れます」
「四人かもね」
セシリアが言った。
「向こうで、友達ができたら」
*
冬の二月の半ば、ベルカの便が来た。
今度の封筒は、分厚かった。
――この前の、短すぎた。追加。あんたが「短っ」て言ったのが、ベルカまで聞こえた気がしたから。
一枚目の一行目に、でかい字でそう書いてあった。レオは研究室の作業台で笑い、二枚目の図を見て笑うのをやめた。
――冷ましたつもりの器が、あとから中から熱くなる。器が熱を覚えてるみたい。
器の断面の図だった。外の壁だけ冷やした器の中で、熱が内側から外側へ、遅れて染み出していく。墨の濃いところが、時間ごとに少しずつ外へ動いていく様子を、同じ器の絵を四つ並べて描いてあった。
冷やしたのに熱が戻ってくる。
レオは自分の手帳をめくった。雨の雲の底を冷やしたあと、しばらくして雲がまたゆるむことがある。あれも同じだろうか。分からない。分からないのに、胸がわくわくした。
最後の紙の終わりに、こうあった。
――それから。春から、しばらく家を出る。遠くへ行く。向こうの宛先が決まったら、書く。
レオはその行を二回読んだ。
返事はその夜のうちに書いた。器の図を三枚。熱が戻ってくる道を、雲の底の図と並べて描いた。でも、どうしてそうなるのかは、どれだけ考えても分からなかった。三枚の図の下に、正直に書いた。
――どうしてだろう!
最後に、一行。
――僕も春から家を出る。遠くの学校。宛先が決まったら、書く。
どこの学校かは、書かなかった。
夏に十一歳だったA.は、まだ学校に入る歳ではない。遠くへ行くというのは、たぶん家の仕事で、ほかの窯へ修業に出るのだろう。アステリアの名前を書いたら、学園の話ばかりになってしまう気がした。A.との手紙は、器と熱の話がいい。
封をしてから、レオは便箋を一束、余分に買った。向こうに着いたら、すぐ書けるように。
*
出発の十日前、レオは練兵場でベルナルトの前に立った。
雪は砂の上から掃き出されて、端に灰色の山になっている。ベルナルトは左手で木剣を下げていた。右肩は、もう肩より上には上がらない。
「頼みがある、と言ったな」
「一本、お願いします」
「三手でなく、一本か」
「一本。今日は、一本で足りる気がする」
ベルナルトはうなずき、構えた。レオも構えた。
それなのにすぐには打ち出せなかった。木剣の先が、少し揺れる。
「……ベルナルト、その前に」
「なんだ」
「アステリアに行ったら、遠鐘館とか、ほかの流派の稽古も見たいんだ。レイゼンとか、セイランとか。紹介状も、そのためにもらった」
レオは木剣の先を見たまま言った。
「でも、そう思うと、ちょっと、ベルナルトと母上を置いていくみたいで。ヴァルディスを捨てるわけじゃないのに。なんか、裏切りみたいな気がする」
ベルナルトは構えを解かなかった。
「イレーネ様は」
短く言った。
「若い頃、セイランの道場に三月通った。足を盗むためだ。俺も一緒に連れていかれた。ひどく負けた」
「……母上が?」
「盗んだ足で、俺の受けを崩しに来た。三年かかった」
ベルナルトの眉が、少しだけ動いた。
「構え直せ」
レオは構え直した。
ベルナルトの左手の剣が、まっすぐ正面に来た。同じ構え。いつもの構えだ。
そこから、三つの攻めが出てくる。レオはそれを知っていた。上から落とす一撃。肩の線から伸びる突き。そして、体ごと前へ出てくる押し。どれが来るか、構えでは分からない。三年、この構えを見てきても、分からない。
だから、構えを見るのをやめた。
見るのは、肩と、腰。そして、その下の、重さが乗っている足。
ベルナルトの左足の踵が、わずかに浮いた。
――押し。
レオは受けの角度を決めた。斜めに立てて、横へ流す。母に何十回も直された角度。押してくる重さが、木剣を伝って手首に来る。流す。流した先に自分の右足を置く。
足元の砂は、雪を掃いたあとで湿っていた。乾いたところと、湿ったところが、まだらになっている。レオの右足は湿ったほうを選んだ。濡れた砂は、乾いた砂より沈まない。
踏んだ足が止まった。
止まった足から、体が前へ出た。ベルナルトの押しが、レオの体の横を素通りしていく。その脇腹の前に、レオの木剣の先が、すっと届いた。
とん。
稽古着の布に、木剣の先が触れる。
練兵場がしんとした。
ベルナルトは、押した姿勢のまま、自分の脇腹に当たっている木剣を見下ろしていたが、やがて、ゆっくりと体を起こした。
「……一本」
レオは木剣を引いた。
声が出なかった。母の角度で受けて、セシリアの足場の読み方で踏んで、夏に砂場で覚えた一歩で前へ出た。どれも、誰かにもらったものだった。
「並べ方は、お前のだ」
ベルナルトが言った。レオの顔に何か書いてあったらしい。
それから、木剣の切っ先を、レオの額に、こん、と置いた。
「次に帰ってきたら、また合わせる。夏だな」
「……うん。夏」
「向こうの剣を、たくさん盗んでこい。盗んだ足で、俺の受けを崩しに来い」
ベルナルトの眉が、今度ははっきりと動いた。
*
その夜、レオは母の部屋の扉を開けた。
椅子の背には、まだ母の外套がかかっている。窓辺の鉢の紅鈴草は、冬の葉を低く広げていた。
壁際の棚に、木剣が一本立てかけてあった。母が朝の調練の前に使っていた、稽古用の木剣だ。本物の剣は武器庫へ戻したけれど、これだけは誰も動かさなかった。
レオはそれを手に取った。
ふつうの木剣。光りもしないし、特別に軽くもない。握りのところだけ色が濃くなって、母の手の形にすり減っている。
握ってみると、手のひらがそのくぼみにすっと収まった。
何も起きなかった。それでよかった。いつもの練兵場で、いつも受けていた重さ。
レオは木剣を布で包み、旅の袋の横に立てかけ、窓辺の鉢に目をやった。
「春の最初の雨、ここで降らせられなくて、ごめん」
小さな声で言った。
「代わりに、向こうで、もっと上手くなってくる」




