そこへ来ると知っている
朝の鐘が、ちょうど鳴り終わったところだった。
練兵場の砂は昨日の砂場の砂より硬い。踏むと、足の裏にしっかり返ってくる。レオは木剣を握り直して、ベルナルトと向かい合った。
ベルナルトは左手で木剣を構えていた。右手は、剣の柄の後ろのほうに、軽く添えてあるだけ。夏のあいだに、右手でも柄を握れるようになった。でも、振るのは左。右肩が上がりきらないのだと、フェリクスが近衛の兵士から聞いてきた。
だから、とレオは思った。
昨日、砂場で走ったときの感じが、まだ脚に残っていた。雷は使わない。ふつうの踏みこみで、いちばん短い道を、いちばん速く。ベルナルトの右側。肩の上がらないほう。構えを直すより先に、剣を届かせる。
「何本」
ベルナルトが聞いた。
「一本、取るまで」
眉が少しだけ動いた。
*
踏みこんだ。
最短の一歩。砂を蹴る。ベルナルトの右の脇腹へ、まっすぐ。速い。昨日ほどではないけれど、今までの稽古でいちばん速い一歩だった。
かつん。
木剣が止まった。
レオの剣の先に、ベルナルトの剣が、もう置いてあった。右の脇腹の前に、斜めに。レオが踏みこむ前から、そこにあったみたいに。
レオは跳び下がった。
「……もう一本」
二本目。同じ場所へ、同じ速さで。
かつん。
三本目。少し角度を変えて、腰のほうへ。
かつん。
どれも、剣が来る場所に、先に剣が置かれていた。ベルナルトはほとんど動いていない。足も、ほとんど動かしていない。左手の剣を、少し傾けて、少し下ろして、レオの剣の通り道に置いているだけだった。
速さが足りないのだろうか。
「フェリクス、今の、何歩だった?」
柵のそばで帳面を広げていたフェリクスが、顔を上げた。
「一歩です。三本とも」
一歩。速さは足りている。ベルナルトが構えを動かすより、レオの一歩のほうが速いはずだった。
じゃあ、なんで。
足音かもしれない、と思った。
砂を蹴る音で来るのが分かる。だったら、音を消せばいい。
四本目は、つま先からそっと砂に入れて、蹴らずに、滑るように前へ出た。自分の耳にも、ほとんど音が聞こえなかった。
かつん。
剣はそこにあった。
五本目。今度は水を使った。
剣を構えたまま、左の手のひらから、小さな水を一つ、ベルナルトの左の足元へ飛ばした。砂の上にぽつんと濡れた跡ができる。水印だ。ベルナルトの目が、一瞬でもそっちへ行けば。
ベルナルトの目は、動かなかった。
レオが右へ踏みこむより先に、ベルナルトの剣が、右へ置かれていた。
かつん。
六本目、七本目。
風を使った。踏みこむ直前に、自分の足元に風を一筋吹かせて、踏み出す向きを、わずかにずらす。まっすぐ右へ来ると見せて、斜め前へ。
ベルナルトは追ってこなかった。
斜め前へ出たレオの剣は、空を切った。ベルナルトの体は、もうそこにはなかった。半歩、横へ動いている。そして、レオの剣が通り過ぎたあとの、レオが戻ってくるはずの場所に、木剣の切っ先が、すっと置かれていた。
戻れない。
レオは、斜め前に出たまま、止まった。
ベルナルトの切っ先が、こん、とレオの肩に触れた。
*
十本を越えたあたりで、レオは数えるのをやめた。
汗が目に入る。手のひらが、柄の上で滑りそうだった。
負けている。一本も取れていない。なのに、やめたくなかった。
負けるたびに、ベルナルトの剣が、どこからどこへ動いたのか、見たくなった。どうして、そこにあるのか。一本ごとに、少しずつ、見えるものが増えていく気がした。左手の手首の角度。肩の傾き。腰の向き。分かりそうで分からない。
「……ねえ」
息を切らしながら、レオは聞いた。
「僕、速さ、隠せてない?」
ベルナルトは剣を下ろし、柵のほうへ歩いていった。柵にもたれて、腰の水筒から水を一口飲んだ。それから、何も言わずに、レオを見た。
待っている。
考える時間をくれているのだ。
レオは砂の上に座りこんだ。木剣を膝に置いて、息を整えた。
速さは足りていた。足音も消せていた。水印にも、目は動かない。風で向きを変えても、追ってこなかった。
追ってこなかった。
変えた向きの先に、ベルナルトはいなかった。いたのは、レオが戻ってくる場所だった。
――母の、袖。
九つの夏。中庭で母と袖取りの勝負をした。レオは風で砂を巻き上げて、母とのあいだに砂の輪を立てた。向こうが見えないように、全部同じ強さで。
なのに、輪の右手前が、ふっと薄くなった。輪の向こうで、母が一歩だけ動いて、砂の流れを割ったのだ。
レオはその穴へ走った。母の剣は、穴の向こうで待っていた。
あのとき、穴の手前で半歩だけ外へ踏み替えたから、指先が袖に触れた。それでも、一本取ったのは母のほう。勝負のあとで母は笑いながら言った。
「守っている側から見るとね。穴が一つしかない壁は、そこを見張っていればいいから楽なのよ」
穴を空けたのは、母のほうだった。
レオは砂の上で顔を上げた。
ベルナルトの剣は、レオの剣が来る場所に、先に置かれていた。
それは速さを読まれたのではない。
行き先を決められていた。
右肩が上がらないほう。あの右側をベルナルトは空けていた。空けて、レオがそこへ来るのを知っていた。最短の一歩なら、来る場所は一つしかない。どれだけ速くても、来る場所が分かっていれば、先に剣を置いておけばいい。
音を消しても、水印を置いても、変わらない。行き先が同じなら。
風で向きを変えたときは、ベルナルトは追わずに、レオが帰ってくる場所を押さえた。前へ出た人間は、必ずどこかへ戻ってくる。その戻り道は、レオ自身が選んだつもりで、実はもう、決まっていた。
「……用意されてたんだ」
声に出すと、背中に、ぞくっとしたものが走った。怖さより、面白さのほうがずっと大きい。
「僕の行き先。ベルナルトが先に作ってた。右を空けて、僕がそこに来るって知ってた」
ベルナルトは、柵にもたれたまま、水筒の蓋を閉めた。
何も言わなかった。でも、眉が、さっきより少しだけ大きく動いた。
*
レオは立ち上がった。
速く届くことは、もう考えなかった。
どんなに速く届いても、届く先で剣が待っている。だったら、届く先を、変えなくちゃいけない。ベルナルトが守っている場所を、ずらす。ベルナルトが先に剣を置く場所を、ベルナルト自身に選び直させる。
どうやって。
レオは、さっき砂の上に飛ばした水印を見た。ベルナルトの左の足元。もう半分乾きかけている。目は動かなかった。ベルナルトの正面に、囮を置いても、意味がない。ベルナルトはレオしか見ていない。
レオは自分の足元を見た。
自分が立っている場所。踏みこんで、戻ってくる場所。ベルナルトがいつも押さえる、レオの戻り道。
手のひらに水を一つ作った。
それを、ベルナルトのほうへではなく、自分の右後ろの砂に、ぽつんと落とした。
踏みこんだあと、レオが戻れる場所。そこに自分で印をつけておく。
「フェリクス、帳面」
柵のそばで、フェリクスが帳面から顔を上げた。
「今から、何本目?」
「十四本目です。十四本とも、『取られた』の欄に書いてあります」
「そこから、数え直して」
フェリクスは帳面の頁をめくった。新しい頁の、いちばん上に、「一」と書いた。
ベルナルトが柵から体を起こした。
木剣を左手で拾い、ゆっくりと、砂の真ん中へ戻ってくる。レオの右後ろの、濡れた印を、ちらっとだけ見る。それから、レオを見た。
構えた。
さっきと、同じ構えだった。右を空けている。
「来い」
レオは木剣を握り直した。
右後ろに自分の水印。前に、空けられた右側。
今度はそこへは行かない。




