待った足が奪われる
一本目。
フェリクスの帳面の前の頁には、取られた十四本が並んでいる。相手は、左手一本の近衛隊長だ。
レオは踏みこむふりをした。
右へ。空けられた右側へ、さっきまでと同じ最短の一歩。肩を入れ、腰を沈め、砂を蹴る形まで作って――蹴らなかった。
前に出かけた体を、その場で止める。右後ろの、自分の水印のほうへ、半歩だけ戻る。剣を受けの角度に立てる。
踏みこまずに、待つ。
ベルナルトの剣は、空けた右側に置かれるはずだった。レオがそこへ来ると思って、剣を置きに来たところを、受けて、返す。来ると思われている場所に、来ない。それだけで、ベルナルトの一手が空振りになる。
ベルナルトの剣は、右側に置かれなかった。
ベルナルトの体が、半歩、左へずれた。たった半歩。それだけで、空いていたはずの右側が、閉じる。代わりに、レオの正面が、がらりと開いた。ベルナルトの左手の剣が、そのまま、レオの胸の前へ詰めてきた。
速くはなかった。でも、レオが待っていた場所は、もう、待つ場所ではなくなっていた。
水印はレオの右後ろにあった。ベルナルトは、そっちを一度も見なかった。
木剣の切っ先が、こん、とレオの胸に触れた。
「一」
フェリクスが帳面に書いた。
*
二本目も待った。
今度は、踏みこむふりを、もっと本物らしくした。
ベルナルトは半歩ずらした。そして、詰めてきた。
三本目も同じ。
レオは砂の上で息を吐いた。
待てば勝てる、と思った。来る場所に先に剣を置かれるなら、行かなければいい。来たところを受ければいい。
でも、ベルナルトは、来なかった。来るのではなく、詰めてきた。レオが待つと決めたその場所ごと、半歩で動かして、レオの足を、ただの立ち止まった足にしてしまう。
待った足はもう動けない。
――母の受け。
レオはふと思った。
母は受けの剣だった。ヴァルディス流の守護剣聖。受けて、流して、守る。それが母の剣だと、ずっと思っていた。
でも袖取りの勝負のとき。母は、穴を空けた。砂の輪を割って、レオに穴を見せた。受ける前に、受ける場所を、自分で作っていた。
待っていたのではない。
母は、先に動いて、それから待っていた。
「……受けにも、先手があるんだ」
口の中で言った。
懐かしい、とは思わなかった。それより、今、手の中で何かがつながった感じがした。ベルナルトの半歩。母の、穴。どっちも受ける側が先に動いている。
*
「四本目」
フェリクスが言った。
いつの間にか、柵の外に、朝番明けの兵士が四、五人集まっていた。殿下が隊長に朝から転がされている、という話が詰所まで届いたらしい。誰も笑ってはいなかった。
レオは構えた。
踏みこまない。待たない。
右後ろの水印から、一歩、右へ動いた。ベルナルトが空けた右側でも、レオの戻り道でもない、もう一つの場所。そこに立って、受けの角度に剣を立てる。
ベルナルトが、半歩ずれた。
詰めてくる。
レオは受けた。ずしん、と左手一本の重さが手首に来た。受けた力を横へ流す。流した先へ、自分の足を運ぶ。右後ろの水印のほうへ。踵が濡れた砂を踏んだ。ぐっと、足が止まった。濡れた砂は乾いた砂より沈まない。
足場ができた。
ベルナルトの二手目。上から。
受けた。流した。今度は、左へ、半歩。
三手目。ベルナルトの剣が、レオの胸の前へ、まっすぐ来る。
受けた。受けた剣を、相手の剣に添わせたまま、レオの剣が、相手の剣の上を滑っていく。手首を返す。返した剣の先が、ベルナルトの左の袖へ向かって伸びた。
届く。
袖の布が、剣の先の、指一本ぶん向こうにあった。
こん。
額に、木剣の切っ先が置かれていた。
ベルナルトの右手だった。剣の柄の後ろに添えていた右手が、いつの間にか柄を握り直して、短く、剣の先を跳ね上げていた。肩の高さまでは上がらない右手。でも、額までなら、届く。
レオの剣の先は、袖の手前で止まっていた。
柵の外が、しんとした。
「……隊長が、右を使った」
兵士の一人が、ささやくように言った。夏のはじめに布が取れてから、誰の稽古でも、ベルナルトは右で剣を振っていなかった。
「四」
フェリクスの声が、少し遅れて聞こえた。
*
一本も、取れなかった。
レオは砂の上に大の字になった。空が高い。汗が、こめかみを伝って耳に入った。
「今朝の分を合わせると、十八本です」
フェリクスが柵のそばから律儀に言った。
「数えなくていいって」
「数え直してと言ったのは、レオです。前の頁が十四、こっちの頁が四。十八本、全部、ベルナルト様です」
「全部って言わなくていい」
「ただ、最後の一本だけ、袖までの距離を書いておきました。指一本です。それと、ベルナルト様の右手が、一回」
レオは、空を見たまま、少しだけ笑った。指一本と、右手が一回。前の頁にはそんな欄はなかった。
ベルナルトが木剣を下ろし、レオの横に立った。見下ろして、それから、しゃがむ。大きな体が、レオの頭の横に、影を落とした。
「最後の一本」
低い声だった。
「受けた場所は、俺が決めた。返した場所は、お前が作った」
レオは、首だけ動かして、ベルナルトを見た。
「濡れた砂を踏んだな。自分で置いた印を、自分の足場にした」
「……うん」
「それでいい」
ベルナルトはそれ以上言わなかった。
眉は動かなかった。そのかわり、レオの額を、左手の指で、とん、と叩いた。木剣の切っ先が置かれた、ちょうどその場所を。
レオは起き上がった。手の甲で額の汗を拭いた。
「ねえ、ベルナルト。一個だけ」
「なんだ」
「もっと見たい」
ベルナルトは黙ってレオを見た。
「知らない先手。ベルナルトの半歩も、母上の穴も、僕、ずっと受けの剣だと思ってたのに、先に動いてた。ほかの流派にも、きっと、僕の知らない先手がある。それ、見たい」
言ってから、レオは少し口ごもった。
「……ベルナルトの剣を、やめたいって意味じゃなくて」
「分かっている」
ベルナルトは立ち上がった。
練兵場の詰所のほうへ歩いていく。レオは慌てて後を追った。フェリクスも、帳面を閉じてついてきた。
詰所の机で、ベルナルトは紙を一枚出し、左手で筆を取る。
去年の秋の終わりに受け取った手紙と、同じ字だった。まっすぐな線が引けない、曲がった字。それでも一画も崩さないように書こうとする字。冬よりは、線のゆがみが減っていた。
時間をかけて、書いた。書き終えて、封をして、レオに渡した。
表に、宛名が一行。
――アステリア 剣術四流派 公開稽古の取次へ
「アステリアの流派の道場は、月に一度、外の者に稽古を見せる」
ベルナルトは言った。
「四つの流派の、どこも。見に行くなら、これを出せ。近衛の名前で、見学の席くらいは取れる」
「……入れってこと?」
「見てから、選べ」
ベルナルトは、筆を置いた。
「どこに入るか。入らないか。ヴァルディスを続けるか。お前が、自分の目で見て、決めろ」
レオは封筒を両手で持った。軽い紙だった。でも、指に力が入った。
「僕、強くなったら、戻ってくる」
言った。
「ベルナルトに勝てるようになったら。そしたら、また稽古して」
ベルナルトの眉が、今日いちばん大きく動いた。
「その時まで、俺が、ここで待っているだけだと思うか」
レオは口を開けた。
閉じた。
それから、笑った。
「思わない。……ずるいな、それ」
「なら、いい」
*
詰所を出たところで、足音が近づいてきた。
速い足音だった。砂を蹴る、軽い音。振り返ると、セシリアが走ってきていた。手に、丸めた紙を一本、握っている。
「父さん!」
セシリアは詰所の入口で止まった。息が切れていた。頬が赤い。
レオを見て、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにベルナルトのほうへ向き直った。丸めた紙を胸の前でぎゅっと握り直す。
「話があるの。今、いい?」
ベルナルトは娘の手の紙を見た。
紙の端に、本と星の紋が、ちらっと見えた。
ベルナルトは、レオとフェリクスのほうを、一度だけ見た。レオには、それが「行け」という意味だと分かった。
「……行こう、フェリクス」
「はい。……聞こえないところまで、早足で」
二人で練兵場の外へ歩きだした。
背中のほうでセシリアの声が聞こえた。いつものきびきびした声より、少しだけ高かった。
「アステリアの、剣術科のことなんだけど――」
レオは振り返らなかった。
振り返りたかった。でも、あれは、セシリアの話だった。




