三人で背負えるだけ
父は、レオの手帳を三頁めくったところで、指を止めた。
「よく書けている。戦い方のところは、特に」
執務室の窓から、春の午後の日が机に落ちていた。誕生日から五日たっていた。レオは机の前に立ち、両手を後ろで組んで、父の指の下にある頁を見ていた。
小迷宮「緑井戸」の地図。セシリアがベルナルトの近衛の地図から写したものだ。その横に、レオの字がびっしり並んでいる。甲殻のある魔物が出たら、殻の継ぎ目を狙う。濡れた床では雷を使わない。乾いた岩へ誘いこむには風、足止めには水。三頁のうち二頁半が、戦い方の話だった。
「ここは? ここだけ、ずいぶん字が少ない」
父の指が、三頁目のいちばん下を叩いた。
――帰りは来た道を戻る。
一行だけだった。
「来た道を戻る」レオは読み上げた。「迷わないように、セシリアが目印を置くから」
「誰かが足を挫いたら?」
レオは口を開けて、閉じた。
部屋の隅に立っていたベルナルトが、吊った右腕はそのままに、左手で近衛の地図を広げた。入口から三つ目の区画までの道を、指でなぞる。
「ここから入口まで、大人の足で十五分。子どもを一人背負えば、倍」
「じゃあ、僕が背負う」
「お前が挫いたら」
「フェリクスが背負う。フェリクスは、ああ見えて力持ちだから」
「フェリクスの荷は」
レオは答えに詰まった。後ろで、フェリクスが小さく咳払いをした。
父は手帳を閉じて、レオに返した。
「許すかどうかは、まだ決めない。三人とも、持っていくつもりの荷を全部背負って、予定の距離を歩いてきなさい。往復でだ。それができたら、もう一度ここへおいで」
*
近衛の詰所の物置には、麦袋を量る大きな秤があった。
「せーの」
三人の荷を順番に吊るす。レオの袋で針がぐんと振れた。
「なんでレオのがいちばん重いの」
セシリアが袋の口をのぞきこみ、銅の小皿を一枚、二枚、三枚と取り出した。続いて、フェリクスが冬のあいだに軽くした鉄の台。雷を受ける松の的板。乾いた布が四枚。記録用の瓶が五本。
「全部いるんだよ。苔の上で雷が通るかどうか、試せるかもしれないだろ」
「苔を見に行くんじゃなかったの」
「見るし、試す」
セシリアの袋も軽くはなかった。冬のあいだに考えたという目印が、布袋にじゃらじゃら入っている。錫の小片を薄く叩いて磨き、糸を通したものだ。暗いところで光を当てると、ちかっと光り返すのだという。
「三十個。全部、私が叩いて磨いたの」
「多くない? 入るの、三つの区画までだよ」
「分かれ道ごとに二つ。帰りに一つ外して、行きの目印と区別するの」
フェリクスはというと、自分の袋のほかに、二人の袋の紐を両肩にかけようとしていた。
「私が持ちます。従者ですから」
「三つ全部? それ、フェリクスの体重より重くない?」
「全部です。従者の肩は、そのためにありますので」
フェリクスは袋を三つ背負って、練兵場の外周を歩きはじめた。一周目は涼しい顔だった。二周目で顔が赤くなった。三周目の角で、膝がかくんと折れて、砂の上に袋ごと座りこんだ。
「……今のは、足がもつれただけです」
「もつれさせたのは、荷だよね」
セシリアが言うと、フェリクスは何か言い返しかけて、黙って紐を肩から外し、二人の袋を一つずつ、持ち主の足元へ置いた。
「撤回します。全部は無理です」
「最初からそう言ってよ」
「言ったら、レオが自分の荷を減らさないでしょう」
レオは足元の袋を見下ろした。
階段の試しは西の塔でやった。迷宮の一つ目と二つ目の区画のあいだには、岩を削った細い階段があると、地図に書いてあったからだ。
三階まで上がって、下りる。それを三往復。
二往復目の途中で、レオの背中で何かがごつんと鳴った。袋の口から突き出た松の的板が、階段の天井の梁に引っかかっていた。体が後ろへ引っ張られ、踵が段から浮いた。
セシリアが、とっさにレオの袋の紐をつかんだ。フェリクスが下から肩を押さえた。
「……ありがとう」
三人とも、しばらく階段の途中で動かなかった。迷宮の階段で、もし下にいたのがセシリアだったら、落ちてきたレオを受けたのは彼女だった。
レオは袋を下ろして、的板を抜いた。鉄の台も抜く。銅の小皿は三枚から一枚にした。
「台は置いてく」
言ってから、フェリクスの顔を見た。冬じゅう、削ったり穴を開けたりして、半分の重さにしてくれた台だった。
「ごめん。せっかく軽くしてくれたのに」
「謝ることではありません」
フェリクスは台を受け取り、裏を返して、自分で開けた穴を指でなぞった。
「ただ、この穴の分だけ、私の冬が軽くなった気がするだけです」
「それ、怒ってるよね」
「怒っていません。考えているんです。……この脚、外せば別の物になりますから」
瓶は五本から、一人一本になった。そのかわり、救急の布と水筒は三人で分けて持つ。誰か一人の袋をなくしても、残りの二人が手当てできるように。そう言い出したのはセシリアで、レオはそれを手帳に書いた。戦い方の二頁半の、さらに下に。
*
三日後、三人は、軽くなった袋を背負って父の執務室に戻った。
練兵場の外周を、予定の距離ぶん。往復で。途中でセシリアが足を挫いたふりをして、フェリクスとレオが交代で背負って歩いた。フェリクスの手帳には、背負った距離と休んだ回数が書いてある。
父は、その頁をしばらく読んでいた。
「条件をつける」
父は指を三本立てた。
「大人が一人、ついていく。ロルフに頼んだ」
「ロルフ? 市場で、一緒だった?」
「市場で五歩置いていかれたことを、まだ気にしているそうだ。今度は離されないように走りこんでいる」
レオは吹き出しかけて、こらえた。
「二つ。入るのは、入口が見える浅い三つの区画まで。三つ。前の晩か当日の朝に雨が降ったら、中止だ。小迷宮の水は、雨のあとに増える」
「はい」
三人の声がそろった。
「最後に、役目を決めておきなさい」
父が言うと、セシリアが一歩前に出た。
「道は私です。目印と、帰りの順番」
「装備と残りの量は、私が」フェリクスが言った。「水、灯り、布、瓶。誰がいくつ使ったか」
レオは二人を見た。それから、父を見た。
「戦うのと、水。……あと、何か面白いものを見つけたら、それも」
父は頷いた。
「それなら、行ってきなさい」
執務室を出たとたん、三人は廊下を走りだした。
「ねえ、苔ってどんな色なんだろう。師匠は、青っぽい緑で、暗いところでぼんやり光るって」
「ロルフさんは、黄色だって言ってたよ。昔、近衛の訓練で入ったとき」
「黄色? 師匠と言ってることが違う」
「それに、なめたら甘かったって」
「なめたの? 苔を?」
「新人のころ、先輩に言われて」
フェリクスが走りながら首を振った。
「それは、からかわれただけだと思います」
「でも甘かったかもしれないだろ。確かめないと」
「なめないでください。瓶は一人一本です。なめた分の苔は、記録に書けません」
「なめた感想は書ける」
「書かせません」
セシリアが笑いながら、二人を追い越していった。
「明日、日の出の鐘で南の門だからね。遅れたら置いてく。隊長命令」
「明日? 明後日じゃなくて?」
「ロルフさんに聞いたら、明日から三日は晴れだって。今のうちに寝る!」
赤みがかった栗色の一本結びが、回廊の角を曲がって消えた。
*
日の出の鐘が、まだ鳴り終わらないうちだった。
南の門の前で、フェリクスが自分の袋を下ろし、中から見慣れない物を取り出した。
鉄の細い枠。手のひらを二つ並べたくらいの大きさで、四隅に脚がある。どこかで見た脚だ、とレオは思った。冬のあいだ、温室で何十回も見てきた脚。
「台の脚です」
フェリクスは、何でもないことのように言った。
「外して、枠にしました。苔を、下の土ごと切り取って、このまま瓶の口に載せられます。根を触らずに済みます」
フェリクスは枠を、レオの袋とセシリアの袋のあいだの、ちょうど空いた隙間へ差しこんだ。誰の荷も重くならない場所に、ぴたりと収まった。
「……ゆうべ、作ったの?」
「考えていたと言いました」
セシリアが、自分の袋の口を開けて、いちばん上に錫の目印を一つ載せた。昨日の夕方、彼女が王宮の庭で暗くなるまで試していたものだ。
「最初の分かれ道の分。すぐ出せるように」
レオは手帳を開いた。
戦い方の二頁半。帰り道の一行と、その下に書き足したセシリアの言葉。そのあとの頁は、まだ真っ白だった。
その白い頁の上に、門の外から、朝の光が差しこんできた。空には雲が一つもない。
「すみません、遅れました!」
石畳を駆けてくる足音がして、ロルフが息を切らしながら三人の前で止まった。走りこみの成果なのか、まだ一歩も置いていかれていないのに、もう汗だくだった。
「殿下、今日は三歩以内ですからね。今日こそ三歩以内」
「分かってます。ロルフこそ、もう息が上がってますよ」
レオは手帳を閉じて、袋を背負い直した。軽かった。走りだしたくなるくらいに。




