苔が開くのを待つ
水は思ったとおりに流れた。
レオの手のひらから床を這い、枝道の暗がりへ、細い一筋になって入っていく。床のくぼみを満たし、段差を越え、奥へ。何も揺れない。何も跳ねない。天井から落ちてくるものもない。
「大丈夫、何もいない」
レオは振り返った。
「これで安心して――」
セシリアの顔を見て、言葉が止まった。
セシリアは、レオではなく、枝道の入口の低い壁を見ていた。そこに、ともし苔が帯のように生えていた。さっきまでうっすらと開いていた葉。
その葉の上に、白い粉のようなものが、ふわりと浮いていた。
レオの水が、壁の根元をなめていったところから、細かい粒が舞い上がっている。苔の胞子だった。湿った空気の中を、ゆっくりと漂って、暗がりへ散っていく。
そして、葉が閉じている。
帯になった苔の全部が、ぴたりと葉をたたんでいた。セシリアが光を落とす前から。弱い光を待って、少しずつ開くはずだった葉が、水に驚いて、固く閉じてしまっていた。
セシリアが指先に光を灯した。淡く、淡く。さっき岩棚で、葉が大きく開いたのと同じ光。
葉は開かなかった。
もう一段、弱める。開かない。
「……根元、見せて」
レオはしゃがんで水を引いた。流した水を、そっと戻す。壁の根元が見えた。苔の根が、岩の表面から浮きかけていた。水に洗われて、土が流れ、白い根が半分むき出しになっている。
ここで枠を差しこめば、採れる。でも、浮いた根は、枠の縁で全部ちぎれる。
「ここは、だめだね」
セシリアの声は、平らだった。
「採ったら、死ぬ」
レオは立ち上がった。
「ごめん。先に調べたら、セシリアが楽になると思って」
「うん。分かってる。ありがとう」
セシリアはすぐに言って、レオのほうへ向き直った。
光がちかっと揺れた。彼女の指先が震えていた。
「でも、レオ。今の、誰が決めたの」
「え」
「枝道に水を入れるの。誰が決めたの」
レオは答えられなかった。
「私、まだしゃべってたよね。光をどうするか、どこから見るか、全部話してる途中だったよね」
セシリアの声が、少しずつ速くなった。
「ここは私の道なの。レオが戦う、私が道、フェリクスが装備。陛下の前でそう決めたでしょ。私、隊長を替わった覚えはないからね」
洞窟の中で、セシリアの声だけが響いていた。
ロルフは何も言わなかった。少し離れたところで、背中を向けて、帰り道のほうを見ていた。
セシリアは光を消した。真っ暗になって、もう一度、ぱちんと点く。
「……地図、見直す。少し待ってて」
彼女は背中を向けて、膝の上に地図を広げた。
*
フェリクスは、少し離れた岩の上で、採集枠を直していた。
さっきの岩棚で壁張りが落ちてきたとき、とっさに枠を胸に抱えて、壁に押しつけてしまったらしい。四本の脚のうち一本が、内側に曲がっていた。フェリクスは袋から小さな鉄片を出して、曲がった脚に当てていた。指先がほんのり赤い。火で鉄をやわらかくして、土の力で、鉄片と脚をなじませている。
レオはそばにしゃがんだ。
熱そうだった。鉄が赤くなりすぎたら、枠ごと歪む。
「冷やそうか」
返事を待たずに、指先から薄い水の膜を、脚の付け根にかぶせた。
じゅっ、と小さな音がした。
フェリクスの手が、止まった。
赤かった鉄が、一瞬で黒く戻る。なじみかけていた鉄片と脚の境目に、細い隙間が、すうっと開いた。
フェリクスは、何も言わずに、手のひらを鉄から離し、目を閉じて、一つ息を吐いた。
目を開けたフェリクスの声は、いつもより低くて、いつもより速かった。
「今、つなぐのに熱が要るんです。冷やされると、最初からやり直しです」
「ごめん」
「直すあいだは、触らないでください。それより、周りを見ていてほしい。壁張りは、もう一匹いました」
レオは自分の指先を見た。まだ、水の膜の名残が光っている。
それをほどいた。
謝る言葉は、もう口の中にいくつも並んでいた。セシリアにもフェリクスにも。でも、レオはそれを全部飲みこんで、立ち上がった。
枝道の入口に背を向けて、天井と水面が両方見える岩の上に立つ。剣の柄に手を置く。暗がりの奥へ、目をこらす。
さっきの三匹目の壁張りが、天井の割れ目のそばに、まだじっと張りついているのが見えた。
「三匹目、天井。右の割れ目の横。動いてない」
声に出して言った。
「了解」とフェリクスが言った。手元で、また鉄が赤くなっていく音がした。
フェリクスの枠が直ったのは、それからしばらくしてだった。新しい鉄片が、脚の付け根に巻きつくように、ぴったりなじんでいる。
セシリアが、地図を持ってロルフのところへ行った。
「ロルフさん。三つ目の区画の手前に、もう一か所だけ、低い窪みがあるの。入口の光が、壁に一回はね返ってから届くところ。帰りの時刻までに、そこなら行ける。往復で、これくらい」
地図の上に光の点が二つ。
ロルフは地図をのぞきこんで、腰の砂時計を見てから、三人のほうを向いた。
「二つです。このまま帰るか。セシリア嬢の読みで、一か所だけ試すか。試すなら、帰りの時刻は一歩も延ばしません」
レオはセシリアを見た。
「試したい」
それから、言った。
「水は、セシリアが言った量だけ出す。それ以上、出さない」
セシリアはレオを見た。少しだけ、長く。
「根元に、苔が乾かないくらい。一定。増やすのも減らすのも、私が言ったら」
「うん。一滴も、勝手に増やさない」
「フェリクスは、枠。私が合図したら、入れて」
「はい。今度は、脚を曲げずに入れます」
*
低い窪みは、三つ目の区画の手前の、岩の陰にあった。
入口の光はここまで直接は届かない。天井の割れ目から差した光が、向かいの白っぽい壁に一度当たって、それからやっと、この窪みにぼんやり落ちてくる。
窪みの奥の壁に、ともし苔が、小さな島のように生えていた。根は浅い。枠で切れる。
葉は閉じていた。
レオの指先がぴくりと動いた。照らせば、開く。さっきの岩棚では、そうだった。
動かさなかった。
セシリアが窪みの前に膝をつく。
最初に、足元に細い光の線を一本引いた。窪みの縁と、三人の足を置く場所。それだけを照らす、糸のような光。
それから、もう一つの光を作った。
苔に直接は向けなかった。向かいの白い壁に向けた。壁に当たった光が、ふわっと広がって、窪みの中へ、薄く、薄く落ちていく。
苔の葉がぴくりとした。
でも開かない。
セシリアが光を少しだけ強めた。壁の明るさが増す。窪みの中も少し明るくなった。
葉がきゅっと縮んだ。
「強い」
セシリアは小さく言って、すぐに弱めた。弱めすぎた。足元の光の線まで薄くなって、レオは一瞬、自分の足がどこにあるのか分からなくなった。
「ごめん、足元、戻す」
足元の線がくっきり戻った。苔の上の光は、薄いまま。
二つの光を別々に保っている。片方は強く、細く。片方は弱く、広く。
セシリアの額に、汗が浮いている。
レオは根元に水を保つ。言われた量だけ。苔が乾かないくらい。手のひらに力を入れないように、息を細くした。指先が、水を動かしたくてむずむずした。もう少し根元を湿らせたら、開くかもしれない。もう少し――
動かさなかった。
セシリアはレオを見ていなかった。フェリクスも見ていなかった。苔の葉の、いちばん外側の一本の縁だけを、じっと見ていた。
光の当たる壁の角度を、セシリアは少しずつ変えていった。指先をほんのわずか傾ける。壁に当たる場所が、少し上にずれる。窪みに落ちる光が、少し斜めになる。
葉の縁が、ぴくりと揺れた。
ほどけた。
外側の一本がふわりと外へ倒れた。続いて、隣の一本。その隣。島のように固まっていた苔が、ふちから順番に、花が咲くように開いていく。開いた葉の裏に、岩棚で見たのと同じ、細い水の溝が光っていた。
「……フェリクス」
セシリアの声は、ささやきより小さかった。
フェリクスが枠を差しこんだ。四本の脚が、苔の島の周りの浅い土に、すっと沈む。直したばかりの脚も。枠の底の薄い刃が、根の下を横へ滑った。
レオは、根元の水を、一定に保った。増やさない。減らさない。
枠が、苔ごと、持ち上がった。
根はちぎれていない。白い根の先から、ぽたりと、一滴の水が落ちた。
フェリクスが枠を、自分の瓶の口に載せた。苔の島が、瓶の上で、まだ葉を開いたまま揺れていた。
セシリアが光を消し、膝をついたまま、笑った。
声を出して、肩を揺らして、額の汗を手の甲で拭いながら。自分でも止められないみたいに。
「開いた」
「開いた」レオも言った。「すごかった。壁に当てるの、ずっと見てた。角度、ちょっとずつ変えてたよね。あれ、どうやって決めてたの」
「葉の縁。いちばん外の一本が、ぴくっとしたらそっち」
「すごい。葉っぱ一本で、全部決めてたんだ」
レオはもう一度言った。声が大きくなっている。洞窟に響いて、ロルフが後ろで小さく咳払いをした。
瓶の上で、苔の葉が、ゆっくりと閉じはじめた。光がなくなったからだ。三人は黙ってそれを見ていた。最後の一枚がたたまれるまで。
*
窪みのさらに奥、三つ目の区画の暗がりに、別の色が見えた。
緑でも青でもない。ほんのりと、赤みのある光。ぼんやりと、明滅している。
レオはそっちを見た。
ロルフが砂時計を持ち上げた。砂が、あと少しで落ちきるところだった。帰りの時刻だ。
レオは自分の瓶を袋にしまった。
「あれは、次」
自分で言った。
「次に来る理由が、ちゃんと残ったから」
フェリクスが、苔の瓶を布でくるみながら、ちらっとレオを見た。
セシリアはもう立ち上がっていた。地図を広げ、袋から錫の目印を一つ出して、指先の光を当てた。目印がちかっと光り返す。それを確かめてから、帰り道のほうへ向き直った。
「帰りの目印、点検しながら戻るからね。行きと同じ道。順番は、ロルフさん、私、レオ、フェリクス」
「了解、隊長」
レオが言うと、セシリアの耳が、ほんの少し赤くなった。




