雷を通す一呼吸
「やりたい」
レオは、沢鎧から目を離さずに言った。大きな犬ほどの殻の塊が、二つ目の区画への入口に居座っている。どいてもらえなければ、今日はここで引き返しだ。
「倒さなくていい。あの石から、どいてもらえればいい」
ロルフはすぐには答えなかった。剣の柄に手を置いたまま、沢鎧と、階段と、三人の顔を順番に見た。
「やるなら、三人でやってください。俺は、ここに立ちます」
ロルフは岩棚の端、階段へ続く道の上に足を置いた。
「帰り道は俺が持ちます。危ないと思ったら、殿下が嫌がっても出ます。それでいいですね」
「いいです。ロルフが出てこなくて済むように、やります」
セシリアがもう地図を広げていた。光を細く灯して、区画の床を照らしていく。水に沈んだところ、濡れた岩、乾いた岩。
「乾いてるのは、あそこと、あそこ。苔の岩の右に平らなのが一つ。通路の左にも一つ。私たちはこっちの棚から動かない。足が濡れてるからね」
レオは頷いた。
短い雷なら、あの殻は抜ける。十の秋、松の的に穴を開けたときの半分で足りる。でも、沢鎧は水の中の石に乗っていて、その水は、三人が歩いてきた水とつながっている。水に雷を落とせば、どこへ流れるか分からない。濡れた靴のほうへ来るかもしれない。
「乾いた岩に上げる。そこで撃つ」
「どうやって上げますか」
フェリクスが背中の袋から板を外した。荷を背負うときに背中に当てる、薄い樫の板だ。胸の前に立てると、ちょうど盾くらいの大きさになる。
「風で押す。殻が平たいから、横から当てれば、たぶん動く」
フェリクスは板を構えて、退路側へ一歩出た。ロルフの少し前。階段へ続く道を、板でふさぐ位置だった。
*
レオは手のひらに風を集めた。
沢鎧の横腹へ、低く、まっすぐ。石の上の水面が、さあっと波立つ。殻の端に風が当たると、沢鎧の体が、ずずっと横へずれた。
もう一度。
沢鎧は鋏を振り上げて嫌がった。そして、自分から石を下りた。水の中を三歩這い、苔の岩の右の、乾いた平らな岩へ上がった。
「上がった!」
レオは手首に熱を集めかけた。
そのとき、沢鎧が向きを変えた。
乾いた岩の上で、体をくるりと回して、レオの風が来るほうへ殻の正面を向けた。平たい殻の、いちばん厚いところ。そこに風が当たっても、もう動かない。そしてそのまま、ずるずると後ずさって、また水の中へ戻っていった。
「……覚えた」
セシリアが小さく言った。
「風がどっちから来るか、もう覚えたよ、あれ」
レオは、風をほどいて、今度は水に手をかざした。
石の周りの水を、ぐっと押す。流れで沢鎧を押し流す。さっき泥を寄せた筋を太くして、川のように。
水がどっと動いた。
沢鎧は流されなかった。殻を低く、水の底に張りつくように伏せて、六本の脚を岩に食いこませた。流れは殻の上をなめらかに越えていくだけ。そのかわり、押した水が向こうの壁に当たって返ってきて、三人の立つ岩棚の下まで、ざぶりと打ち寄せた。
セシリアが足を上げてよけた。フェリクスの靴に、新しい水がかかる。
レオは手を止めた。
流れを切った。
押せば押すほど、足場が濡れる。手首の熱が、行き場をなくして、指先でぴりぴりした。
水が引いていく。
すると、沢鎧が動いた。
水が引いて、石の表面に浅い窪みが現れた。拳二つ分くらいの、丸い窪み。沢鎧は、迷いもなくそこへ前の鋏をかけた。鋏で体を引き寄せて、窪みを支えにして、ぐっと身を起こす。
そして、そこから、跳んだ。
水を蹴って、まっすぐ岩棚のほうへ。開いた鋏が、レオの足首の高さで、がちん、と空を噛んだ。
「下がって!」
セシリアの声で、三人は岩棚の奥へ下がった。ロルフの剣が半分だけ鞘から出ていた。でも、出てこなかった。
沢鎧は岩棚の縁に鋏をかけたが、上がってはこなかった。しばらくそこで鋏を鳴らしてから、また後ずさり、さっきの石へ戻った。戻るときも、同じ窪みに、同じ鋏をかけた。
「……殿下」
ロルフが低く言った。剣は半分抜いたままだった。
「風も水も、もう覚えられました。次に跳んだら、俺が出ます。そうなったら、今日はここまでです」
フェリクスが板を握り直した。セシリアも、地図を胸に引き寄せた。
レオは、その窪みから目を離せなかった。
「……あそこに戻る」
「何が? ちゃんと言って、レオ」
「あいつ。押されても、流されかけても、いつも同じ窪みに鋏をかけて戻る。跳ぶときも、あそこから跳んだ」
強いのは殻だと思っていた。でも、あの窪みがなければ、伏せて耐えることも、跳ぶこともできない。
「セシリア、あの窪み、照らせる? あいつの目には当てないで。窪みだけ」
セシリアは、返事をする前に光を作っていた。
細い、細い光。針のような白い線が、暗い水面の上を渡って、石の窪みのふちだけを、くっきり浮かび上がらせた。沢鎧の目には当たっていない。目をくらませれば、暴れてまた跳ぶ。そこまで分かっている光だった。
ついでのように、もう一本。三人の足元の岩棚の、乾いたところと濡れたところの境に、ごく淡い光の線が引かれた。
「足は、この線の内側ね。外は濡れてる」
フェリクスが板を構えたまま口を開いた。
「レオ。あれが逃げるとき、通路の右の、低い水路にも一度入りかけていました。あっちは奥の水場につながっています」
「水路? ……本当だ、あそこだけ流れが速い」
「この板を伏せれば、あの水路の口はふさげます。幅がちょうど同じくらいなので」
レオは、窪みと、水路と、乾いた岩を順に見た。
追い回すのは、もうやめだ。
「窪みを、一回だけ空にする」
声に出すと、作戦の形がはっきりした。
「水を引いて、窪みを乾かす。あいつはいつもの場所に鋏をかけられない。そしたら、たぶん、覚えた逃げ道のほうへ行く。風が来なかった、乾いた岩のほう。そこで待つ」
「水路は、私がふさぎます」とフェリクス。
「私が、全部の位置を言う」とセシリア。「レオは、見るのと撃つのだけ」
*
レオは水に手をかざした。
今度は押さない。引く。石の周りから、細く、細く。窪みに溜まった水を、糸を一本ずつ抜くように、水路の低いほうへ逃がしていく。
窪みの底が見えてきた。濡れた岩の色が、少しずつ白っぽく乾いていく。
沢鎧が鋏を窪みに伸ばした。
かつん、と鋏が乾いた岩の底を打った。引っかかりがない。濡れた苔も水の重さもない。鋏が、滑った。
沢鎧の体がびくっと揺れた。
「動く」セシリアが言った。「右。……違う、水路のほう」
沢鎧は石を下りて、右の低い水路へ向かった。奥の水場へ逃げこむ道だ。
「フェリクス、今!」
フェリクスが板を投げるように伏せた。樫の板が、水路の口にばしゃんと落ち、ぴたりとはまった。沢鎧の鋏が板の縁にかかった。
「乾いた岩、残り一つ。苔の右」
沢鎧が向きを変えた。
最初に一度、自分から上がった乾いた岩。風が来なかった場所。覚えた逃げ道。
這い上がる。
レオは風を一筋だけ放った。殻にではなく、乾いた岩の上へ。沢鎧の脚にこびりついて、岩の上に落ちた泥だけを、さっと吹き払う。岩の上が本当に乾いた。
沢鎧が、岩の上で、くるりと回った。板のほう、フェリクスのほうへ、殻の正面を向けた。脚に力をためるように、体を沈める。
板へ、突っこむ気だ。
「フェリクス、下がって。セシリア、そこから動かないで」
レオは息を吸った。
手首に熱。指先に冷たさ。そのあいだを回す風。十の夏から、何百回も繰り返してきた順番。
導く道は自分で引く。手のひらから、沢鎧のほうへ、ごく細い霧を一本。濡れた岩棚にも、セシリアの足元にも、フェリクスの板にも向けない。乾いた岩の上の、殻と殻の継ぎ目。首の付け根の、いちばん細い一本の線だけへ。
一呼吸。
吐いた。
青白い光が、霧の筋の上を走った。
ばちん。
音が洞窟じゅうに響いたときには、光はもう継ぎ目に吸いこまれていた。天井のしずくが、一斉に光ったように見えた。
沢鎧は止まっていた。
突っこむために沈めた体のまま、脚が六本とも固まっている。鋏が半分開いたまま動かない。殻の継ぎ目から、細い煙が一筋、立ちのぼった。
岩棚の端で、ロルフの半分抜いた剣が、そのまま止まっていた。
レオはすぐに熱をほどいた。冷たさをほどいた。風をほどいた。順番どおりに。指先のぴりぴりが、すうっと引いていく。
通したのは、首の継ぎ目に入るだけの、針一本ぶん。それで足りた。レオの息は、少しも乱れていなかった。
木剣を抜いて、構えた。まだ解かない。セシリアも光を保ったまま。フェリクスは、板のない手で、腰の短い木剣を握っていた。
十数えた。
二十数えたところで、沢鎧の脚が、一本、ぴくりと動いた。それから、もう一本。沢鎧はゆっくりと、本当にゆっくりと岩を下り、板でふさがれていない、奥の深い水へ、這うように沈んでいった。
水面の輪が遠ざかっていく。
消えた。
*
誰もしばらく何も言わなかった。
洞窟の天井から、しずくが落ちた。ぽつん。
フェリクスが最初に動いた。板を拾い上げて、裏を返した。樫の板の縁に、鋏の跡が、くっきりと二本、刻まれていた。
「……傷が、つきました」
「板、割れてない?」
「沢鎧の傷です」
フェリクスが板を胸の前に掲げた。真顔だった。真顔のまま、板が手の中でかたかた鳴っていた。
それを見て、セシリアが吹き出した。
レオも吹き出した。
笑い声が、遅れて、腹の底から上がってきた。
「やった!」
レオは木剣を突き上げた。
「やった、やった! 見た? 見たよね、今の! 継ぎ目に入った!」
「見た! ちゃんと乾いた岩だけ!」
「板です! 板が、ふさいだんです!」
三人の声が、洞窟の壁に何重にもはね返った。奥の壁の苔が、驚いたように少しだけ明るくなった気がした。
ロルフが、岩棚の端で、ふうっと長い息を吐いた。剣を鞘に戻す、かちんという音。
「……近衛の新人なら、三人がかりで盾ごと押し返される相手ですよ、あれ」
誰に言うでもなく、首を振っていた。
セシリアが地図を膝に広げた。苔の岩の右、最後に沢鎧が上がった乾いた岩のところに、ぐるりと丸を描き、その横に小さく書いた。
――最後まで動かなかった足場。
レオは、乾いた岩のそばにしゃがんだ。
岩の上に、黒い焦げの点が一つ、残っていた。皿の縁の焦げと同じ、髪の毛ほどの細い線が、点から一本だけ、外へ伸びている。
自分の雷が本当に通った跡だった。台の上でも、皿の上でもなく。
「残熱、確かめましょう」
ロルフが来て、手の甲を岩の上にかざし、焦げの周りを指でとんとんと叩いた。
「冷めてます。触っていいですよ」
岩の根元に、沢鎧の殻のかけらが一枚、落ちていた。継ぎ目のところから剥がれたらしい。その裏に苔が少しついていた。
レオは、フェリクスの枠を借りて、それを採った。
薄い黄色の、短い苔。光の輪を当てても、開かない。
「これ、違うね」
セシリアがのぞきこんだ。
「ともし苔じゃない。ロルフさんがなめたっていう黄色いの、これじゃない?」
「なめないでください」
フェリクスが間髪をいれずに言った。
レオは笑って、その苔を瓶に入れなかった。殻のかけらごと、岩の上にそっと戻した。
手帳を開いて、焦げの点を描いた。窪みも、乾いた岩と板と霧の筋も描いて、次の頁をめくる。
まだ白い。
「奥、行こう。今なら、もっとちゃんと見られる気がする」
ロルフが、空を見るように天井の割れ目を見上げてから、頷いた。
「休んでからです。水を一口ずつ。それから昼前に、奥の岩棚まで」
フェリクスが、自分の手帳に何か書きこんだ。水筒、一口ずつ、三人。それから小さく、板、傷二本、と。




