三属性を小さく使う
二つ目の区画は、一つ目より天井が低く、そのかわり奥に長かった。
左手が切り立った壁で、右手は深い水。そのあいだに、人が一人ずつしか通れない細い岩棚が、奥へ向かって続いている。ロルフが最後尾についた。帰り道を背中に置いて、三人の頭越しに前を見る位置だ。
岩棚の真ん中あたりで、セシリアが足を止めた。
「レオ、あそこ。壁の、低いところ」
光が一本、壁の低いところを照らした。
岩の割れ目から、苔があふれ出していた。一つ目の区画のともし苔より、葉が長い。色も違う。緑の中にほんのり青が混じっている。そして、根元から細い水の筋が、岩肌を伝って下へ垂れていた。苔の中を通ってきた水だ。
レオは思わず声を上げかけた。
「師匠が言ってたやつだ。水を通す苔。きっと、あれ」
しゃがみこんで、手帳を開いた。フェリクスが後ろから枠を差し出す。セシリアが光を弱めて、苔の上に淡く落とした。
そのとき、頭の上で、何かが、ぴたりと音を立てる。
レオは見上げた。
天井の岩に、灰色のものが張りついていた。猫くらいの大きさで、平たい体に、吸いつくような指が四本ずつ。一匹ではなかった。二匹、三匹。光に気づいたのか、喉をふくらませて、こちらを見下ろしている。
「壁張りです」
ロルフの声が背中から低く届いた。
「噛みますが、毒はない。落ちてきますよ」
言い終わる前に、一匹目が天井を離れた。
*
ロルフは最後尾だ。人一人ぶんの岩棚では、前の三人を追い越して出てはこられない。
火を使えば、一瞬で追い払える。でも、すぐ下には苔がある。焦げたら終わりだ。
水で押し流せば、壁張りは深い水へ落ちる。でも、この細い岩棚に水をまけば、三人とも足を取られる。右は深い水だ。
雷は論外だった。全員の足が、まだ湿っている。
考えるより先に、レオは木剣を抜いていた。
セシリアとフェリクスの前に、一歩出る。苔と仲間をまとめて背中に置く位置。木剣を斜めに立てた。
壁張りが真上から落ちてきた。
受けた。ずしりと重い。猫くらいの大きさなのに、落ちてきた勢いが、手首から肘まで響いた。レオは、受けた力を真下へ止めなかった。母に何十回も直された角度。剣の腹を少し寝かせて、重さを横へ流す。
同時に、半歩、踏み替えた。後ろではなく、横へ。
下がれば、後ろのセシリアにぶつかる。だから、横。小石を三つ並べられて覚えたこと。柑橘の鉢に追いつめられないための、半歩。
流された壁張りは、レオの体の横を素通りして、岩棚の端に落ちた。吸いつく指が、濡れた端の岩を探って、つるりと滑った。そのまま、ぽちゃんと深い水へ落ちていった。
「一匹」とセシリア。
二匹目がもう天井を離れかけていた。真上ではない。少しずれて、フェリクスの頭の上。
レオは左の手のひらを上に向けた。
風をほんの一筋。落ちてくる壁張りを押し返すのではなく、横から、そっと吹く。落ちる場所が拳一つ分ずれた。フェリクスの頭をかすめて、壁張りは岩棚の縁に背中から落ち、ばたばたともがいて、自分から水へ逃げこんだ。
「二匹」
三匹目は落ちてこなかった。
かわりに一匹目が戻ってきた。深い水から岩棚の縁に指をかけ、濡れた体を引きずり上げて、低く構えている。喉がぷくっとふくらんだ。噛みつく気だ。
レオは木剣の切っ先を下げた。
剣の先に水を一滴だけ載せる。ころんとした、親指の爪くらいの粒。壁張りが跳んだ瞬間、レオは切っ先を跳ね上げた。水の粒が、壁張りの鼻先にぱしゃりと当たった。
壁張りは空中で目をつぶった。顔を背けた体が、レオの剣の届く場所から外れて、また縁から落ちた。
今度は上がってこない。
天井の三匹目が、くるりと向きを変えて、暗がりの奥へ這っていくのが見えた。
風で縁から払い落とすこともできた。でも強く吹けば、足元の苔の葉まで散る。だから、水を一滴。
後ろで、ロルフが抜きかけた剣を鞘へ戻す音がした。一歩も前へ出ないままだった。
レオは木剣を下ろした。
手のひらが汗でぬるぬるしていた。剣の柄が滑りそうだった。左手の指先にほんの少しだけ熱を灯す。焦がさない。苔にも向けない。自分の手のひらの汗だけを、ふわっと乾かす。
「……三属性、全部使いましたね」
フェリクスが後ろから言った。
「ちょっとずつだけど」
「ちょっとずつで、全部です」
*
レオは自分の腕を見下ろした。
まだ、手首がじんじんしている。でも、考えるより先に、ちゃんと動いた。受けて、流して、半歩、横。冬じゅうベルナルトの左手の剣を受けてきた腕は、迷宮の中でも変わらなかった。
うれしかった。
そのうれしさの奥に、別のものが混じっていた。
さっきの角度は、母の角度。半歩の踏み替えも、母の袖を取ろうとして覚えた足だった。母がいたら、きっと、今の受けを見て何か言った。たぶん、「まだ甘い」と。それから、笑って。
胸の奥がきゅっと縮んだ。
レオはそれをどけなかった。どかさないまま、もう一度、手首を握った。
痛い。でも、守れた。苔も、二人も。その二つはどっちも本当のことだった。
「レオ、手首を見るのはあと。こっち来て」
セシリアがしゃがんで手招きしていた。
「見て。こっち、剣が一回も当たってない」
苔の前だった。壁張りが落ちてくる前と、何も変わっていなかった。青みがかった長い葉が、一本も折れずに、割れ目からあふれている。根元から垂れる水の筋も、さっきと同じ細さで、ぽたり、ぽたりと続いていた。
三人で顔を寄せた。
セシリアが、光を淡く、淡く落とす。葉がゆっくりと開いた。一つ目の区画のともし苔より、開き方がずっと大きい。開いた葉の裏側に、細い溝が何本も走っていて、その溝を、水が根元へ向かって流れていた。
生きている。目の前で水を運んでいる。
「さっきのより、ずっと速い」
レオは息だけで言った。
「溝がある。葉の裏に、水の道が」
「これ、採るんですか」
フェリクスが、枠を構えた。
レオは首を横に振った。
「ここのは、壁に食いこんでる。根が割れ目の奥まで入ってて、枠じゃ切れない。無理に剥がしたら、根が全部ちぎれる」
「……枠の出番は、また今度ですか。脚を四本とも削ったのに」
フェリクスは小声で言って枠を下ろし、それでも、帳面に何か書きつけた。
――二区画目、岩棚の苔。採れず。根が深い。
レオは手帳に描いた。葉の裏の溝。水の流れる向き。それから、壁張りの指の形も、ついでに。
*
岩棚の終わりに、少し広くなった場所があった。
四人で座って、水を一口ずつ飲んだ。ロルフが干した果物を配ってくれた。甘酸っぱい杏だった。
「俺、今日はまだ一歩も離されてません」
ロルフは杏をかじりながら、なぜか胸を張った。
「岩棚が一本道だからね」とセシリア。
「一本道でも、殿下は前に市場の一本道で五歩離しました」
「あれは、角を曲がったから」
「市場の一本道に、角はありませんでした」
フェリクスが、杏を口に入れたまま、黙って頷いた。レオは言い返そうとして、思い出せなかった。たしかに、まっすぐな道だった気がする。皿のことしか見ていなかったのだ。
セシリアが地図を膝に広げた。
「この先、道が二つに分かれてるの。右は三つ目の区画への本道。左は、細い枝道」
光の線で地図の上をなぞる。
「枝道のほうが、暗いんだよ。入口の光がほとんど届かない。たぶん、さっきの苔と同じのが、もっと低いところに生えてる。根が浅いのもあるかもしれない。私が光を作って、ちゃんと開くところを見られるようにすれば――」
レオは、聞きながら、もう枝道のほうを見ていた。
暗い。何がいるか、分からない。さっきの壁張りみたいなのが、天井にいるかもしれない。沢鎧みたいなのが、水の中に。
自分が先に調べればいい。
水を一筋、枝道へ流せば、床の様子も、天井のしずくの落ち方も、全部分かる。何かがいれば、水が揺れる。さっきみたいに。先に危ないものを見つけておけば、セシリアは安心して光を作れる。
レオの手のひらに、水が集まりはじめた。
「――光の強さは、葉の開き方を見ながら変えるから、最初は」
セシリアの声が、まだ続いていた。
レオはもう立ち上がっていた。




