知らない失敗の面白さ
「フェリクス。あの紙、まだ持ってる?」
初夏の朝だった。詰所の前の石段で、フェリクスは実験費の帳面を膝に広げていた。レオが聞くと、顔を上げて、少しのあいだ黙った。
やがて、帳面のいちばん後ろの頁をめくった。
挟んである。青い封の跡がついた、折りたたまれた紙。封には本と星の紋。師匠の研究室で見た、アステリアの苔の瓶と同じ紋だった。
去年の夏、母の部屋を片づけたとき、机の引き出しから出てきたものだった。レオはそのとき、文字を読む気になれなかった。フェリクスが「預かっておきます」と言って、帳面に挟んだ。それきり、二人ともその紙のことは口にしていない。
フェリクスは紙を差し出した。
「いつ聞かれるかと思っていました」
「……開けてない?」
「預かっただけです」
レオは、石段に腰を下ろして、紙を開いた。
――学園都市アステリア 夏の公開研究会
いちばん上に、大きな字でそう刷ってあった。その下に、日付と、会場の名前と、部門の一覧。「研究者の部」「工房の部」「探索者の部」。最後に、「少年少女の部(十五歳以下)」。
そこに丸がついていた。
インクの丸。少しだけ歪んでいて、書きはじめと書き終わりが重なっている。母が、急いで何かに丸をつけるときの癖だった。予定帳の中にも、同じ丸がたくさんあった。
余白に母の字があった。
――レオと。十二の夏?
疑問符で終わっていた。
レオはその字をしばらく見ていた。紙のいちばん上の日付に、もう一度目をやる。
夏の二月。今年の。
「今年だ」
声がかすれた。
「十二の夏って、今年のことだ」
フェリクスは何も言わなかった。
アステリアまでは、馬車で十二日。研究会はひと月半後。少年少女の部の申しこみは、春の終わりで締め切られていた。紙の下のほうに、小さな字でそう書いてある。
もう、間に合わない。
母はまだ決めていなかった。疑問符がついている。行けるかどうか、行かせてもいいかどうか、たぶん父と相談するつもりだった。予約札みたいなもの、と母は言っていた。まだ内緒の、予約札。
レオは紙の折り目を指でなぞった。胸の奥が、きゅっとなった。でも、紙を閉じたいとは思わなかった。
紙を裏返した。
裏には、出展の一覧が、細かい字でびっしり並んでいた。少年少女の部に出る子どもたちの、研究の題名と、出身と、年齢。
――風車の羽根の数と回る速さ(ネイラ/出展者K.、十四歳)
――星環窟三層の小石の分類(アステリア/出展者M.、十三歳)
――光る茸の育て方(フィルナ/出展者E.、十二歳)
レオの目が一つの行で止まった。
――温度を保つ器(ベルカ/出展者A.、十一歳) 連絡先 ベルカ窯通り、ダリオ窯
「ベルカ。……あの水筒の」
レオは手帳を出した。去年の、まだ母が生きていたころの頁をめくる。交易所でベルカの水筒を見た日。二重に焼いた陶器の水筒で、朝に入れた湯が、昼になってもまだ温かかった。手帳には、その水筒の絵と、走り書きが一行だけ。
――ベルカ。熱が逃げない。なんで?
答えは書いていなかった。
*
その夏、レオはずっと、苔の瓶を二つ並べていた。
緑井戸の苔と、アステリアの苔。水を替え、土を替え、光を替えた。アステリアの知り合いから師匠宛てに届く手紙を、毎回読ませてもらった。向こうの研究者は、自分の失敗まで書いてくる。光を青くしてみたら、葉が黒ずんで枯れた。水を温めたら、根から腐った。
「失敗のところが、いちばん面白い」
レオが言うと、師匠は笑った。
「成功の書き方は、みんな似てくるからね。どこで迷ったかは、人によって違う」
分かったことが一つあった。水の温度だった。緑井戸の苔は冷たい水でないと開かない。アステリアの苔は、少しぬるい水で開く。光の好みも、そこから変わっているようだった。
熱。
また、熱だった。
どこから入って、どこへ逃げるのか。雷の熱の道も、苔の水の温度も、ベルカの水筒も。レオの手帳の中で、同じ問いが、別々の頁にばらばらに書いてあった。
手紙を書くと決めたのは、夏の一月の終わりだった。
研究室の作業台を借りて、紙を三枚並べた。
「誰に書くんですか」
フェリクスがのぞきこんだ。
「ベルカのA.」
「出展者の? 会ったこともないのに」
「温度を保つ器、って書いてあった。十一歳で熱が逃げない器を作ってる。どうやってるのか、知りたい」
レオは書きはじめた。
知らない人へ手紙を書くのは、これが初めて。最初の一行で三回書き直した。それから、もう挨拶はいいや、と思って、聞きたいことから書いた。
ベルカの二重の水筒を見たこと。朝の湯が昼まで温かかったこと。熱はどこから逃げるのか。二重にすると、どうして逃げにくくなるのか。自分は、水と火と風で小さな雨を降らせる研究をしていて、温めた湯気を冷やすときに、熱がどっちへ逃げるかでいつも困っていること。
図も描いた。湯気の熱が、雲の底から外へ逃げていく図。熱の流れを、くるくると渦を巻く矢印で描いた。分からないところには、小さな雲の形で囲んで、中に疑問符を一つ。レオがいつも手帳でやっている描き方だった。
最後に名前を書いた。
――ローヴェンのレオ
「殿下とは、書かないんですか」
フェリクスが聞いた。
「書いたら、返事が変わるだろ」
レオは紙を折った。
「王子に何を書けばいいか考えるより、器のことを考えてほしいんだ」
「返事の宛先は」
「師匠の研究室。西の塔、オルウェン気付」
師匠が、窓辺で苔の瓶を見ながら、肩をすくめた。
「私の名前が、郵便受けみたいに使われているね」
「だめ?」
「いいよ。返事が来たら、私も読ませてもらえるなら」
「師匠宛てじゃないから、だめ」
「ひどい弟子だ」
フェリクスが帳面を開いた。
「ベルカへの便は、南の街道を回る商人の定期便です。早くて半月。往復でひと月。あと、紙代と封代と運び賃で――」
「実験費から出していい?」
「研究のための質問状ですから、出せます。ただし、二通目からは、一通ごとに書く前に相談してください」
「二通目があると思う?」
「レオが書くなら、あると思います」
*
返事は、来ないかもしれないと思っていた。
知らない国の、知らない子どもから、急に手紙が届く。熱がどこから逃げるかと聞かれる。自分だったら、どうするだろう。……たぶん、すぐ返事を書く。でも、みんながそうとは限らない。
夏の二月。アステリアでは、研究会が開かれているはずだった。レオは、その日、温室の紅鈴草に水をやって、母の部屋の窓辺の鉢にも水をやって、手帳の世話帳に日付だけ書いた。何も書き足さなかった。
その十日後だった。
師匠の研究室の扉を開けると、作業台の真ん中に、分厚い封筒が置いてあった。
「来たよ」
師匠が苔の瓶の向こうから言った。
「重い。何が入っているのか、気になって仕方がなかったけど、開けなかった。師匠宛てじゃないからね」
レオは封筒に飛びついた。
表に宛名が書いてあった。
――ローヴェン 西の塔 オルウェン気付 レオへ
字がでかかった。
封筒の表いっぱいに、のびのびと。「レオへ」の三文字だけで、封筒の半分くらいある。
開けると、紙が五枚出てきた。五枚もあるのに、一枚の字の行数は、レオの手紙の半分もなかった。どの字も、大きくて、まっすぐで、力が入っていて、ところどころ紙がへこんでいた。
――ローヴェンのレオへ。
――手紙、ありがと。待って待って、最初に言わせて。ベルカの水筒を見てくれたのはうれしいけど、あれはうちのじゃない。隣の窯のやつ。あれはあれでいい水筒だけど、底が厚すぎて重いの。あたしのはもっと軽い。
レオは思わず笑った。
――熱がどこから逃げるか。いちばん逃げるのは、壁と壁がくっついてるところ。二重にしても、内の壁と外の壁がどこかでつながってないと、器にならないでしょ。そのつながってるところから、熱は外へ出ていく。だから、あたしはつなぎ目をなるべく細くしてる。
次の紙に図があった。
レオは息をのんだ。
器の断面だった。内の壁と外の壁、そのあいだの空気。つなぎ目の細さ。湯を入れたときに、熱がどこを通って外へ出ていくか。それが色の濃さで描いてあった。墨を薄めたり濃くしたりして、熱いところは濃く、冷めていくところはだんだん薄く。矢印は一本も使っていないのに、熱の流れが目で追えた。
「……うまい」
声が出た。
師匠が、苔の瓶の向こうから、ちらっとこっちを見た。
三枚目と四枚目は、失敗の話。
――一個目は、つなぎ目を細くしすぎて、窯の中で内の壁が落ちた。外から見たら普通の器なのに、振ったらからから鳴った。
――二個目は、うわぐすりの色が変になった。焦げた蜂蜜みたいな、濁った茶色。本当は白くしたかった。たぶん、二重の中の空気が熱くなりすぎて、内側だけ焼けすぎたんだと思う。
――三個目は、うまく焼けたのに、熱い湯を入れたら、ぴしって鳴って、底から割れた。割れ目は、底の真ん中から、渦を巻くみたいにぐるっと回って、縁まで行った。かたつむりの殻みたいな割れ方。父さんは、冷えるのが場所ごとにばらばらだからだって言ってた。
割れた器の絵も、描いてあった。底から縁へ、渦を巻いて走るひび。ひびの一本一本の太さまで、描き分けてあった。どこから割れはじめて、どこで止まったか、絵を見るだけで分かった。
――今まで割ったのは、八十七個。全部、数えてる。
レオは、四枚目を持ったまま、しばらく動けなかった。
八十七個。全部、数えている。一個ずつ、どこで割れたか、何色になったか。
知らない人の失敗だった。知らない窯の、知らない器の。なのに、レオの胸の中で、何かがぱちぱち鳴っていた。こういう失敗の書き方をする人がいる。師匠の「温度ずれ」の紙束と同じだ。どこで迷ったかを、ちゃんと残している。
五枚目は最後の一枚だった。
――あんたの図、矢印がくるくるしすぎ。どっちが熱いのか、三回読んでやっと分かった。でも、雲で囲んで「?」って描くのはいいと思う。あたしもやってみる。
――それから、一つ聞きたい。雨を降らせるとき、湯気を冷やすって書いてあったけど、冷やすのって、どこから冷えるの? 外から? 底から? あたしの器が割れるのは、冷え方のせいらしいから、知りたい。
――ベルカのA.
――追伸。届いたその場で、窯の前で読んだ。手紙も湯と同じで、冷めてから読むと半分しか入ってこないから。あんたも、これ、すぐ読んでよね。
最後の署名も追伸も、でかかった。
レオは五枚の紙を作業台に並べた。並べて、上から順に、もう一度読んだ。三回目を読もうとしたところで、フェリクスがいつの間にか横に立っているのに気づいた。
「……字が、大きいですね。この紙五枚、私なら二枚に収めます」
「図が、うまいだろ」
「うまいです。私より、うまい」
フェリクスは、少しだけ悔しそうな顔をして、帳面を開いた。
「次のベルカへの便は、十日後です」
レオは、もう新しい紙を引き寄せていた。
「十日あれば、冷え方の図、五枚は描ける」
「五枚分の紙代は、相談してからです」
「相談する。今する。五枚分ちょうだい」
師匠が窓辺で声を上げて笑った。
レオは筆を取った。最初の一行は、もう決まっていた。
――ベルカのA.へ。矢印、くるくるしないように描いてみる。でも、雲の「?」は、やめない。




