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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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苔が開くのを待つ

水は思ったとおりに流れた。

 レオの手のひらから床を這い、枝道の暗がりへ、細い一筋になって入っていく。床のくぼみを満たし、段差を越え、奥へ。何も揺れない。何も跳ねない。天井から落ちてくるものもない。

「大丈夫、何もいない」

 レオは振り返った。

「これで安心して――」

 セシリアの顔を見て、言葉が止まった。

 セシリアは、レオではなく、枝道の入口の低い壁を見ていた。そこに、ともし苔が帯のように生えていた。さっきまでうっすらと開いていた葉。

 その葉の上に、白い粉のようなものが、ふわりと浮いていた。

 レオの水が、壁の根元をなめていったところから、細かい粒が舞い上がっている。苔の胞子だった。湿った空気の中を、ゆっくりと漂って、暗がりへ散っていく。

 そして、葉が閉じている。

 帯になった苔の全部が、ぴたりと葉をたたんでいた。セシリアが光を落とす前から。弱い光を待って、少しずつ開くはずだった葉が、水に驚いて、固く閉じてしまっていた。

 セシリアが指先に光を灯した。淡く、淡く。さっき岩棚で、葉が大きく開いたのと同じ光。

 葉は開かなかった。

 もう一段、弱める。開かない。

「……根元、見せて」

 レオはしゃがんで水を引いた。流した水を、そっと戻す。壁の根元が見えた。苔の根が、岩の表面から浮きかけていた。水に洗われて、土が流れ、白い根が半分むき出しになっている。

 ここで枠を差しこめば、採れる。でも、浮いた根は、枠の縁で全部ちぎれる。

「ここは、だめだね」

 セシリアの声は、平らだった。

「採ったら、死ぬ」

 レオは立ち上がった。

「ごめん。先に調べたら、セシリアが楽になると思って」

「うん。分かってる。ありがとう」

 セシリアはすぐに言って、レオのほうへ向き直った。

 光がちかっと揺れた。彼女の指先が震えていた。

「でも、レオ。今の、誰が決めたの」

「え」

「枝道に水を入れるの。誰が決めたの」

 レオは答えられなかった。

「私、まだしゃべってたよね。光をどうするか、どこから見るか、全部話してる途中だったよね」

 セシリアの声が、少しずつ速くなった。

「ここは私の道なの。レオが戦う、私が道、フェリクスが装備。陛下の前でそう決めたでしょ。私、隊長を替わった覚えはないからね」

 洞窟の中で、セシリアの声だけが響いていた。

 ロルフは何も言わなかった。少し離れたところで、背中を向けて、帰り道のほうを見ていた。

 セシリアは光を消した。真っ暗になって、もう一度、ぱちんと点く。

「……地図、見直す。少し待ってて」

 彼女は背中を向けて、膝の上に地図を広げた。


  *


 フェリクスは、少し離れた岩の上で、採集枠を直していた。

 さっきの岩棚で壁張りが落ちてきたとき、とっさに枠を胸に抱えて、壁に押しつけてしまったらしい。四本の脚のうち一本が、内側に曲がっていた。フェリクスは袋から小さな鉄片を出して、曲がった脚に当てていた。指先がほんのり赤い。火で鉄をやわらかくして、土の力で、鉄片と脚をなじませている。

 レオはそばにしゃがんだ。

 熱そうだった。鉄が赤くなりすぎたら、枠ごと歪む。

「冷やそうか」

 返事を待たずに、指先から薄い水の膜を、脚の付け根にかぶせた。

 じゅっ、と小さな音がした。

 フェリクスの手が、止まった。

 赤かった鉄が、一瞬で黒く戻る。なじみかけていた鉄片と脚の境目に、細い隙間が、すうっと開いた。

 フェリクスは、何も言わずに、手のひらを鉄から離し、目を閉じて、一つ息を吐いた。

 目を開けたフェリクスの声は、いつもより低くて、いつもより速かった。

「今、つなぐのに熱が要るんです。冷やされると、最初からやり直しです」

「ごめん」

「直すあいだは、触らないでください。それより、周りを見ていてほしい。壁張りは、もう一匹いました」

 レオは自分の指先を見た。まだ、水の膜の名残が光っている。

 それをほどいた。

 謝る言葉は、もう口の中にいくつも並んでいた。セシリアにもフェリクスにも。でも、レオはそれを全部飲みこんで、立ち上がった。

 枝道の入口に背を向けて、天井と水面が両方見える岩の上に立つ。剣の柄に手を置く。暗がりの奥へ、目をこらす。

 さっきの三匹目の壁張りが、天井の割れ目のそばに、まだじっと張りついているのが見えた。

「三匹目、天井。右の割れ目の横。動いてない」

 声に出して言った。

「了解」とフェリクスが言った。手元で、また鉄が赤くなっていく音がした。


 フェリクスの枠が直ったのは、それからしばらくしてだった。新しい鉄片が、脚の付け根に巻きつくように、ぴったりなじんでいる。

 セシリアが、地図を持ってロルフのところへ行った。

「ロルフさん。三つ目の区画の手前に、もう一か所だけ、低い窪みがあるの。入口の光が、壁に一回はね返ってから届くところ。帰りの時刻までに、そこなら行ける。往復で、これくらい」

 地図の上に光の点が二つ。

 ロルフは地図をのぞきこんで、腰の砂時計を見てから、三人のほうを向いた。

「二つです。このまま帰るか。セシリア嬢の読みで、一か所だけ試すか。試すなら、帰りの時刻は一歩も延ばしません」

 レオはセシリアを見た。

「試したい」

 それから、言った。

「水は、セシリアが言った量だけ出す。それ以上、出さない」

 セシリアはレオを見た。少しだけ、長く。

「根元に、苔が乾かないくらい。一定。増やすのも減らすのも、私が言ったら」

「うん。一滴も、勝手に増やさない」

「フェリクスは、枠。私が合図したら、入れて」

「はい。今度は、脚を曲げずに入れます」


  *


 低い窪みは、三つ目の区画の手前の、岩の陰にあった。

 入口の光はここまで直接は届かない。天井の割れ目から差した光が、向かいの白っぽい壁に一度当たって、それからやっと、この窪みにぼんやり落ちてくる。

 窪みの奥の壁に、ともし苔が、小さな島のように生えていた。根は浅い。枠で切れる。

 葉は閉じていた。

 レオの指先がぴくりと動いた。照らせば、開く。さっきの岩棚では、そうだった。

 動かさなかった。

 セシリアが窪みの前に膝をつく。

 最初に、足元に細い光の線を一本引いた。窪みの縁と、三人の足を置く場所。それだけを照らす、糸のような光。

 それから、もう一つの光を作った。

 苔に直接は向けなかった。向かいの白い壁に向けた。壁に当たった光が、ふわっと広がって、窪みの中へ、薄く、薄く落ちていく。

 苔の葉がぴくりとした。

 でも開かない。

 セシリアが光を少しだけ強めた。壁の明るさが増す。窪みの中も少し明るくなった。

 葉がきゅっと縮んだ。

「強い」

 セシリアは小さく言って、すぐに弱めた。弱めすぎた。足元の光の線まで薄くなって、レオは一瞬、自分の足がどこにあるのか分からなくなった。

「ごめん、足元、戻す」

 足元の線がくっきり戻った。苔の上の光は、薄いまま。

 二つの光を別々に保っている。片方は強く、細く。片方は弱く、広く。

 セシリアの額に、汗が浮いている。

 レオは根元に水を保つ。言われた量だけ。苔が乾かないくらい。手のひらに力を入れないように、息を細くした。指先が、水を動かしたくてむずむずした。もう少し根元を湿らせたら、開くかもしれない。もう少し――

 動かさなかった。

 セシリアはレオを見ていなかった。フェリクスも見ていなかった。苔の葉の、いちばん外側の一本の縁だけを、じっと見ていた。

 光の当たる壁の角度を、セシリアは少しずつ変えていった。指先をほんのわずか傾ける。壁に当たる場所が、少し上にずれる。窪みに落ちる光が、少し斜めになる。

 葉の縁が、ぴくりと揺れた。

 ほどけた。

 外側の一本がふわりと外へ倒れた。続いて、隣の一本。その隣。島のように固まっていた苔が、ふちから順番に、花が咲くように開いていく。開いた葉の裏に、岩棚で見たのと同じ、細い水の溝が光っていた。

「……フェリクス」

 セシリアの声は、ささやきより小さかった。

 フェリクスが枠を差しこんだ。四本の脚が、苔の島の周りの浅い土に、すっと沈む。直したばかりの脚も。枠の底の薄い刃が、根の下を横へ滑った。

 レオは、根元の水を、一定に保った。増やさない。減らさない。

 枠が、苔ごと、持ち上がった。

 根はちぎれていない。白い根の先から、ぽたりと、一滴の水が落ちた。

 フェリクスが枠を、自分の瓶の口に載せた。苔の島が、瓶の上で、まだ葉を開いたまま揺れていた。

 セシリアが光を消し、膝をついたまま、笑った。

 声を出して、肩を揺らして、額の汗を手の甲で拭いながら。自分でも止められないみたいに。

「開いた」

「開いた」レオも言った。「すごかった。壁に当てるの、ずっと見てた。角度、ちょっとずつ変えてたよね。あれ、どうやって決めてたの」

「葉の縁。いちばん外の一本が、ぴくっとしたらそっち」

「すごい。葉っぱ一本で、全部決めてたんだ」

 レオはもう一度言った。声が大きくなっている。洞窟に響いて、ロルフが後ろで小さく咳払いをした。

 瓶の上で、苔の葉が、ゆっくりと閉じはじめた。光がなくなったからだ。三人は黙ってそれを見ていた。最後の一枚がたたまれるまで。


  *


 窪みのさらに奥、三つ目の区画の暗がりに、別の色が見えた。

 緑でも青でもない。ほんのりと、赤みのある光。ぼんやりと、明滅している。

 レオはそっちを見た。

 ロルフが砂時計を持ち上げた。砂が、あと少しで落ちきるところだった。帰りの時刻だ。

 レオは自分の瓶を袋にしまった。

「あれは、次」

 自分で言った。

「次に来る理由が、ちゃんと残ったから」

 フェリクスが、苔の瓶を布でくるみながら、ちらっとレオを見た。

 セシリアはもう立ち上がっていた。地図を広げ、袋から錫の目印を一つ出して、指先の光を当てた。目印がちかっと光り返す。それを確かめてから、帰り道のほうへ向き直った。

「帰りの目印、点検しながら戻るからね。行きと同じ道。順番は、ロルフさん、私、レオ、フェリクス」

「了解、隊長」

 レオが言うと、セシリアの耳が、ほんの少し赤くなった。


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