残す場所、来ない日の地図
マルグリットは、母の部屋の扉の前で、一度立ち止まった。
それから、ノックをした。中に誰もいないと分かっている部屋の扉を、こん、こん、と二回。返事を待つように少し間をおいてから、扉を開けた。
「入るわね、イレーネ」
レオは、廊下で、その声を聞いていた。
部屋の中は葬儀の日のままだった。
寝台の上の、袖の短い赤い服。机の椅子の背の、外套。開いたままの予定帳。窓辺の鉢。花瓶の花は、もう首を垂れて、茶色くなりかけていた。
「全部、このままにしたい」
レオは部屋の入り口で言った。
「何も動かさないで。母上が置いたとおりに」
「そうね。そうしたいわよね」
マルグリットはうなずいた。窓辺へ歩いていって、花瓶の水をのぞきこんだ。濁っていた。
「でもね、レオ。このお花の水は、替えないと、においが出るの。寝台の敷布も、洗わないと、虫がつく。窓を開けて風を通さないと、本がかびる」
マルグリットは、花瓶から枯れかけた花を一本抜いて、手のひらにのせた。
「このままにしておきたいなら、誰かが触らなきゃいけない。触らないでいると、部屋のほうが、勝手に変わっていってしまうの」
レオは何も言えなかった。
マルグリットは、花を花瓶に戻して、レオのほうへ向き直った。
「私は、イレーネの代わりにはなれないわ。なるつもりもないの。あの人みたいに、剣を持って谷へ行くこともできないし、袖の勝負もできない」
第一妃は少しだけ笑った。
「でも、この部屋のことなら、一緒に考えられる。机の上で分けましょう。家族が持っていたいものと、軍のお仕事で要るものと。分けるだけ。捨てるんじゃないわ」
*
机の上に、母の持ち物が少しずつ並べられていった。
軍の書類の束。近衛の調練の予定表。手紙。髪留め。干し杏の焼き菓子の、空の箱。
扉が叩かれて、父が入ってきた。
「予定帳を、借りていく」
父が机の上に手を伸ばしたとき、レオの体が勝手に動いた。予定帳を両手で押さえていた。
「だめ」
「レオ」
「これは、母上の。母上の字で来週のことが書いてある。袖の勝負とか、雨のこととか」
「分かっている」
父は手を引かなかった。でも、無理に取ろうともしなかった。
「この中には、近衛の調練の予定と、北の詰所とのやりとりも書いてある。それは、ベルナルトの隊に引き継がなければならない。誰が、いつ、どこへ行く予定だったのか」
父は、予定帳の上に置かれたレオの手を、見下ろした。
「軍務の頁だけ、写す。写したら、すぐ返す。お前が持っていなさい」
「……全部、返してくれる?」
「一枚も抜かない」
レオはゆっくり手を離した。
父は予定帳を手に取り、扉のところで一度振り返った。
「今夜には、戻す」
その夜、予定帳は本当に戻ってきた。表紙の裏に、父の字で小さく「軍務頁、写し済み」とだけ書いてあった。
エマが遠慮がちに口を開いた。
「殿下。お掃除のことですが……どこまで、触ってよろしいでしょうか」
レオは部屋を見回した。
寝台。机。本棚。窓辺。どこも母が触ったところだった。どこにも、触ってほしくなかった。でも、マルグリットの手のひらの上の、枯れかけた花のことを思い出した。
「窓辺は」
レオは言った。
「鉢のまわりは、僕が掃除する。水も僕がやる。ほかは、エマに頼む」
「承知しました」
エマが少しほっとした顔をした。
*
「何か一つ、手元に置きたいものはある?」
マルグリットが聞いた。
エドガーが、部屋の隅の剣掛けを指さした。母の剣。柄に赤く染めた革が巻いてある。谷から、ベルナルトが持ち帰ってきたものだった。
「あれは、レオが持つべきだと思う」
レオは剣を見た。
ヴァルディス流の守護剣聖の剣。たぶん、ルーデンでいちばん強い剣の一本だった。
「……あれは、ベルナルトに点検してもらって、武器庫にしまって」
エドガーが少し驚いた顔をした。
「いいのか」
「僕が持っても、母上の剣は使えない。母上の受けの角度は、母上の腕の長さで決まってるから」
レオは剣から目をそらした。
「それに、剣を持ったら、僕、それを振れば母上みたいになれるって、思っちゃいそうだから」
エドガーは何も言わずにうなずいた。
レオが選んだのは、窓辺の鉢に下がった、小さな木の札だった。
――帰った日の夕方。窓辺。一番。
――雨は小さいのでいいわ。
紐をほどいて、札を手のひらにのせた。軽かった。指先ほどの重さしかない。
「それでいいの?」
「うん。これ、僕あての予約だから」
レオは札を、自分の手帳の、いちばん新しい頁に挟んだ。
机の上には、まだたくさんのものが残っていた。手紙の束、髪留め、本。どれを持っていたいのか、どれを誰かに渡したいのか、レオには決められなかった。
「決められないものは、ここに置いておきましょう」
マルグリットは、決まらなかったものを、そっと机の引き出しにしまった。
「また今度、一緒に開けましょう。急がないわ」
引き出しの奥から、一枚の紙が出てきたのは、そのときだった。
軍の書類の束の下に、はさまっていた紙。青い蝋で封をした跡があって、そこに、本と星の紋が押してある。
見覚えがあった。春の終わりに、母が「まだ内緒。予約札みたいなもの」と言って、書類の下に押しこんだ紙だった。
レオは紙を手に取った。
いちばん上に、大きな字で、何か書いてある。どこかの都市の名前と、「公開研究会」という字。真ん中あたりに、いくつかの区分があって、その一つに、母の字で丸がつけてあった。「少年少女の部」。
丸の横の余白に、母の、大きくて右上がりの字があった。
――レオと。十二の夏?
レオは、紙を持ったまま、動けなくなった。
十二の夏。来年の夏だ。母は、来年の夏の予定まで、書いていた。どこかの都市の研究会へ、レオと一緒に。予約札みたいなもの。内緒だったもの。
そこから先の字が、読めなかった。目が字の上を滑っていく。都市の名前も、研究会が何をするところなのかも、頭に入ってこない。
レオは紙を差し出した。誰にというわけでもなく、ただ、手の中から離したかった。
受け取ったのは、フェリクスだった。荷物運びを手伝いに来て、ずっと部屋の隅に立っていた。
「預かります」
フェリクスは紙を丁寧にたたんだ。封の跡が、外側になるように。
「開けたくなったら、言ってください。それまで私の帳面に挟んでおきます。濡らしたり、焦がしたりはしません。……卵とは、別の場所に置きます」
レオは、少しだけ、うなずいた。
*
夏が来た。
セシリアは、四日に一度くらい、王宮へ来た。
ベルナルトは家で肩の療養をしていて、セシリアは、その世話と、自分の剣の稽古の合間に来るのだった。来ると、レオの部屋の窓辺に座って、いろんな話をした。
市場で見た大きな魚の話。剣の稽古で先生のかつらがずれた話。
レオは聞いていた。うなずいた。
でも笑わなかった。
セシリアの話は、だんだん短くなっていった。四回目に来た日には、魚の話を始めて、途中でやめてしまった。窓辺に座ったまま、膝の上で指を組んだりほどいたりして、何を話せばいいのか分からないという顔をしていた。
帰りぎわ、セシリアが扉のところで振り向いたとき、レオは言った。
「明日も、来て」
セシリアの顔が、ぱっと上がった。
「うん、行く――」
言いかけて、口を閉じた。
しばらく黙ってから、窓辺の机の紙を一枚取って、何か書いた。
「明日は、無理。父上の包帯を替える日で、私が替えないと、父上、自分で片手でやろうとして、ぐちゃぐちゃにするから」
紙をレオの手に押しつけた。
――四日後。お昼。かならず。
「できない約束は、しない。でも、これは、できる約束だから」
セシリアは、そう言って、走っていった。
断られた、と最初は聞こえた。胸の中がすうっと冷たくなりかけた。でも、紙には「かならず」と書いてあった。
四日後のお昼、セシリアは来た。
来るなり、窓辺の机に紙を広げた。地図だった。セシリアの家から、王宮までの道。
「来る途中で、変わってたとこ、描いてきた」
パン屋の前の、新しい柵。広場の噴水の、欠けた縁。三番街の角の家の、屋根の上に、猫がいつも寝ているところ。
「この猫、四日前はいなかったの。今日はいた。たぶん、日の当たる場所が、季節で変わってるんだと思う」
レオは地図をのぞきこんだ。
それから、窓の外を見た。王宮の窓からは、城下の屋根がたくさん見える。
「その猫の家、あれでしょ。あの、煙突が二本ある」
「え、見えるの?」
「見える。屋根の向こう側に、もう一軒、同じ形の屋根がある。そっちにも、たまに何か乗ってる」
レオは、セシリアの地図の端に、屋根を一つ描き足した。煙突が二本の家の、向こう側の屋根。
セシリアは、レオの描いた屋根を、じっと見ていた。
「……次、来るまでに、そっちの屋根も見ておいて。何が乗ってたか、教えて」
「分かった。何も乗ってなかったら、『なし』って書いとく」
セシリアの地図は、そのあと来るたびに、少しずつ大きくなっていった。
*
食事のほうはフェリクスが変えた。
葬儀のあと、厨房は、レオに何か食べさせようとして、毎回大皿に山盛りの料理を運んできた。食べられないまま皿が下げられると、次はもっと豪華な皿が来た。
ある日、フェリクスは、厨房へ行って、料理番と長いこと話しこんで戻ってきた。
その日の昼、レオの前に来たのは、小さな皿が五つだった。
冷やした杏が二切れ。薄く切った胡瓜の塩もみ。麦の粥がひと匙。焼いたパンの端。白いチーズのかけら。
どれも、ひと口かふた口で終わる量だった。
「食べられそうなのだけで、いいそうです」
フェリクスは、それだけ言って、自分は脇に立っていた。
レオは五つの皿を見た。
胡瓜の皿に手を伸ばした。ひと切れ、口に入れた。冷たくて、塩の味がした。もうひと切れ。皿が空になった。
フェリクスは何も言わずに、空になった皿を下げた。
次の日、レオは料理番に、自分で頼んだ。
「胡瓜の、もう一皿。フェリクスの分」
その日から、フェリクスはレオの脇に立つのをやめて、同じ卓に座るようになった。小さな皿を、二人で、ひと口ずつ。何皿食べたか、フェリクスは帳面につけなかった。
フェリクスは、ほかにも一つ、黙ってしたことがあった。
夏の終わりのある日、レオの部屋の隅に、見覚えのある鉄の台が置かれていた。
十字に鉄の筋を重ねた台。側面に、「小皿一枚まで」と彫ってある。雷の実験に使っていた台だった。脚の留め具がゆるんでいたのを、フェリクスが直して、ここへ運んだらしい。台の上には、銅の小皿が三枚、重ねて置いてあった。
何の説明もないまま、台は部屋の隅に、ただ置いてあった。
その日、セシリアが帰ったあと、レオは窓辺の机で、セシリアの地図を広げていた。
窓から風が入って、地図の端がめくれた。
何か、重しが欲しかった。レオは、手近にあったものに手を伸ばした。部屋の隅の台の上の、銅の小皿。一枚取って、地図の端にのせた。
手を離そうとして、止まった。
小皿の縁に、小さな点が、いくつも浮いていた。
赤茶色の、ぽつぽつした点。錆だった。夏のあいだ、誰も使わないまま、湿った部屋の隅に置かれていたせいだ。
その点の並び方が、おかしかった。
縁の片側にだけ、寄っている。




