洞窟の朝の色
緑井戸の入口は、森の中にぽっかり開いた、大きな井戸のような穴だった。
穴のふちから苔の垂れた岩肌が下へ続き、底のほうで、細い滝が一本、白い糸みたいに落ちている。その落ちた水が、穴の奥の暗がりへ吸いこまれていく。冷たい風が下から吹き上げてきた。土と、水と、何か青くさい草の匂いがした。
穴の脇の番小屋で、迷宮番の老人が名簿に四人の名前を書きこんだ。ロルフが「近衛ロルフ、ほか子ども三名」と言ったので、レオの名前は「子ども」の中に入った。それが妙にうれしかった。
「三つ目の区画までだね」老人は名簿を閉じた。「日が傾く前に、ここで名前を消しにおいで。消しに来ないと、わしが探しに行くことになる。わしの膝はもう階段が嫌いでね」
岩の階段を、ロルフ、セシリア、レオ、フェリクスの順に下りた。
下りきったところで、レオは足を止めた。止めずにはいられなかった。
天井から、水が落ちている。細い滝のほかにも、岩の割れ目という割れ目から、しずくがぽつぽつと。その一粒一粒に、入口から差しこむ朝の光が当たって、きらっと光る。落ちるたびに光る。数えきれないほどの小さな光が、上から下へ、ひっきりなしに降っていた。
そして、その向こう。
奥の壁がぼんやりと緑に光っていた。
光はじっとしていなかった。明るくなり、少し暗くなり、また明るくなる。ゆっくりと。壁そのものが、大きな生き物みたいに息をしているように見えた。
「……見た?」
レオは振り返らずに言った。
「見てる」セシリアの声も小さかった。
「見ています。……帳面に書く言葉が、見つかりません」フェリクスの声は、いつもより一段低かった。
ロルフが三人の後ろで腕を組んだ。
「あれが、ともし苔です。俺が新人のときも、ここで三人並んで口を開けてました」
「光ってるのは、日の光を返してるの?」
「それもあります。でも、それだけなら、雲が出ても同じでしょう」
ロルフは、壁の下を流れる細い水路を指さした。
「この奥の水が増えたり、地の魔力が濃くなったりすると、明るさが変わるんです。雨の次の日はもっと明るい。乾いた冬はほとんど光らない。だから、明るさを見れば、地面の下の水の機嫌がだいたい分かる……と、迷宮番の爺さんが言ってました」
レオは手帳を開いた。真っ白な頁に最初の一行を書く。
――壁が息をしている。地面の下の水で、明るさが変わる。
書き終える前に、足がもう壁のほうへ向かっていた。
*
一つ目の区画の真ん中に、大きな平たい岩がある。その上に、ともし苔がこんもりと盛り上がっていた。ほかのどこよりも明るい。手のひらを広げたくらいの大きさで、ふちから細い葉が無数に伸びている。
「あれ、いちばんよく光ってる」
レオは岩に手を伸ばした。
指先が苔に触れる前に、苔の陰から、何かがわっと散った。
白くて小さな生き物だった。指の先ほどの、半分透けたえびのようなもの。それが何十匹も、苔の下から跳ね出して、岩の上を走り、水路へ飛びこんだ。
飛びこんだ勢いで、水路の泥が巻き上がった。
灰色の泥水が水路からあふれ出す。苔の岩の周りに広がり、三人の足元へ向かってくる。
レオの手首に水の気配が集まりかけた。押し返せる。泥水くらい、水路へ戻すのは簡単だ。
「レオ、上」
セシリアの声と同時に、白い光が一本、岩壁の高いところを照らした。腰の高さくらいの、平らな岩棚だった。
「みんな、あそこ。泥が引くまで」
レオは手首の水を止めた。押し返せば、泥はどこかへ行く。でも、どこへ行くかは分からない。それより、足を上げたほうが早い。
四人が岩棚に上がった。ロルフが最後で、上がるなり三人の数を指で確かめた。
足の下で、泥水が岩の周りを回っていた。苔の岩の根元が、灰色の水に半分沈んでいる。
レオは、岩棚の上にしゃがんで、水面を見下ろした。
「全部どかすと、苔の根元が乾くかもしれない」
「どかさないんですか」とフェリクス。
「半分だけ。苔の分の水は、残しとく」
レオは水面に手をかざした。押し返すのではなく、泥の重いところだけを、細く寄せる。水路のいちばん低いところへ、糸を引くみたいに。灰色の泥が、一本の筋になって、するすると水路へ戻っていく。
苔の岩の根元に、透きとおった水が残った。
浅い水面の下に、苔の根が見えた。白い糸のような根が、岩の割れ目から水の中へ、何本も伸びていた。
「……水、飲んでる」
レオは、自分の口から出た言葉に自分で驚いた。でも、そうとしか見えなかった。根の先が、水の中でかすかに揺れている。
*
フェリクスが袋から自分の瓶を出した。空の、透きとおった硝子の瓶だった。
「セシリア、この瓶に光を当ててもらえますか」
「何するの。のぞき眼鏡?」
「水面の上にかざしてみたいんです。瓶の底は厚いので」
セシリアが指先に灯した光を、瓶の横から当てた。フェリクスは瓶を、苔の岩の真上にかざした。瓶の厚い底を通った光が、苔の上に、丸い輪になって落ちた。輪の内側はほのかに明るく、外側は洞窟のままの暗さだった。
光の輪の中で、苔が動いた。
細い葉が、一本、また一本と、ふちから外へ開いていく。花が咲くみたいに。輪の外の葉は、閉じたまま、ぴくりともしない。
三人とも声が出なかった。
セシリアが光をわずかに弱める。輪の中の葉が、さらに開いた。今度は少し強めた。葉がすっと閉じかけた。
「強いと閉じる」セシリアがささやいた。「弱いほうが、開く」
「入口の光は、強すぎるのかな。だから奥で光ってる」
「ちょっと、近くで見たい」
レオは、岩棚に腹ばいになって、指先に一滴の水を浮かせた。小さな、まん丸の粒。それを、開いた葉のすぐ上に持っていく。
粒を通して、葉が大きく見えた。
一本の細い葉の表面に、さらに細い毛が、びっしり生えていた。その毛の一本一本の先に、水の粒がついている。毛が倒れたり起きたりするたびに、粒が葉の根元のほうへ送られていく。順番に。一つずつ。
「水を、運んでる」
レオは息だけで言った。
「根で飲んで、葉で運んで……違う、葉の上の水も、根のほうへ戻してる。暗いところで、光をもらう代わりに、水を回してるんだ」
手帳を開いた。描いた。葉の形。毛の向き。粒の動き。光の輪の内と外。一枚では足りなくて、次の頁にも描いた。フェリクスが瓶をかざし続け、セシリアが光を細く保ち続けるあいだ、レオの筆は止まらなかった。
五枚目の絵を描き終えたとき、レオは顔を上げた。
「まだ一本も採ってないのに」
自分の声が笑っていた。
「もう、来てよかった」
セシリアが光を保ったまま笑った。フェリクスは瓶をかざしたまま、肩が少し震えていた。腕がしびれてきたのだ。
「……レオ、あと何枚描きますか」
「あと三枚。……いや、四枚かも」
「二枚にしてください」
*
そのときだった。
足の下の水面に、輪が一つ、広がった。
しずくが落ちた輪ではなかった。もっと大きく、もっとゆっくりした輪。それが奥のほうから、一つ、二つと、こちらへ向かって近づいてくる。
ロルフがすっと腰の剣に手をかけた。
「動かないで」
暗がりの奥、二つ目の区画へ続く低い通路から、何かが這い出してきた。
大きな犬くらいの、平たい体。背中は灰色と緑のまだらの殻で、何枚もの板を重ねたように継ぎ目が走っている。殻の下から、太い脚が六本。前の二本だけ、先が鋏のように二つに割れていた。
「沢鎧です」
ロルフの声はさっきまでと違っていた。
「この迷宮の主みたいなもんです。こっちから手を出さなきゃ、だいたい通り過ぎます」
沢鎧は、水の中をのそのそ歩き、苔の岩の脇にある、平たい石の上へ這い上がった。石の上で体を落ち着け、前の鋏で、石に生えた苔をこそげはじめる。
食べていた。
そして、その石は、二つ目の区画へ続く通路の、ちょうど入口をふさいでいた。
「……動かないね。食べるのに忙しそう」
セシリアが、地図を胸に当てたまま言った。
「あそこ、餌場なのかも。通り過ぎるんじゃなくて、ここに居座るつもり」
ロルフが、階段のほうへ一度だけ目をやった。帰り道は空いている。それを確かめてから、三人を振り返った。
「今日は、ここまでにしますか」
レオは通路の奥を見た。二つ目の区画には、もっと奥の苔がある。師匠が言っていた、水を通す苔は、たぶんそっちだ。
それから、足元の水を見た。
沢鎧が這い上がった石の周りで、水が小さく渦を巻いていた。さっき自分が泥を寄せた筋が、まだ残っている。あの流れを使えば、石の周りの水を動かせる。沢鎧を別の場所へ。
そう思って水面を見下ろしたとき、透きとおった水に、三人分の靴が映っていた。
泥の中を歩いてきた靴。セシリアの靴も、フェリクスの靴も、自分の靴も、くるぶしまで、ぐっしょり濡れていた。




