錆の点から始まる秋
温室の水盆に銅の小皿を三枚沈めた。
秋だった。硝子の天井から差しこむ日は、夏よりずっと低くて、棚の鉢植えの影が長く伸びている。レオは袖をまくって、水の中で小皿をこすっていた。
錆が台に移るのが嫌だった。
フェリクスが直してくれた鉄の台。十字の筋の上に、赤茶色の錆の輪じみがついてしまったら、たぶんもう落ちない。だから皿のほうを洗う。それだけのことだった。
布で縁をこする。赤茶色の点が、水に溶けて、薄くなっていく。
一枚目がきれいになった。
二枚目を手に取って、縁をこすりはじめたとき、レオの手が止まった。
錆と一緒に、何か別のものも落ちかけていた。皿の真ん中から縁へ向かって走る、細い、黒っぽい線。焦げた跡。
雷の跡だった。
去年の夏の終わり、母が中庭で見ていたあの日、この皿の上を、青白い光が渡った。その光が残していった、髪の毛ほどの細い焦げ。フェリクスと二人で、何度も写し取って、手帳に描いた線。
布の下で、その線の端が、もう半分消えかけていた。
「それは、洗わないほうがいい」
後ろで声がした。
オルウェン師匠が、温室の入り口に立っていた。
*
師匠は、水盆のそばにしゃがんで、三枚の皿を並べた。
一枚目は、もう錆も焦げも落ちて、ぴかぴかだった。二枚目は焦げの線が半分。三枚目は、まだ手をつけていない。錆の点が縁にぽつぽつと浮いて、真ん中には、焦げの線がはっきり残っている。
「この三枚目は、残しておこう」
師匠は、三枚目を持ち上げて、日に透かすように傾けた。
「記録だからね。焦げの線も錆の点も。洗ったら、もう戻らない」
「……錆も?」
「錆も」
レオは三枚目の皿を受け取った。
縁の錆の点を、よく見た。部屋の隅で見たときと同じだった。点は、縁の片側にだけ、寄っている。焦げの線の、外側の端。雷の熱の道を開いていた、そっちの側にだけ。
レオは、二枚目の皿を、水盆の縁に置いた。
焦げが半分、錆がまばらに残っている皿。
手が勝手に動いていた。水盆の湯気を、少しだけ上げる。風でくるむ。皿の上に手のひらほどの雲。底を、冷やす。
ぽつ、ぽつ。
三粒、四粒の雨が、二枚目の皿に落ちた。
皿の上に水滴が散らばった。散らばって、ゆっくりと、動いた。
錆の点のほうへ。
レオは息を止めた。
錆の点の一つ一つに、水滴が吸い寄せられるように集まっていく。錆のない、きれいな面に落ちた水滴は、つるりと滑って、錆のある縁のほうへ転がっていった。
「なんで」
声が出た。
「なんで、錆のほうに寄るの。錆が、水を吸うから? でも、錆がなくても、前は片側に寄ってた。ほどいたあとの流れが――」
そこまで言って、レオは口を閉じた。
胸の中で、何かがぱちっと弾けかけていた。知ってる感じだった。鉢の縁を青い光が走ったとき。霜晶の三つの杯が、順番に満ちたとき。皿の端へ水滴が寄っていったとき。
面白い。
その言葉が頭に浮かんだとたん、レオの手が、冷たくなった。
母が死んでまだ半年もたっていない。母の部屋の窓辺の鉢は、レオが毎日水をやっている。夜になると、まだときどき眠れない。それなのに、自分は今、皿の上の水滴を見て、面白いと思った。
レオは皿から目をそらした。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「なんでもない」
師匠は黙っていた。
母上なら喜ぶよ。お母上も、きっとそれを望んでいる。葬儀のあと、そういうことを言う大人はたくさんいた。レオはそのたびに、母が、知らない誰かの口の中で、知らない言葉をしゃべらされているような気がした。師匠の口からは、その手の言葉は一つも出てこない。
師匠は水盆の縁に腰を下ろした。
二枚目の皿の、錆の点に集まった水滴を、のぞきこんだ。
「私も、見たいな」
ぽつりと言った。
「錆があると寄るのか、錆がなくても寄るのか。私にも分からない。君が見ないなら、私が一人で見ることになる。それは、ちょっとつまらない」
そう言ったきり、師匠は黙った。
黙って、待っていた。急かしもせず、帰りもせず。皿の上の水滴と、レオとを、ただ、同じくらいの時間をかけて見ていた。
温室の硝子の向こうで、風が鳴った。
レオは皿に目を戻した。
一枚目の、錆も焦げも落ちた、ぴかぴかの皿を、水盆の縁に並べた。
「条件、一つだけ変える」
唾を一つ飲みこんで、続けた。
「錆のない皿に、同じ雨を降らせる」
同じ雲。同じ三粒、四粒。
一枚目の皿の上で、水滴は、寄らなかった。つるりと滑って、皿の真ん中の、いちばん低いところに、一つにまとまって止まった。
「……錆のない面だと、滑る」
「滑るね」
「錆があると、そこで止まる。止まって、集まる」
レオは手帳を開いた。
去年から使っている手帳だった。母が死んでから、一度も開いていなかった。新しい手帳にしようかと思ったこともあった。でも、新しい手帳の一頁目に何を書けばいいのか分からなくて、結局、どちらも開かなかった。
前の頁の続きに、書いた。
――錆の点。片側に寄る。焦げの線の外側。水滴は錆に集まる。錆なしは、滑る。
書き終えて、レオは筆を置いた。
師匠が立ち上がった。
「三橋の図のことは、陛下から聞いたね」
「……うん」
「私からも、一度だけ言っておく」
師匠は、レオの頭に、手をのせた。
「ありがとう。右の岸の人たちは、君の図で、舟に乗れた」
それだけ言って、師匠は温室を出ていった。
*
晩秋、レオとフェリクスは、二枚目の皿を持って、東市場へ行った。
焦げの線が半分消えてしまった皿の、縁がゆがんでいた。強くこすりすぎたせいだ。直すなら、銅細工師のグレタの店しかない。九つの春に皿を買いに来た店だった。
店の前には、相変わらず、銅の皿や鍋がうずたかく積んであった。前はいなかったものも、一羽。
店先の止まり木に、黒くてつやつやした鳥が止まっていた。頭のてっぺんだけ、羽が白い。
「新入りだよ」
グレタが奥から顔を出した。
「どっかの飼い主が手放したのを、拾ってね。光るものが好きで、銅の店にはお似合いだろ」
グレタは皿を受け取って、縁のゆがみを指でなぞった。
「三日で直る。代金は――」
グレタが皿に値札をつけようとした。小さな木の札に、紐がついたもの。
その札を鳥がくわえた。
あっという間だった。止まり木から首を伸ばして、グレタの指先から札をひったくり、ばさっと飛び上がって、店の屋根の上へ。
「こら! 返しな!」
鳥は、屋根の端で、くわえた札を得意げに振り回した。紐がぶらぶら揺れる。グレタが箒を振り上げると、鳥は札をくわえたまま、隣の店の屋根へ跳び移った。グレタが隣の店の前へ回る。鳥はまた元の屋根へ戻る。
「あんた、今月それで七枚目だよ! うちの値札は、あんたのおもちゃじゃないんだからね!」
鳥は、札を屋根の上にぽとりと落とした。
それから、もっと光るものを見つけたらしく、グレタの頭の、銅の髪留めのほうへ、首をかしげた。
「……来たら、焼き鳥にするよ」
グレタが箒を構えた。
鳥がこてんと首をかしげた。
レオは吹き出した。
声が出ていた。腹の底から、笑いがこみ上げてきて、止まらなかった。グレタと鳥のにらみ合いがおかしくて、屋根の上の値札がおかしくて、箒を構えたまま首をかしげ返したグレタがおかしかった。
笑いながら、レオは、横を向いた。
「フェリクス、見た? 今の、母上にも――」
そこで止まった。
母上にも見せたかった。
言葉は口の中で途切れた。笑い声も、一緒に途切れた。
市場の音が急に戻ってきた。荷車の車輪。呼びこみの声。どこかの子どもの泣き声。レオは、笑った顔のまま、口を閉じた。笑いが、顔から少しずつ引いていった。
フェリクスは何も言わなかった。
大丈夫ですか、とも、笑っていいんですよ、とも。ただ、レオの隣に、立っていた。
グレタが、屋根から値札を取り戻して、皿に結びつけた。引換札を一枚、レオの手に渡した。
「三日後においで。鳥もそれまでにしつけとくから。たぶん無理だけど」
帰り道、二人とも、ほとんどしゃべらなかった。
市場から王宮までの道を、並んで歩いた。秋の終わりの日が、もう傾きかけていた。
でも、さっき笑ったことは、ちゃんと起きたことだった。笑って、途中で止まって、黙った。その全部が。皿を直しに出した、ということも。
王宮の門の前で、フェリクスがぽつりと言った。
「あの鳥、銅貨は盗らないんでしょうか」
「盗りそう。もう何枚か、どこかに隠してそう」
「だとしたら、うちの実験費の帳面は、あの店の近くでは開けません」
レオは、少しだけ、笑った。
その夜、レオは、母の部屋の窓辺にいた。
紅鈴草の鉢に、水をやる。普通の水やりだった。それから、鉢の横に置いてある、小さな帳面を開いた。
夏から、つけている帳面だった。鉢の世話帳。何日に水をやったか。葉の色。土の乾き具合。母がいなくなってから、毎日、レオがつけている。
今日の日付の下に、鳥の絵を描いた。
黒くて、頭のてっぺんだけ白い鳥が、値札をくわえて、屋根の上で得意げにしている絵。
グレタの引換札も、その頁に挟んだ。三日後、これを持って皿を取りに行く。
帳面を閉じようとしたとき、扉が叩かれた。
エマが、小さな紙を一枚持って立っていた。
「ベルナルト様から、殿下へ」
前の四角い、小さな字とは違う。まっすぐな線が一本も引けていない、曲がった字だった。それでも、一画も崩さないように書こうとしている字。
――冬。三手。左で。来い。
それだけだった。




