帰った日の昼食
帰り道の水印が、消えていた。
行きにレオが岩に残してきた、小さな水の印。指先ほどの水を岩のくぼみに置いておくと、光を当てたときにきらっと光る。それが、一つ目の区画へ戻る途中の岩から、きれいになくなっていた。乾いたのだ。
「朝は濡れてたのに」
「昼の風が、通路を抜けてるんです」
フェリクスが頬に手を当てた。たしかに、入口のほうから、さっきまでなかった乾いた風が吹きこんでいた。
おかしなことは、もう一つある。
一つ目と二つ目の区画のあいだ、行きに飛び石のように渡ってきた低い足場が、半分水に沈んでいた。石の頭が、かろうじて三つだけ水面から出ている。
「増えてる」とセシリア。「どこかで、上の雪解けが入ってきたのかも」
レオは足場の先を見た。行きの道は、この石を六つ渡る。今、見えているのは三つ。
「あっちの壁沿いに、近道があったよね。行きに見た。棚みたいになってるところ。あそこを伝えば――」
言いかけて、レオは口を閉じた。
近道があった、と思う。でも、それは、行きに苔のことばかり考えながら、ちらっと見た記憶だった。
セシリアが、袋から錫の目印を出していた。行きに置いた目印とは別の、帰り用の一つ。それに光を当てると、行きに岩に結んできた目印が、暗がりの中で、ちかっ、ちかっと順番に光り返した。
壁沿いの棚には、一つも光らなかった。
「壁のほうは、行きに通ってない」セシリアが言った。「目印、ないよ」
「歩数も、合いません」
フェリクスが帳面を開いていた。
「行きは、階段の下からこの足場まで八十二歩。足場を六つ。そこから岩棚の入口まで、四十歩。壁沿いの道だと、どこで足場に戻れるか、帳面に何もありません」
レオは二人の顔を見て、水に沈みかけた足場に目を戻した。
「じゃあ、行きの道で。……近道は、見なかったことにする」
「行きの道で」セシリアが頷いた。
*
一人ずつ渡ることにした。
ロルフが最後尾で、二つ目の区画のほうを向いて立った。後ろを守る。壁張りも、沢鎧も、まだどこかにいる。
「レオ、水、分けられる?」
「どれくらい? 全部どかすと、また何か起きそうだけど」
「一人が渡るあいだだけ。石の頭が全部出るくらい」
レオは水面に両手をかざした。
押しのけるのではない。足場の石の周りの水を、左右に少しずつ寄せる。真ん中に、細い道を一本だけ開けるように。沈んでいた三つの石の頭が、水の上に出てきた。濡れて黒く光っている。
「今」
セシリアが渡った。足元を、自分の光で照らしながら、六つの石を跳ぶように。向こう岸に着くと、振り返って、次の人の足元に光を落とした。
「次、フェリクス」
フェリクスが渡った。背中の袋の中で、苔の瓶がかたりと鳴った。
「次、レオ」
水を寄せたまま、レオは自分で石を渡った。一歩ごとに寄せた水がわずかに揺れる。両手がだるかった。朝から、雷を一回、風と水を何十回も使ってきた腕だった。それでも、まだ足りなくなってはいない。帰りのために、ずっと取っておいた分だった。
向こう岸でレオは振り返った。
「ロルフさん!」
ロルフが、背中を向けたまま後ずさりで石を渡ってきた。最後の石を踏んだところで、レオは水をほどいた。寄せていた水が、ざあっと戻って、足場はまた沈んだ。
階段の上から、光が差していた。
入口だ。
階段の最後の一段で、レオは振り返った。
洞窟の奥の壁が、まだ緑に光っていた。朝より少しだけ暗い。昼の乾いた風のせいかもしれない。それでも、ゆっくりと、明るくなったり暗くなったりしていた。息をするみたいに。
あの奥に赤い光があった。
「レオ、名前。消さないと、おじいさんの膝が泣くよ」
セシリアに袖を引っ張られた。
番小屋の老人が、名簿を開いて待っていた。日はまだ高い。老人は、四人の名前の上に、すっと一本、線を引いた。
「ちゃんと消しに来たね。膝が喜んでるよ」
*
苔の瓶は、その日の夕方、オルウェン師匠の研究室に届けた。
それと一緒に、セシリアの帰り道の図も持っていった。行きの目印、帰りの目印、増水した足場、乾いた水印の場所。フェリクスの歩数が、その横に細かく書きこんである。
師匠は、苔の瓶より先に、図のほうを長く見ていた。
「これは、迷宮番の爺さんが喜ぶよ。春の雪解けでどこが沈むか。毎年、誰かがこういうのを持ってきてくれると、助かるんだ」
翌日、王都の迷宮管理の窓口から、小さな袋が届いた。
登録された小迷宮では、持ち帰った標本と帰り道の図に、少しずつ代金が出る。袋には、銅貨と、窓口の書きつけが入っていた。
――標本一、記録者レオ。帰路図一、記録者セシリア。歩数記録、記録者フェリクス。
「三つに分けてもらいました」
フェリクスが帳面を閉じながら言った。
「窓口の人は、まとめて王宮へ、と言ったんですが。まとめると、誰が何をしたか分からなくなるので」
「あの人、困ってたよ」とセシリア。
「困っても、分けるべきものは分けます」
その代金で、三人は東市場へ昼を食べに行った。
屋台の、鶏と根菜の汁物。焼いた平パン。銅貨を三人で出しあって、ちょうど足りた。広場の端の石段に並んで座る。
「それでさ、こう、継ぎ目のところに――ばちんって!」
レオは、汁の椀を持ったまま、片手で雷の軌道を描いた。
「霧の筋を一本、こう引いて、ここ。首の付け根。一呼吸で――」
「その前に板が水路をふさいでいたことも、忘れないでください」
フェリクスが、平パンをちぎりながら差しこんだ。
「板がなかったら、あれは奥の水場へ逃げていました。逃げたら、撃つ場所はありませんでした」
「分かってるって。板も。板もすごかった。それで、ばちんって――」
「レオ、こぼれる」
セシリアが言ったときには、もう遅かった。振り上げた椀から、汁が一筋、レオの膝に落ちていた。
「あつっ」
セシリアが、石段の上で体を折って笑った。フェリクスも、平パンで口元を隠して笑っていた。
レオは膝を拭きながら、二人を見る。
それから、椀を置いて、立ち上がった。
「セシリア、ちょっといい」
「なに。また汁?」
広場には人がたくさんいた。屋台の親父も、隣の石段の荷運びの男たちも、こっちを見ていた。さっきレオが「あつっ」と叫んだからだ。
レオは構わずに言った。
「苔が採れたのは、セシリアのおかげ。壁に光を当てたのも、角度を変えたのも、全部。ありがとう」
セシリアは笑ったままの顔で止まった。
それから、ぱっと目をそらした。
「……汁、冷めるよ」
「冷めてもいい」
「よくない。せっかく買ったんだから」
彼女はそう言って、自分の椀をぐっと傾けた。耳が赤い。隣の石段で、荷運びの男の一人が、ひゅうと口笛を吹いた。
帰り道、セシリアは、地図の写しをもう一枚取りたいと言った。ベルナルトの近衛の訓練で、新人に読ませたいのだという。
「父さんが、いいって言ったら、だけど」
フェリクスは、残った銅貨を帳面に書き、その一部を別の小袋に分けた。
「何に使うの。また台の脚?」
「留め具の材料です。採集枠の脚、一本だけ鉄片を巻いたので。ほかの三本も、同じにしておきたいんです」
*
その週の終わりに、師匠に呼ばれた。
西の塔の三階。研究室の作業台に、瓶が二つ並んでいた。
一つは緑井戸のともし苔。三人で採ってきたもの。窓辺の薄暗いところに置かれて、葉を半分閉じている。
もう一つは見たことのない瓶だった。蓋に封がしてあって、封の上に、本と星の紋が押してある。
「アステリアの知り合いが、送ってくれた」
師匠が言った。
「学園都市の、星環窟という大きな迷宮の、浅い層で採れたものだそうだ。同じ、ともし苔」
レオは瓶をのぞきこんだ。
葉の形は同じだった。長さも、色も、ほとんど同じ。
師匠が窓の覆いを少し開けた。日が、二つの瓶に同じように当たった。
緑井戸の苔はすっと葉を閉じた。強い光は嫌いなのだ。セシリアが窪みで見せてくれたとおりに。
アステリアの苔は、開いた。
日の光の中で、ゆっくりと、全部の葉を外へ倒して、まぶしそうに広がった。
「……なんで」
レオは、瓶に顔をくっつけるようにした。
「同じ苔なのに。なんで、こっちは強い光で開くの」
「私にも分からない。分からないことが、一つから二つに増えた」
師匠は楽しそうに言った。
「水が違うのかもしれない。土かもしれない。迷宮の魔力の濃さかもしれない。アステリアの知り合いも、分からないと書いてきた」
レオは二つの瓶を見比べた。
本と星の紋。その封をどこかで見た気がした。




