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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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雷を通す一呼吸

「やりたい」

 レオは、沢鎧から目を離さずに言った。大きな犬ほどの殻の塊が、二つ目の区画への入口に居座っている。どいてもらえなければ、今日はここで引き返しだ。

「倒さなくていい。あの石から、どいてもらえればいい」

 ロルフはすぐには答えなかった。剣の柄に手を置いたまま、沢鎧と、階段と、三人の顔を順番に見た。

「やるなら、三人でやってください。俺は、ここに立ちます」

 ロルフは岩棚の端、階段へ続く道の上に足を置いた。

「帰り道は俺が持ちます。危ないと思ったら、殿下が嫌がっても出ます。それでいいですね」

「いいです。ロルフが出てこなくて済むように、やります」

 セシリアがもう地図を広げていた。光を細く灯して、区画の床を照らしていく。水に沈んだところ、濡れた岩、乾いた岩。

「乾いてるのは、あそこと、あそこ。苔の岩の右に平らなのが一つ。通路の左にも一つ。私たちはこっちの棚から動かない。足が濡れてるからね」

 レオは頷いた。

 短い雷なら、あの殻は抜ける。十の秋、松の的に穴を開けたときの半分で足りる。でも、沢鎧は水の中の石に乗っていて、その水は、三人が歩いてきた水とつながっている。水に雷を落とせば、どこへ流れるか分からない。濡れた靴のほうへ来るかもしれない。

「乾いた岩に上げる。そこで撃つ」

「どうやって上げますか」

 フェリクスが背中の袋から板を外した。荷を背負うときに背中に当てる、薄い樫の板だ。胸の前に立てると、ちょうど盾くらいの大きさになる。

「風で押す。殻が平たいから、横から当てれば、たぶん動く」

 フェリクスは板を構えて、退路側へ一歩出た。ロルフの少し前。階段へ続く道を、板でふさぐ位置だった。


  *


 レオは手のひらに風を集めた。

 沢鎧の横腹へ、低く、まっすぐ。石の上の水面が、さあっと波立つ。殻の端に風が当たると、沢鎧の体が、ずずっと横へずれた。

 もう一度。

 沢鎧は鋏を振り上げて嫌がった。そして、自分から石を下りた。水の中を三歩這い、苔の岩の右の、乾いた平らな岩へ上がった。

「上がった!」

 レオは手首に熱を集めかけた。

 そのとき、沢鎧が向きを変えた。

 乾いた岩の上で、体をくるりと回して、レオの風が来るほうへ殻の正面を向けた。平たい殻の、いちばん厚いところ。そこに風が当たっても、もう動かない。そしてそのまま、ずるずると後ずさって、また水の中へ戻っていった。

「……覚えた」

 セシリアが小さく言った。

「風がどっちから来るか、もう覚えたよ、あれ」

 レオは、風をほどいて、今度は水に手をかざした。

 石の周りの水を、ぐっと押す。流れで沢鎧を押し流す。さっき泥を寄せた筋を太くして、川のように。

 水がどっと動いた。

 沢鎧は流されなかった。殻を低く、水の底に張りつくように伏せて、六本の脚を岩に食いこませた。流れは殻の上をなめらかに越えていくだけ。そのかわり、押した水が向こうの壁に当たって返ってきて、三人の立つ岩棚の下まで、ざぶりと打ち寄せた。

 セシリアが足を上げてよけた。フェリクスの靴に、新しい水がかかる。

 レオは手を止めた。

 流れを切った。

 押せば押すほど、足場が濡れる。手首の熱が、行き場をなくして、指先でぴりぴりした。

 水が引いていく。

 すると、沢鎧が動いた。

 水が引いて、石の表面に浅い窪みが現れた。拳二つ分くらいの、丸い窪み。沢鎧は、迷いもなくそこへ前の鋏をかけた。鋏で体を引き寄せて、窪みを支えにして、ぐっと身を起こす。

 そして、そこから、跳んだ。

 水を蹴って、まっすぐ岩棚のほうへ。開いた鋏が、レオの足首の高さで、がちん、と空を噛んだ。

「下がって!」

 セシリアの声で、三人は岩棚の奥へ下がった。ロルフの剣が半分だけ鞘から出ていた。でも、出てこなかった。

 沢鎧は岩棚の縁に鋏をかけたが、上がってはこなかった。しばらくそこで鋏を鳴らしてから、また後ずさり、さっきの石へ戻った。戻るときも、同じ窪みに、同じ鋏をかけた。

「……殿下」

 ロルフが低く言った。剣は半分抜いたままだった。

「風も水も、もう覚えられました。次に跳んだら、俺が出ます。そうなったら、今日はここまでです」

 フェリクスが板を握り直した。セシリアも、地図を胸に引き寄せた。

 レオは、その窪みから目を離せなかった。

「……あそこに戻る」

「何が? ちゃんと言って、レオ」

「あいつ。押されても、流されかけても、いつも同じ窪みに鋏をかけて戻る。跳ぶときも、あそこから跳んだ」

 強いのは殻だと思っていた。でも、あの窪みがなければ、伏せて耐えることも、跳ぶこともできない。

「セシリア、あの窪み、照らせる? あいつの目には当てないで。窪みだけ」

 セシリアは、返事をする前に光を作っていた。

 細い、細い光。針のような白い線が、暗い水面の上を渡って、石の窪みのふちだけを、くっきり浮かび上がらせた。沢鎧の目には当たっていない。目をくらませれば、暴れてまた跳ぶ。そこまで分かっている光だった。

 ついでのように、もう一本。三人の足元の岩棚の、乾いたところと濡れたところの境に、ごく淡い光の線が引かれた。

「足は、この線の内側ね。外は濡れてる」

 フェリクスが板を構えたまま口を開いた。

「レオ。あれが逃げるとき、通路の右の、低い水路にも一度入りかけていました。あっちは奥の水場につながっています」

「水路? ……本当だ、あそこだけ流れが速い」

「この板を伏せれば、あの水路の口はふさげます。幅がちょうど同じくらいなので」

 レオは、窪みと、水路と、乾いた岩を順に見た。

 追い回すのは、もうやめだ。

「窪みを、一回だけ空にする」

 声に出すと、作戦の形がはっきりした。

「水を引いて、窪みを乾かす。あいつはいつもの場所に鋏をかけられない。そしたら、たぶん、覚えた逃げ道のほうへ行く。風が来なかった、乾いた岩のほう。そこで待つ」

「水路は、私がふさぎます」とフェリクス。

「私が、全部の位置を言う」とセシリア。「レオは、見るのと撃つのだけ」


  *


 レオは水に手をかざした。

 今度は押さない。引く。石の周りから、細く、細く。窪みに溜まった水を、糸を一本ずつ抜くように、水路の低いほうへ逃がしていく。

 窪みの底が見えてきた。濡れた岩の色が、少しずつ白っぽく乾いていく。

 沢鎧が鋏を窪みに伸ばした。

 かつん、と鋏が乾いた岩の底を打った。引っかかりがない。濡れた苔も水の重さもない。鋏が、滑った。

 沢鎧の体がびくっと揺れた。

「動く」セシリアが言った。「右。……違う、水路のほう」

 沢鎧は石を下りて、右の低い水路へ向かった。奥の水場へ逃げこむ道だ。

「フェリクス、今!」

 フェリクスが板を投げるように伏せた。樫の板が、水路の口にばしゃんと落ち、ぴたりとはまった。沢鎧の鋏が板の縁にかかった。

「乾いた岩、残り一つ。苔の右」

 沢鎧が向きを変えた。

 最初に一度、自分から上がった乾いた岩。風が来なかった場所。覚えた逃げ道。

 這い上がる。

 レオは風を一筋だけ放った。殻にではなく、乾いた岩の上へ。沢鎧の脚にこびりついて、岩の上に落ちた泥だけを、さっと吹き払う。岩の上が本当に乾いた。

 沢鎧が、岩の上で、くるりと回った。板のほう、フェリクスのほうへ、殻の正面を向けた。脚に力をためるように、体を沈める。

 板へ、突っこむ気だ。

「フェリクス、下がって。セシリア、そこから動かないで」

 レオは息を吸った。

 手首に熱。指先に冷たさ。そのあいだを回す風。十の夏から、何百回も繰り返してきた順番。

 導く道は自分で引く。手のひらから、沢鎧のほうへ、ごく細い霧を一本。濡れた岩棚にも、セシリアの足元にも、フェリクスの板にも向けない。乾いた岩の上の、殻と殻の継ぎ目。首の付け根の、いちばん細い一本の線だけへ。

 一呼吸。

 吐いた。

 青白い光が、霧の筋の上を走った。

 ばちん。

 音が洞窟じゅうに響いたときには、光はもう継ぎ目に吸いこまれていた。天井のしずくが、一斉に光ったように見えた。

 沢鎧は止まっていた。

 突っこむために沈めた体のまま、脚が六本とも固まっている。鋏が半分開いたまま動かない。殻の継ぎ目から、細い煙が一筋、立ちのぼった。

 岩棚の端で、ロルフの半分抜いた剣が、そのまま止まっていた。

 レオはすぐに熱をほどいた。冷たさをほどいた。風をほどいた。順番どおりに。指先のぴりぴりが、すうっと引いていく。

 通したのは、首の継ぎ目に入るだけの、針一本ぶん。それで足りた。レオの息は、少しも乱れていなかった。

 木剣を抜いて、構えた。まだ解かない。セシリアも光を保ったまま。フェリクスは、板のない手で、腰の短い木剣を握っていた。

 十数えた。

 二十数えたところで、沢鎧の脚が、一本、ぴくりと動いた。それから、もう一本。沢鎧はゆっくりと、本当にゆっくりと岩を下り、板でふさがれていない、奥の深い水へ、這うように沈んでいった。

 水面の輪が遠ざかっていく。

 消えた。


  *


 誰もしばらく何も言わなかった。

 洞窟の天井から、しずくが落ちた。ぽつん。

 フェリクスが最初に動いた。板を拾い上げて、裏を返した。樫の板の縁に、鋏の跡が、くっきりと二本、刻まれていた。

「……傷が、つきました」

「板、割れてない?」

「沢鎧の傷です」

 フェリクスが板を胸の前に掲げた。真顔だった。真顔のまま、板が手の中でかたかた鳴っていた。

 それを見て、セシリアが吹き出した。

 レオも吹き出した。

 笑い声が、遅れて、腹の底から上がってきた。

「やった!」

 レオは木剣を突き上げた。

「やった、やった! 見た? 見たよね、今の! 継ぎ目に入った!」

「見た! ちゃんと乾いた岩だけ!」

「板です! 板が、ふさいだんです!」

 三人の声が、洞窟の壁に何重にもはね返った。奥の壁の苔が、驚いたように少しだけ明るくなった気がした。

 ロルフが、岩棚の端で、ふうっと長い息を吐いた。剣を鞘に戻す、かちんという音。

「……近衛の新人なら、三人がかりで盾ごと押し返される相手ですよ、あれ」

 誰に言うでもなく、首を振っていた。

 セシリアが地図を膝に広げた。苔の岩の右、最後に沢鎧が上がった乾いた岩のところに、ぐるりと丸を描き、その横に小さく書いた。

 ――最後まで動かなかった足場。

 レオは、乾いた岩のそばにしゃがんだ。

 岩の上に、黒い焦げの点が一つ、残っていた。皿の縁の焦げと同じ、髪の毛ほどの細い線が、点から一本だけ、外へ伸びている。

 自分の雷が本当に通った跡だった。台の上でも、皿の上でもなく。

「残熱、確かめましょう」

 ロルフが来て、手の甲を岩の上にかざし、焦げの周りを指でとんとんと叩いた。

「冷めてます。触っていいですよ」

 岩の根元に、沢鎧の殻のかけらが一枚、落ちていた。継ぎ目のところから剥がれたらしい。その裏に苔が少しついていた。

 レオは、フェリクスの枠を借りて、それを採った。

 薄い黄色の、短い苔。光の輪を当てても、開かない。

「これ、違うね」

 セシリアがのぞきこんだ。

「ともし苔じゃない。ロルフさんがなめたっていう黄色いの、これじゃない?」

「なめないでください」

 フェリクスが間髪をいれずに言った。

 レオは笑って、その苔を瓶に入れなかった。殻のかけらごと、岩の上にそっと戻した。

 手帳を開いて、焦げの点を描いた。窪みも、乾いた岩と板と霧の筋も描いて、次の頁をめくる。

 まだ白い。

「奥、行こう。今なら、もっとちゃんと見られる気がする」

 ロルフが、空を見るように天井の割れ目を見上げてから、頷いた。

「休んでからです。水を一口ずつ。それから昼前に、奥の岩棚まで」

 フェリクスが、自分の手帳に何か書きこんだ。水筒、一口ずつ、三人。それから小さく、板、傷二本、と。


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