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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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帰った日の昼食

帰り道の水印が、消えていた。

 行きにレオが岩に残してきた、小さな水の印。指先ほどの水を岩のくぼみに置いておくと、光を当てたときにきらっと光る。それが、一つ目の区画へ戻る途中の岩から、きれいになくなっていた。乾いたのだ。

「朝は濡れてたのに」

「昼の風が、通路を抜けてるんです」

 フェリクスが頬に手を当てた。たしかに、入口のほうから、さっきまでなかった乾いた風が吹きこんでいた。

 おかしなことは、もう一つある。

 一つ目と二つ目の区画のあいだ、行きに飛び石のように渡ってきた低い足場が、半分水に沈んでいた。石の頭が、かろうじて三つだけ水面から出ている。

「増えてる」とセシリア。「どこかで、上の雪解けが入ってきたのかも」

 レオは足場の先を見た。行きの道は、この石を六つ渡る。今、見えているのは三つ。

「あっちの壁沿いに、近道があったよね。行きに見た。棚みたいになってるところ。あそこを伝えば――」

 言いかけて、レオは口を閉じた。

 近道があった、と思う。でも、それは、行きに苔のことばかり考えながら、ちらっと見た記憶だった。

 セシリアが、袋から錫の目印を出していた。行きに置いた目印とは別の、帰り用の一つ。それに光を当てると、行きに岩に結んできた目印が、暗がりの中で、ちかっ、ちかっと順番に光り返した。

 壁沿いの棚には、一つも光らなかった。

「壁のほうは、行きに通ってない」セシリアが言った。「目印、ないよ」

「歩数も、合いません」

 フェリクスが帳面を開いていた。

「行きは、階段の下からこの足場まで八十二歩。足場を六つ。そこから岩棚の入口まで、四十歩。壁沿いの道だと、どこで足場に戻れるか、帳面に何もありません」

 レオは二人の顔を見て、水に沈みかけた足場に目を戻した。

「じゃあ、行きの道で。……近道は、見なかったことにする」

「行きの道で」セシリアが頷いた。


  *


 一人ずつ渡ることにした。

 ロルフが最後尾で、二つ目の区画のほうを向いて立った。後ろを守る。壁張りも、沢鎧も、まだどこかにいる。

「レオ、水、分けられる?」

「どれくらい? 全部どかすと、また何か起きそうだけど」

「一人が渡るあいだだけ。石の頭が全部出るくらい」

 レオは水面に両手をかざした。

 押しのけるのではない。足場の石の周りの水を、左右に少しずつ寄せる。真ん中に、細い道を一本だけ開けるように。沈んでいた三つの石の頭が、水の上に出てきた。濡れて黒く光っている。

「今」

 セシリアが渡った。足元を、自分の光で照らしながら、六つの石を跳ぶように。向こう岸に着くと、振り返って、次の人の足元に光を落とした。

「次、フェリクス」

 フェリクスが渡った。背中の袋の中で、苔の瓶がかたりと鳴った。

「次、レオ」

 水を寄せたまま、レオは自分で石を渡った。一歩ごとに寄せた水がわずかに揺れる。両手がだるかった。朝から、雷を一回、風と水を何十回も使ってきた腕だった。それでも、まだ足りなくなってはいない。帰りのために、ずっと取っておいた分だった。

 向こう岸でレオは振り返った。

「ロルフさん!」

 ロルフが、背中を向けたまま後ずさりで石を渡ってきた。最後の石を踏んだところで、レオは水をほどいた。寄せていた水が、ざあっと戻って、足場はまた沈んだ。

 階段の上から、光が差していた。

 入口だ。


 階段の最後の一段で、レオは振り返った。

 洞窟の奥の壁が、まだ緑に光っていた。朝より少しだけ暗い。昼の乾いた風のせいかもしれない。それでも、ゆっくりと、明るくなったり暗くなったりしていた。息をするみたいに。

 あの奥に赤い光があった。

「レオ、名前。消さないと、おじいさんの膝が泣くよ」

 セシリアに袖を引っ張られた。

 番小屋の老人が、名簿を開いて待っていた。日はまだ高い。老人は、四人の名前の上に、すっと一本、線を引いた。

「ちゃんと消しに来たね。膝が喜んでるよ」


  *


 苔の瓶は、その日の夕方、オルウェン師匠の研究室に届けた。

 それと一緒に、セシリアの帰り道の図も持っていった。行きの目印、帰りの目印、増水した足場、乾いた水印の場所。フェリクスの歩数が、その横に細かく書きこんである。

 師匠は、苔の瓶より先に、図のほうを長く見ていた。

「これは、迷宮番の爺さんが喜ぶよ。春の雪解けでどこが沈むか。毎年、誰かがこういうのを持ってきてくれると、助かるんだ」

 翌日、王都の迷宮管理の窓口から、小さな袋が届いた。

 登録された小迷宮では、持ち帰った標本と帰り道の図に、少しずつ代金が出る。袋には、銅貨と、窓口の書きつけが入っていた。

 ――標本一、記録者レオ。帰路図一、記録者セシリア。歩数記録、記録者フェリクス。

「三つに分けてもらいました」

 フェリクスが帳面を閉じながら言った。

「窓口の人は、まとめて王宮へ、と言ったんですが。まとめると、誰が何をしたか分からなくなるので」

「あの人、困ってたよ」とセシリア。

「困っても、分けるべきものは分けます」


 その代金で、三人は東市場へ昼を食べに行った。

 屋台の、鶏と根菜の汁物。焼いた平パン。銅貨を三人で出しあって、ちょうど足りた。広場の端の石段に並んで座る。

「それでさ、こう、継ぎ目のところに――ばちんって!」

 レオは、汁の椀を持ったまま、片手で雷の軌道を描いた。

「霧の筋を一本、こう引いて、ここ。首の付け根。一呼吸で――」

「その前に板が水路をふさいでいたことも、忘れないでください」

 フェリクスが、平パンをちぎりながら差しこんだ。

「板がなかったら、あれは奥の水場へ逃げていました。逃げたら、撃つ場所はありませんでした」

「分かってるって。板も。板もすごかった。それで、ばちんって――」

「レオ、こぼれる」

 セシリアが言ったときには、もう遅かった。振り上げた椀から、汁が一筋、レオの膝に落ちていた。

「あつっ」

 セシリアが、石段の上で体を折って笑った。フェリクスも、平パンで口元を隠して笑っていた。

 レオは膝を拭きながら、二人を見る。

 それから、椀を置いて、立ち上がった。

「セシリア、ちょっといい」

「なに。また汁?」

 広場には人がたくさんいた。屋台の親父も、隣の石段の荷運びの男たちも、こっちを見ていた。さっきレオが「あつっ」と叫んだからだ。

 レオは構わずに言った。

「苔が採れたのは、セシリアのおかげ。壁に光を当てたのも、角度を変えたのも、全部。ありがとう」

 セシリアは笑ったままの顔で止まった。

 それから、ぱっと目をそらした。

「……汁、冷めるよ」

「冷めてもいい」

「よくない。せっかく買ったんだから」

 彼女はそう言って、自分の椀をぐっと傾けた。耳が赤い。隣の石段で、荷運びの男の一人が、ひゅうと口笛を吹いた。


 帰り道、セシリアは、地図の写しをもう一枚取りたいと言った。ベルナルトの近衛の訓練で、新人に読ませたいのだという。

「父さんが、いいって言ったら、だけど」

 フェリクスは、残った銅貨を帳面に書き、その一部を別の小袋に分けた。

「何に使うの。また台の脚?」

「留め具の材料です。採集枠の脚、一本だけ鉄片を巻いたので。ほかの三本も、同じにしておきたいんです」


  *


 その週の終わりに、師匠に呼ばれた。

 西の塔の三階。研究室の作業台に、瓶が二つ並んでいた。

 一つは緑井戸のともし苔。三人で採ってきたもの。窓辺の薄暗いところに置かれて、葉を半分閉じている。

 もう一つは見たことのない瓶だった。蓋に封がしてあって、封の上に、本と星の紋が押してある。

「アステリアの知り合いが、送ってくれた」

 師匠が言った。

「学園都市の、星環窟という大きな迷宮の、浅い層で採れたものだそうだ。同じ、ともし苔」

 レオは瓶をのぞきこんだ。

 葉の形は同じだった。長さも、色も、ほとんど同じ。

 師匠が窓の覆いを少し開けた。日が、二つの瓶に同じように当たった。

 緑井戸の苔はすっと葉を閉じた。強い光は嫌いなのだ。セシリアが窪みで見せてくれたとおりに。

 アステリアの苔は、開いた。

 日の光の中で、ゆっくりと、全部の葉を外へ倒して、まぶしそうに広がった。

「……なんで」

 レオは、瓶に顔をくっつけるようにした。

「同じ苔なのに。なんで、こっちは強い光で開くの」

「私にも分からない。分からないことが、一つから二つに増えた」

 師匠は楽しそうに言った。

「水が違うのかもしれない。土かもしれない。迷宮の魔力の濃さかもしれない。アステリアの知り合いも、分からないと書いてきた」

 レオは二つの瓶を見比べた。

 本と星の紋。その封をどこかで見た気がした。


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