目印を越えた一歩
白い小石が三つ、砂場に等しい間をあけて並んでいた。
一つ目がレオの足元。二つ目は、大人の大股で五歩先。そこまでを、一歩で行く。
練兵場の東の端の砂場は、近衛の若い兵士が跳躍の稽古に使う場所だ。深く掘って、川の細かい砂を入れてある。夏の終わりの午後、三つ目の石は砂場の終わり近くに置かれ、その向こうには、余分に砂を盛った長い帯が、練兵場の柵の手前まで続いていた。
「止まりきれなかったときのための砂です」
フェリクスが、三つ目の石の横にしゃがんで言った。手には長い紐。等間隔に結び目がある。
「柵まで、あと六十歩ぶんあります」
「そんなに走らないって」
「念のためです。レオの『そんなに』は、だいたい三倍になりますので」
砂場の脇に、オルウェン師匠が立っていた。手に、砂時計と、濡らした布。その反対側に、ベルナルトが腕を組んで立っている。右腕はもう吊っていなかった。夏のはじめに布が取れて、それから毎朝、左手で剣を振り、右手で軽い木の棒を握る稽古を続けている。
砂場の向こうでは、跳躍の稽古をしていた若い兵士が二人、手を止めてこっちを見ていた。
「大股五歩を、一歩?」
「近衛の跳躍の記録でも、三歩半だぞ」
悪気のない声だった。レオも、数字だけなら同じことを言ったと思う。
レオは二つ目の石を見た。
一歩であそこまで。
*
話は、ひと月前の手紙から始まっていた。
アステリアの研究者が、苔の手紙と一緒に、学園の講座の目録を送ってくれた。素材研究の講座、四つの剣の流派の公開稽古、星環窟の共同実習。レオは三日かけて、行きたい講座に全部印をつけた。印をつけ終わって時間割に書きこんでみたら、同じ日の同じ午後に、三つの講座が重なっていた。
「午後が三つ要る」
真剣にそう言ったレオに、師匠は笑いをこらえながら教えてくれた。魔術科に籍を置いて、剣術の講義も取れる。街には流派の道場があって、夕方から通える。全部は取れない。でも、行きたい理由を絞れば、組める。
絞った。基礎をやり直したいんじゃない。比べる相手が欲しい。素材と、仲間と、今とは違う剣。
そう書いた時間割の、空いた一枠を見て、レオはなぜかうれしくなった。実験を続ける時間が、ちゃんと残っていた。
目録のいちばん後ろに、学園の訓練場の説明があった。身体補助の術を、安全な区画で試せる場所。転んでもいい砂の床と、記録をとる係がいる。
読んだ瞬間、レオは思った。
雷を、体に通したらどうなるんだろう。
剣豪より上の剣士は、みんな魔力で体を助けている。筋を少し強く、姿勢を少し正しく。レオも、ベルナルトに習って、基礎の補助だけはできる。そこに雷の短い流れを重ねたら。皿の上を一瞬で走るあの光みたいに、一歩が速くなるかもしれない。
入学まで待てなかった。
ベルナルトと師匠に、頼みに行った。一歩だけ。何もないところで。誰も何も置かない場所で。
*
「条件を、もう一度」
師匠が言った。
「一歩だけ。目印に向かって、まっすぐ。剣は持たない。誰も前に立たない。私が手を挙げたら、そこでやめる」
「うん。手が挙がったら、片足でも止まる」
「熱と疲れは、私が見る。足が着くところは、ベルナルトが見る」
ベルナルトが小さく頷いた。
レオは一つ目の石の上に立った。
まず、ふだんの補助。ベルナルトに習ったとおり、魔力を脚と腰へ、薄く配る。太ももの内側が、ほんのり温かくなる。ここまでは、いつもの稽古の前と同じだった。
それから、雷。
今日は手首や指先の代わりに、体の中に通す。火の熱を背中に、水の冷たさを足の裏に、そのあいだを風で回す。皿の上で、ほんの一瞬だけ光の道を開く、あの順番を、体の中の短い一本の線でやる。
ぴり、と背骨の真ん中が鳴った。
踏み出した。
上半身が飛んだ。
足がついてこなかった。胸から先だけが、ぐんと前へ引っ張られて、腰から下が置いていかれた。レオの体は、くの字に折れたまま前へつんのめり、二つ目の石のずっと手前で、顔から砂に突っこんだ。
口の中が砂だらけになった。
砂場の向こうで、兵士の一人が「ほらな」と小さく言うのが聞こえた。
「レオ!」
フェリクスの声。
「大丈夫。……砂って、あんまりおいしくない」
砂を吐きながら、レオは手を挙げた。顔を上げると、師匠が濡らした布を持って、もう隣にしゃがんでいた。布をレオの首の後ろに当てる。冷たかった。
「熱は、背中に少し。疲れは」
「まだ平気」
「手を見せなさい」
レオは手を広げた。震えてはいない。
師匠は頷いて、立ち上がった。手は挙げなかった。
レオは、砂の上に座ったまま、振り返った。
一つ目の石から、自分の足跡が続いていた。
一歩目の跡は、深かった。右足の爪先だけが、砂をえぐるように掘っている。二歩目の跡はない。代わりに、膝をついた跡と、両手をついた跡と、顔の跡。
爪先だけ。踵が着いていない。
「……体が、先に行ったんだ」
レオは自分の足跡を指でなぞった。
「足より、胸のほうが先に速くなった。だから、足が置いていかれて、前に倒れた」
「力が足りなかったのでは」とフェリクス。
「違う。力は出すぎたくらい。向きが、揃ってなかった」
補助は脚と腰に、雷は背中から足の裏へ。通した場所が、ばらばらだったのだ。
ベルナルトが、砂場の縁から、ひとことだけ言った。
「姿勢」
「うん。……僕が長々言おうとしてたこと、一言で済んじゃった」
レオは立ち上がって、口の中の砂をもう一度吐いた。
「先に、補助で姿勢を揃える。全部。脚だけじゃなくて、背中から踵まで。揃えてから、雷を、ちょっとだけ。短く」
*
二度目。
一つ目の石の上に立って、目を閉じた。
補助を全身に配る。脚、腰、背中、肩。踏み出したときの形を、先に体の中で作っておく。前へ倒れるのではなく、まっすぐ前へ滑る形。踵までちゃんと砂を踏む形。
揃った、と思った。
目を開ける。二つ目の石が白く光って見えた。
雷を重ねた。さっきより短く。背骨の一本の線に、ぴり、と一瞬だけ。
踏んだ。
砂を蹴った音が、自分より後ろから聞こえた。
風が、顔の正面からぶつかってくる。耳の横で、ごう、と鳴った。二つ目の白い石が、足の下を、するっと後ろへ流れていった。止まらない。三つ目の石も流れていく。
止まらない。
足はちゃんと着いていた。踵も。一歩、二歩、三歩、倒れずに走っている。ただ、止まらない。体が前へ前へと引っ張られて、足がそれを追いかけている。
余分の砂の帯に入った。足が砂に沈む。それでも、まだ止まらない。四歩、五歩、十歩。砂を蹴り上げながら、柵がぐんぐん近づいてくる。
レオは、腕を大きく広げて、体を後ろへ倒した。
背中から、砂に落ちた。
ずざざざざ、と砂の上を滑って、柵の手前、腕一本ぶんのところで、止まった。
目の前に、空。
夏の終わりの、高い空。雲が一つ、ゆっくり流れていた。
レオは、砂の上で仰向けになったまま、首だけ起こして、振り返った。
一つ目の石がずっと遠くに見えた。二つ目の石も、三つ目の石も。全部、自分の後ろにあった。その向こうに、師匠と、ベルナルトと、紐を持って走ってくるフェリクスが、小さく見えた。
跳躍の兵士の一人が、手にしていた計り縄を、砂の上に取り落としていた。
背骨に通した雷は、ぴり、と一度きりだった。二度通していたら、柵ごと越えて、向こうの石畳に落ちていた。
笑いが腹の底からこみ上げてきた。
「……速い」
声に出した。
「速い! 見た? 今の、見た? 二つ目、一歩で越えた! 音が後ろから聞こえた!」
砂の上で手足をばたばたさせた。背中も、腕も、砂だらけ。どうでもよかった。速かった。体が、自分の思ったより先に、遠くへ行った。あんな感じは生まれて初めてだった。
師匠が歩いてきた。手は、挙げていなかった。濡らした布をレオの額に乗せて、言った。
「一歩は、できたね」
ベルナルトも、来た。砂の上の足跡を、一つ目の石からずっと目でたどってから、レオを見下ろした。
眉が少しだけ動いた。
「着地は、揃っていた」
*
フェリクスは、紐を持ったまま、まだ息を切らしていた。
三つ目の石から、レオが止まった場所まで、紐で測っていく。結び目を、一つ、二つと数える。測り終えて、帳面を開いた。
「二つ目の石まで、一歩です」
「うん!」
「それから、止まるまで、四十一歩です」
レオは砂の上で起き上がった。
「四十一。……そんなに?」
「四十一歩。柵まで、残り腕一本でした」
フェリクスは帳面をレオのほうへ向けた。
頁が二つの欄に分かれていた。
左の欄には、「届いた」。そこに、一歩、と書いてある。右の欄には、「止まれた」。そこに、四十一歩、と書いてあって、その下に二本線が引いてあった。
「同じ欄には、書けません」
フェリクスは真顔で言った。
「届いたのは、一歩。止まるのは四十一歩。同じ欄に書いたら、四十一歩のほうが見えなくなります」
「……厳しい」
「会計ですから」
師匠が、二つの欄をのぞきこんで、笑った。
「いい帳面だ。止まる欄が、そのうち一歩になったら、両方の欄を一つにしていい」
レオは、帳面の「四十一」を見た。
足跡にも目をやった。一つ目の石から、点々と、ずっと柵の手前まで。最初の失敗の、爪先だけの深い跡と、二度目の、踵まで揃った跡。
手帳を開いて、その二本の足跡を写した。並べて描くと、違いがよく分かった。最初のは爪先が前のめり。二度目のは、足の裏全体が、ちゃんと前を向いている。
帰り道、ベルナルトがレオの横を歩いていた。
「明日、稽古に来るか」
「行く」
レオは即答した。
足が速くなれば、剣も先に届く。踏みこむのが速ければ、相手が構える前に、木剣を当てられる。ベルナルトの右肩は、まだ前と同じには動かない。だったら、速いほうが勝つはずだ。
「でも、雷は使わない」
レオは言った。
「まず、ふつうの踏みこみで試す。速く踏みこめば、先に届くかどうか。それが分かってから」
ベルナルトは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、歩く速さを落とした。レオの足に合わせるみたいに。
「明日、朝の鐘で」
「うん。鐘より先に着いてる」
レオは、手帳の足跡の絵に、もう一度目を落とした。
速い。届く。明日、それを確かめる。
手帳を閉じる前に、余白に、雲の形を一つ描いた。中に、「?」を一つ。




