置いていける仕事
父の執務室の扉は、ノックを二回したところで内側から開いた。
「灯りが消えるまで待っているつもりだったのか」
父は扉を押さえたまま、廊下に立つレオを見下ろした。夜着の上に上着を一枚引っかけただけの格好で、指先にはインクの染みがついている。
「……消えなかったから」
「消えないよ。今夜は北の備蓄の数字が合わない」
父は笑って、レオを中へ入れた。
晩秋の夜だった。暖炉の火は小さく、机の上には紙の山が三つできている。そのうちの一つの上に、父は自分の眼鏡を置いた。もう読まない、という合図だった。
「アステリアのことだね」
レオはうなずいた。廊下で何度も並べ直してきた言葉が、扉が開いた拍子に半分くらいどこかへ落ちていた。残った分を指を折りながら出していく。
「理由は三つ。一つは研究の道具。アステリアには、熱の逃げ方を測る器も、迷宮の苔を育てる部屋もある。師匠の研究室には、同じ形の器が一つもないんだ」
「知っている。皿を三枚買うのに、市場を一日歩いた」
「二つ目は、剣。ベルナルトの紹介状がある。四つの流派の稽古を、見られるだけ見たい。……三つ目は迷宮。セシリアやフェリクスと、ちゃんとした地図のある場所を、一緒に探りたい」
父は黙って聞いていた。途中で一度もうなずかない。最後まで聞いてから、椅子の背にもたれた。
「よく分かった。どれも、ここにいてはできないことだ」
レオの肩から力が抜けかけた。
「では、一つだけ聞こう」
父の声は変わらず落ち着いていた。
「お前がアステリアで四年学んで、この国へ何を持ち帰れる」
レオは口を開けた。
――水の賢者になって、国じゅうの水を。
喉まで来ていた言葉を、レオはそこで止めた。父の目がそれを待っていないことは、顔を見れば分かった。賢者になれば全部救える、という約束を、父は欲しがっていない。
灰冠の谷の、ゴードの太い指を思い出した。保流石を手のひらに乗せて、「預かる量と、返す長さは別だ」と教えてくれた指だ。
「保流石」
レオは言った。
「アステリアの研究室には、石が水を返す速さを測る器がある。測り方を覚えて、記録を毎月送る。ゴードたちの谷でも、同じ測り方ができるように。僕しかできないやり方じゃなくて」
父はしばらくレオを見ていた。
やがて、机の上の紙の山から、一枚を抜き出した。
「その言葉を、明日の朝、兄たちの前でもう一度言いなさい」
*
翌朝の小会議室には、兄が二人とも揃っていた。
長兄のエドガーは十八歳で、父の横で北の備蓄の決裁を回している。机の上に、昨夜父が合わないと言っていた数字の束があった。次兄のユリウスは十五歳。外交武官の制服の襟を少しゆるめて、見慣れない文字の手紙を読んでいた。
レオが保流石の話をもう一度すると、エドガーは筆を置いた。
「それなら、留守の間の頼みも一つしやすい」
「その前に、僕からも一つ」
レオは身を乗り出した。夜のうちに考えてきたことがあった。
「行く前に、水路伝令を全部直していきたい。灰冠のときみたいに、札の時刻がずれないように。濡れても読める札と、書いた時刻と着いた時刻を分ける欄と。冬のうちに全部の詰所を回れば――」
「誰が使う」
ユリウスが手紙から顔も上げずに言った。
「え」
「全部の詰所に新しい札を配って、誰が使い方を教える。お前は春にいなくなる。冬の間にお前が全部回っても、伝令は新しい札の読み方を知らない兵ばかりだ」
レオは言葉に詰まった。
エドガーが、数字の束の横に、白い紙を一枚置いた。
「一か所だけにしろ。南の詰所がいい。あそこの水路官のヘルゲは、新しいものを嫌がらない。お前が冬の間に一か所で試して、ヘルゲに全部渡していく。うまくいったら、ヘルゲが次の詰所へ広げる」
「僕が直接やったほうが、速いのに」
「速いだろうな」エドガーはあっさり認めた。「でも、お前がいなくなった翌月から止まる」
レオは黙った。言い返す言葉を探して、見つからなかった。
エドガーはもう次の紙をめくっていた。北の備蓄の、穀物の袋の数。どこから何袋を回し、冬の終わりまで足りるか。父の横で、兄は迷いなく筆を走らせていく。レオが見たことのない速さだった。
ユリウスは手紙の返事を書いていた。
レオは横からのぞきこんだ。細かい角ばった字で、ルーデンの字とは違う。
「それ、グランゼルの字?」
「ああ。灰冠で捕まえた向こうの兵の、家族からの照会だ。息子は生きているかと聞いてきている」
ユリウスの筆は止まらなかった。
「生きている。腕を折っているが、治療は受けている。春には交換の名簿に入る。……そう書いている」
レオは、その角ばった字の列を見ていた。
母を奪った戦の、向こう側の家族。その家族に、兄は相手の国の言葉で、いちばん知りたいことを書いている。
「兄上、邪魔してごめん」
「邪魔だな。それで、なんだ」
「一つだけ、教えて。グランゼルの言葉で、『無事』って、なんて書くの」
ユリウスが初めて手を止めた。弟の顔を一度見て、それから紙の端に、短い字を三つ書いた。
「ヴォーラ。生きていて、怪我が重くない、という意味だ。手紙の最初に書く。読む人が、そこで息をつけるように」
レオは手帳を出して、その三文字を写した。角ばった字は、まねして書くと思ったより難しかった。
*
会議の終わりに、父が条件を並べた。
費用は王家の教育費から出し、出入りはフェリクスが帳面につけて、季節ごとに送ること。手紙は月に一度、アステリアとルーデンを結ぶ定期便で出すこと。夏には一度、帰ってくること。
「それから、フェリクスの給金だが」
父は書類を一枚めくった。
「向こうの物価に合わせて、二割上げる。本人から確認の手紙が来ていた。……お前より先に」
「僕、昨日聞くつもりだったのに」
「知っている。だから先に来たんだろう」
エドガーが小さく噴き出した。ユリウスは手紙に目を落としたまま、口の端だけ上げていた。
父は、もう一枚の紙をレオの前に置いた。エドガーの字で書かれた、アステリア学園への紹介状の下書き。
――第三王子レオニスは、魔術の研究と剣の修練のため入学を志す。殿下の身分に応じた特別の扱いは求めない。学ぶ機会を、ほかの学生と同じく与えられたい。
「優遇してくれ、とは書かなかった」
エドガーは言った。
「書いてほしかったか」
「ううん。書いてあったら、たぶん三日で友達がいなくなる」
レオは首を振った。
「そのほうがいい。……ありがとう」
エドガーは照れたように肩をすくめた。
「礼はいらない。王冠のほうは、こっちで預かっているからな。お前は心置きなく雨でも降らせていろ」
九つの秋の、旗取りの日のことを言っているのだと分かった。王冠はいらない、と父に言った日だ。レオは笑った。笑いながら、胸のどこかが少しだけすうすうした。
自分がいなくても、北の備蓄は数え終わる。捕虜の家族には返事が届く。伝令の札はヘルゲが広げていく。
それはほっとすることで、同時に、ちょっとだけ寂しいことだった。
*
その夜、レオは物置の床に、手帳を全部並べた。
九歳の春からの三冊と、今使っている四冊目。一冊目の表紙は水を吸って波打っていて、二冊目は角が焦げている。三冊目の途中から、字が急に小さくなり、頁の間に窓辺の札が一枚挟まっていた。
「全部は持っていけませんよ」
入口でフェリクスが言った。帳面を抱えている。
「分かってる。四冊目だけ」
「一冊目は」
「ここに置いてく。……ヘルゲに南の詰所の札を渡すとき、最初の雨の頁も写して渡そうかなって。順番にほどくところ。あそこ、伝令の札と似てるから」
フェリクスは何も言わずに、帳面に何か書いた。たぶん、紙代だ。
レオは四冊目の最初の白い頁を開いた。そこに自分の字で書いた。
――夏の帰国。定期便の宛先、ローヴェン王宮、父上。それから、南の詰所、ヘルゲ。
書いてみると、帰る日が一つの行になった。行ったきりではない。それが分かるだけで、手のひらの汗が少し引いた。
物置の扉がこんこんと鳴った。
顔を出したのは、師匠の研究室の掃除番の少年だった。手に薄い封筒を一通持っている。
「オルウェン様から。ベルカの便が着いたそうです」
レオは手帳を放り出して、封筒に飛びついた。
――ローヴェン 西の塔 オルウェン気付 レオへ
でかい字。けれど、封筒は驚くほど薄い。
開けると、紙が一枚だけ出てきた。三行しかなかった。
――器の底が厚いと、熱の渦も変わる。たぶん水も。
――あんたの渦の図、今度はくるくるが少なくて読みやすかった。
――今、窯がいちばん忙しいの。ごめん。続きはまた。
レオは紙を裏返した。何も書いていない。もう一度表を見た。三行だった。
「……短っ」
フェリクスが横からのぞきこみ、珍しく声を立てて笑った。
紙のいちばん下の隅に、小さく――あの子にしては小さく、もう一行あった。
――追伸。次のは長いから。




