同じ街で会おう
願書の紙は思っていたより薄かった。
セシリアはそれを父の机の上に置いた。近衛の宿舎の、父の部屋。秋の夕方で、窓の外の練兵場は、もう半分くらい影に沈んでいた。
――アステリア学園 剣術科 入学願書
名前の欄には、もう自分の字で書いてあった。推薦者の欄だけが、空いている。父がそこに名前を書かなければ、この願書はただの薄い紙だ。
「夏に話したことの、続き」
セシリアは言った。
父は願書を手に取った。左手で。右手は膝の上に置いたままだった。
「宿舎の奥さんたちに、言われたの」
セシリアは、父の顔を見ないで、窓のほうを見た。
「レオ殿下がアステリアへ行くなら、護衛としてついていけばいい。そう書けば、推薦も通りやすいって。親切で言ってくれてるのは分かってる」
父は何も言わず、願書の縁を左の親指でなぞった。
「でも、それは書かない」
父の目が願書から上がった。
「私、レオの護衛になりたいんじゃない。自分で道を見て、自分の隊を連れて、知らないところへ行きたいの。地図のない迷宮とか、誰も通ってない山道とか。前に立って、全員を連れて帰ってくる人になりたい」
言ってしまうと、喉が少し乾いた。
「緑井戸で、そう思ったの。あそこの帰り道、私の目印で、全員帰ってこられたから」
父はしばらく黙っていたが、やがて願書を机に置いて、立ち上がった。
「練兵場へ来い」
*
練兵場はもうほとんど暗かった。
父は、白い小石を拾っては、砂の上に置いていった。くねくねと曲がる一本の道。二十個ほど置いて、道のいちばん奥に、小さな旗を一本立てた。
道の途中に、ロルフが木剣を持って立った。たまたま当番明けで通りかかって、父に呼び止められたのだ。
「光で、道を照らせ」
父は言った。
「照らしながら、旗まで行け。ロルフは道をふさぐ。抜けろ」
「照らしながら、剣も振るの?」
「探検隊の先頭は、そうなる」
セシリアは木剣を握った。
指先に光を灯した。道の上に、白い小石が浮かび上がる。一つ、二つ、十、二十。全部の石をくっきり照らした。旗まで、道がはっきり見える。
歩きだした。
光を途切れさせない。二十の石の全部を、同じ明るさで。道の途中で、ロルフが木剣を構えて待っている。
ロルフが打ちこんできた。
受けた。光は揺れなかった。
受けて、払って、ロルフの横を抜けようとした。
足が出なかった。
重い。光を保つのに、体のどこかから、ずっと力を吸い取られている。腕は動く。剣も振れる。でも、脚が、思ったより一歩遅い。ロルフが、すっと横へ動いて、道をふさいだ。
抜けられない。
二度、三度、試した。光は最後まで揺れなかった。でも、ロルフの横は、一度も抜けられなかった。四度目で、足が砂にもつれて、膝をついた。
光がふっと消えた。
暗い練兵場に、セシリアの荒い息だけ。
「無理しないでください、セシリア嬢」
ロルフが木剣を下げて言った。意地悪な声ではなかった。
「光を保ったまま俺の横を抜けるのは、近衛の先導役でも半分は抜けません。俺、新人の足止め役を三年やってるんで」
膝をついたまま、セシリアは考えた。
もっと強く照らせば、と最初に思った。もっと明るくすれば、もっとよく見える。ロルフの動きも、足元も。
でも、それは、違う気がした。
緑井戸の窪みで、苔は、強い光では開かなかった。光を強くしたとき、レオの足元まで暗くなりかけた。全部を一度に照らそうとすると、どこかが削れる。
セシリアは立ち上がった。
「もう一回」
指先に光を灯した。
今度は、二十の石の全部は照らさなかった。目の前の、三つだけ。旗は見えない。ロルフも半分くらい暗がりの中だ。
三つの石がくっきりと浮かんだ。
照らしている間に、走った。三つの石を一気に。光が軽い。脚が、さっきより、ずっと軽い。
三つ目の石を踏んだところで、次の三つを照らす。前の三つは消す。また、走る。
ロルフが暗がりから出てきた。
受けた。照らしている三つの石のうち、ロルフのいない側へ、足を運ぶ。石が見えているから、迷わない。見えている間に、足を動かす。ロルフが道をふさぎ直すより先に、照らした石の上を、すっと抜けた。
ロルフの声が背中で聞こえた。
「あっ」
振り返ったロルフの木剣は、さっきまでセシリアがいた場所の空気を切っていた。
次の三つ。次の三つ。ロルフが追ってくる。追いつく前に、もう次の石が照らされている。
十五個目の石で、脚が、また重くなってきた。
まだ走れる。旗までなら、たぶん届く。でも、旗の手前で膝をつく隊長に、隊はついてこない。
セシリアは止まった。光を保ったまま、振り返った。
「父さん。ここで、交代する」
父は、暗がりの中で、腕を組んでいた。
「誰に」
「ロルフさんに、先頭を渡す。私は、二番目に下がって、ロルフさんの足元だけ照らす。そのほうが、旗まで早く着く」
セシリアは息を整えながら続けた。
「探検隊の先頭は、ずっと私じゃなくていいの。疲れたら、誰に渡すか。それを決めておくのも、隊長だと思う」
ロルフが木剣を下げた。
「……え、俺が先頭ですか」
「ロルフさん、足、遅くないもん。市場のとき以外」
「市場のことは、もう勘弁してください」
父の眉が動いた。暗くて、よく見えなかった。でも、たぶん、動いた。
*
父の部屋に戻ると、父は願書の推薦者の欄に、左手で名前を書いた。
その下の、推薦の理由の欄にも、短く書いた。
――照らす区間を自分で絞り、見えている間に足を動かす。先導を誰へ渡すかも自分で決める。セイランの足運びを学ぶ理由が、剣と光の両方にある。
「セイランは、流れる足の流派だ」
父は筆を置いて言った。
「止まらずに、足場を選び続ける。お前の光と、合う」
セシリアは願書を受け取った。
推薦の欄に、レオの名前は一度も出てこなかった。殿下の護衛とも、従者とも、書いていなかった。
「……ありがとう。父さんの左の字、前より読みやすくなったね」
「礼は、受かってからでいい」
父は、そう言って、窓の外を見た。
「それから、セシリア」
「なに。まだ課題があるの?」
「ロルフを先頭にするなら、市場には連れていくな」
セシリアは、願書を胸に抱えたまま、吹き出した。父の眉が、さっきよりはっきり動いていた。
*
王宮へ寄ったのは、帰り道の途中だったからだ。と、自分に言い聞かせた。
西の塔の三階。研究室の扉を叩くと、レオが顔を出した。指が墨で真っ黒だった。作業台の上に紙が何枚も広がっている。
「セシリア! ちょうどよかった、見て、これ」
レオが一枚の紙を突き出した。
字がでかかった。紙からはみ出しそうな字で、こう書いてあった。
――八十八個目は、半分までしか割れなかった! 外からじゃなくて、内側から先に、ゆっくり冷ましたの。割れ目が真ん中で止まった。止まったところの絵、描いた。見て!
その下に、割れかけた器の絵。上手かった。割れ目が途中で止まって、その先に、まだつるりとした器の肌が残っているのが、ちゃんと分かった。
「……誰?」
「ベルカのA.。前に話した、器の人」
レオは目を輝かせていた。
「二通目の返事。僕が描いた冷え方の図で、試してくれたんだって。半分まで! 割れ目が、半分で止まった!」
「ふうん」
セシリアは紙をレオに返した。
字がでかい。図が、上手い。それから、レオの図で試してくれた人。
ふうん、と、もう一度心の中で言った。
「それより。私、これ」
願書を作業台の上に置いた。推薦の欄の、父の名前が見えるように。
レオがそれを読んだ。読んで、顔を上げた。
「剣術科。……え、剣術科?」
「うん。二回言わなくても、剣術科」
「アステリア」
「うん。父さんが、推薦書いてくれた」
レオの顔がぱあっと明るくなった。
「じゃあ、一緒に――」
「連れていって、じゃないからね」
セシリアは先に言った。
「私は、私の科に行くの。レオはレオの科。毎日一緒にいるわけじゃない。でも」
言葉が少し詰まった。
「同じ街で、会おう」
レオは目をぱちぱちさせて、ぱっと笑った。墨で真っ黒な指で、頭をかいた。
「会おう。絶対、会おう。……あ、そうだ、装備、買いに行こう! 剣と、靴と、地図の筒と――」
「自分で選ぶから」
「え、靴も?」
「自分の装備は、自分で選ぶの。隊長だから」
セシリアは、そこで少しだけ視線をそらした。
「……でも、お店は、一緒に見たい」
「うん!」
レオは、作業台の端から、古い紙を一枚引っぱり出した。四つ折りの跡がついた、端の擦り切れた紙。九つの初夏に物見の丘でセシリアが描いて、あとで写しをくれた地図だった。双子の樫と、レオが迷子になった場所に、小さな印がついている。
「まだ持ってたの。……それ、線が曲がってて恥ずかしいのに」
「持ってるよ。アステリアって、どんな道があるんだろう。迷宮の入口が、街の真ん中にあるんだって」
「入口、いくつあるんだろうね。数えたい」
二人で古い地図の上に顔を寄せた。丘の道を指でたどりながら、まだ見たことのない街の道の話をした。
窓の外は、もうすっかり暗い。
レオが、ふと思い出したように言った。
「フェリクス、明日、実家に帰るんだって。進路のこと、家族と話してくるって」
「一人で?」
「一人で。僕は、ついてくるなって言われた」
レオは、地図から顔を上げて、少しだけ不満そうに口をとがらせた。
「なんでだと思う?」
セシリアは、少し考えてから、答えた。
「フェリクスの話だからでしょ」




