受けてから返す誕生日
練兵場の砂は霜で白く固まっていた。
踏むと、しゃり、と鳴る。レオは木剣を握って、その白い砂の真ん中に立った。吐く息が白い。向かいにベルナルトが立っていた。
右の腕は、上着の中で、胴に沿わせて吊ってあった。
木剣は左手に握られていた。
「三手」
ベルナルトは言った。
「今日は、それだけだ」
二年前と同じ言葉だった。九つの春の朝、初めて三手を受けた日と。
レオは構えた。
一手目は肩を見ていたら分かった。
見る肩が、いつもと違う。右肩は動かない。代わりに左肩がわずかに沈む。上から来る。レオは木剣を斜めに立てて受け、衝撃を横へ流した。
受けた剣が軽かった。
ベルナルトは左手一本でも、去年と同じくらい重く打ちこんでくる。軽いのはレオの手のほうだった。半年近く、剣を握っていなかった。
「二手目」
左肩が引かれる。突き。半歩下がって、剣の腹で払う。
払いながら、ベルナルトの足を見た。右足が前に出ている。左手で剣を持つ人の、右足。いつもと、逆。だったら次は――
三手目。
ベルナルトが、一歩、前へ出た。
大きな体が壁のように迫ってくる。去年と同じだ。レオは横へ踏み替えようとした。後ろではなく、横。小石を三つ並べられて、覚えたこと。
踏み替えた足の先に、白い砂があった。
霜で白い砂。この練兵場の、この場所。柵の外。
母が、ここを通りかかったことがある。焦げた卵の匂いをかいで、歩きながら顔だけこっちへ向けて。次のお休みの日、中庭にいらっしゃい。袖に触れたらあなたの勝ち。
レオの手が止まった。
剣を持ったまま、止まった。受けることも、返すことも、できなかった。体のどこにも力が入らない。
ベルナルトの剣が、来なかった。
レオの胸の前で、木剣が止まっていた。そして、すっと引かれた。
ベルナルトは構えを変えていた。さっきまでレオの正面にあった剣先が、今は、レオの左の肩口のほうを向いている。打ちこむ場所を、変えたのだ。
そして、そのまま、待っていた。
打ってこない。下ろしもしない。剣先を左の肩口に向けたまま、霜の砂の上に立って、ただ、待っていた。
レオは息を吐いた。白い息が、二人のあいだに浮かんで、消えた。
剣先が左の肩口を向いている。そこへ来るなら、受けは、右へ流す。流したあとの足場は――
レオは自分で一合を選んだ。
ベルナルトの剣を待たずに、自分から、剣を出した。左の肩口へ来るはずの剣を、来る前に、迎えに行く。木剣と木剣がかつんと鳴った。受けた剣を、右へ流す。流した力に乗って、半歩、横へ。足の下に霜の砂がしゃりっと鳴った。
ベルナルトの剣が、止まった。
「……三手」
ベルナルトが言った。
「受けた剣を、右へ逃がしたな。逃がした先で、次の足場が決まった」
レオは木剣を握ったまま、うなずいた。
「来週も、来い」
ベルナルトは木剣を下ろした。
レオは、ベルナルトが剣を下ろすのを、初めて見た気がした。四手目はなかった。
*
それから、冬のあいだ、週に一度、練兵場へ通った。
ベルナルトの左手の剣は、週ごとに重くなった。レオの受けも週ごとに戻っていった。三手が、五手になり、七手になった。ベルナルトは、右の肩のことを一度も口にしなかった。レオも聞かなかった。
温室では、師匠と錆の点の記録を続けた。グレタの店から戻ってきた二枚目の皿には、縁のゆがみが直った代わりに、新しい小さな傷が一本ついていた。あの鳥の爪の跡だと、グレタは言い張った。
夕食は、フェリクスと小皿を分けるのが、そのまま続いていた。冬になって、胡瓜の代わりに、焼いた蕪が出るようになった。
春が来た。
春の一月十日。レオは十二歳になった。
誕生日の夕食の食卓は、去年より、少しだけ詰めて並べられていた。椅子が一つ減って、そのぶん、みんなの距離が近くなっていた。父の隣にマルグリット、その向かいにエドガーとユリウス。レオの隣に、今年は特別にフェリクスの席があった。
空いた席の場所に、何かを置こうか、とマルグリットは前の晩に聞いた。花でも母の皿でも。
レオは首を振った。
「詰めて並べて。そのほうが、パンを取りやすいから」
食卓の真ん中には、干し杏の焼き菓子が、山になって置いてあった。
「たくさん焼かせたの」マルグリットが言った。「兄弟喧嘩にならないくらい」
ユリウスがさっそく三つ取った。エドガーが、その手をぴしゃりと叩いた。
母の部屋の窓辺の鉢は、窓辺に残したままだった。温室へは移さなかった。毎日、レオが水をやっている。葉の先に、小さな赤い蕾が、一つだけついていた。
*
誕生日の翌日の午後、中庭に、セシリアが来た。
「手合わせ。誕生日のお祝いに、一本取らせてあげる」
「取らせて、あげる?」
「取れたらね」
セシリアは、木剣を肩にかついで、にやっと笑った。この冬、セイラン流の道場に通いはじめたのだと聞いていた。
構えた。
セシリアが打ちこんでくる。速い。レオは受けた。受けた剣を横へ流した。
流しすぎた。
セシリアの木剣が、レオの剣に弾かれて、手から離れて、中庭の石畳の端まで、からからと転がっていった。
「……あ」
セシリアは、転がっていった木剣を見て、次にレオを見た。
「今の、なに」
「ごめん。強すぎた」
「そうじゃなくて」
セシリアは木剣を拾いに行って、戻ってきた。
「さっきから、ずっとそう。私が何か仕掛けようとすると、仕掛ける前に、全部止めちゃう。剣を弾いて、遠くへやって、終わり」
「怪我、させたくないから」
「分かってる。レオがそういうのは、九つのときから知ってる」
セシリアは木剣を構え直した。
「でも、私、今日、試したい攻めがあるの。冬じゅう練習した、新しいの。それを最後まで、仕掛けさせて。止めるなら、仕掛けたあとで止めて」
レオはセシリアの顔を見た。
その目は真剣だった。冬じゅう練習した、と言った。レオが、ベルナルトの左手の剣を受けていたのと、同じ冬に。
「……分かった」
レオは構えた。
今度は待った。
セシリアが踏みこんでくる。上から。それを受ける前に、セシリアの剣が、途中で軌道を変えた。上から来ると見せて、横。横と見せて、下から。光が、剣の先に、ちかっと灯った。目くらましより、ずっと細かい。剣の動きの先を、光で一瞬だけ照らして、レオの目をそっちへ引きつける。
レオは受けた。
受けた剣を弾かなかった。右へ流した。流した先で、半歩、横へ。そこから、返す。
セシリアがレオの返しを受けた。受けて、返してきた。レオも受けて、返す。木剣と木剣が、中庭に、かつん、かつん、と響いた。
六合目で、セシリアの剣先が、レオの肩口に、とん、と触れた。
「……一本」
セシリアが息を切らしながら言った。
レオは、肩口に触れた木剣の先を見下ろした。
「取られた。……ねえ、今の最後の、光のやつ、なに? どうやったの?」
「取った。冬じゅう練習した、新しいの。教えたら、新しくなくなるでしょ」
セシリアは、木剣を下ろして、笑った。赤みがかった栗色の一本結びが、汗で額に張りついていた。
「レオが最後まで受けてくれたから、最後まで試せた」
レオは自分の手を見た。
受けて、返して、また受けて、返した。弾いて終わらせなかった。最後まで。
「もう一本」
「誕生日のお祝いは、一本だけって言ったでしょ」
「じゃあ、お祝いじゃない一本」
セシリアがぷっと吹き出した。
回廊の柱の陰で、フェリクスが、それを見ていた。その隣に、右腕を吊ったベルナルトが立っていた。
レオは二人のほうへ歩いていった。手合わせで熱くなった頬に、春の風が冷たかった。
「ねえ、三人に、相談があるんだけど」
レオは、セシリアと、フェリクスと、ベルナルトを順番に見た。
「師匠に聞いたんだ。王都の近くに、登録された小さな迷宮があるって。中に、水を通す苔が生えてるんだって。暗いところで、どうやって育ってるのか、見てみたい」
セシリアの目が、ほんの少し丸くなった。
「それに、今の術、外で試したい。温室とか、台の上じゃなくて。本物の、暗くて湿ったところで」
フェリクスが、腕を組んだ。
「……持ちこむ台なら、もっと軽くします。冬に削った分だけでは、まだ迷宮の階段は下りられませんから」
「行くなら、隊長は私だからね」
セシリアが間髪をいれずに言った。
「地図、描く。目印も、冬に考えたのがあるの」
ベルナルトはしばらく黙っていた。
それから、左手で、腰の小さな袋から、折りたたんだ紙を出した。近衛の地図だった。王都の周りの、丘と、森と、道。その中の一か所を、左の指で押さえた。
「日帰りで、ここまでだ」
眉が、ほんの少しだけ、動いた。
「朝に出て、日が沈む前に戻れるところまで。それより先は、俺の見える範囲じゃない」
レオは、ベルナルトの指の下の、小さな印を見た。
顔を上げると、セシリアもこっちを見ていた。フェリクスは、もう帳面を開いて、何か書きはじめていた。
「朝に出て、日が沈む前に戻る」
レオは繰り返して、手帳を開いた。母の札を挟んだ頁の、次の頁に、その一行を書いた。
セシリアが、地図をのぞきこんで、指で道をたどりはじめた。




