外套を受け取る
「――王妃は、民のため、喜んでその命を捧げ」
宰相の声がそこで止まった。
国葬の朝だった。執務室の窓から、まだ低い日が差しこんでいる。宰相は追悼の文を読み上げる練習をしていて、父とマルグリットと兄たちと、レオが、それを聞いていた。
止まったのは、レオが立ち上がったからだった。
椅子が、床にこすれて大きな音を立てた。部屋じゅうの目が、こちらを向いた。レオは、自分がなぜ立ったのか、すぐには分からなかった。ただ、聞いていられなかった。
「喜んで、じゃない」
声が出た。
「母上は、喜んでなんか、いない。帰るつもりだった。服を出させてた。袖の短いほう。予定帳に来週のことまで書いてた。綱を引いて、隙間へ向かって、右足を前に出してた」
喉が詰まった。それでも、言った。
「捧げたんじゃない。帰ろうとしてたんだ」
宰相は困った顔で父を見た。
「殿下、こうした文は、国の慣わしとして――」
父が手を伸ばした。
宰相の手から追悼の文を取り、机の上に広げた。筆を取ってインクに浸し、「喜んでその命を捧げ」の一行にまっすぐ線を引いた。
その横の余白に、父は書いた。
――八十六人を逃がし、自らも帰ろうとして、果たせなかった。
「これで読んでくれ」
父は文を宰相に返した。
「慣わしより、事実のほうがいい。イレーネは、そういうのを好んだ」
宰相はしばらく紙を見つめてから、深く頭を下げた。
*
王宮の大広間は、黒い布で覆われていた。
正面に、棺が十四、並んでいた。
母の棺も、ほかと同じだった。十四の棺は、同じ大きさで、同じ黒い布をかけられ、同じ間隔で並んでいた。それぞれの棺の前に、白い花が一束ずつ。父がそう決めたのだと聞いた。
宰相が名前を読み上げはじめた。
「北街道関所守備隊、伍長ハラルト」
「同、兵ノルベルト」
「同、兵クヌート」
北の関所を守っていて、橋を落とされたときに亡くなった七人だった。レオは、その名前を一つも知らなかった。知らなかった人たちの名前が、一つずつ、大広間の高い天井に吸いこまれていった。
「近衛第二隊、副長ヨアヒム」
灰色のひげの副長。報告書にその名前があった。
「同、兵マレン」
「同、兵フロリアン」
十九歳、と報告書の端に書いてあった。
「同、兵ローレンツ。同、兵ハインツ。同、兵クラウス」
十三の名前が読み上げられた。
それから、最後に。
「近衛第二隊、隊長。第二妃、イレーネ」
母の名前は十四番目だった。
部下の名前を全部読み終えてから、最後に隊長の名前を読む。近衛の慣わしだと、ベルナルトが前に言っていた。隊長は、いちばん後ろを歩いて、いちばん後ろから帰る者だから。
レオは、十四の棺を、端から端まで見た。
みんな、帰るつもりだった。
*
儀式が終わると、参列者の列が、王族の前を通っていった。
レオは父の隣に立って、一人ずつに礼をした。貴族、騎士、商人、近衛の家族。泣いている人も、泣いていない人もいた。みんな、同じようなことを言った。お悔やみを。尊い犠牲を。王妃様は民の誇りです。
レオは礼をした。礼をして、礼をして、礼をした。
尊い犠牲。誇り。その言葉を聞くたびに、母が、少しずつ遠くへ運ばれていくような気がした。袖の短い服を出させて、予定帳に来週のことを書いて、漬物が酸っぱいと札に書いた人が、どこか高いところへ飾られて、手の届かないものになっていく。
列の後ろのほうに、灰色の粉がまだ取れきらない人たちが並んでいた。
灰冠の採掘民だった。
レオは、自分の手が、ぎゅっと握られていくのを感じた。
あの人たちが、いなければ。
母は、あの人たちを逃がすために、谷へ行った。いちばん後ろを歩いた。あの人たちが全員出たあとで、自分の番が来た。そして、来なかった。
顔を見たくなかった。礼をしたくなかった。今すぐこの場から離れて、どこか誰もいないところへ――
父の手が、レオの背中に、そっと置かれた。
押したのではなかった。止めたのでもなかった。ただ、置かれていた。
「下がりたければ、下がっていい」
父は、前を向いたまま、小さな声で言った。
「英雄の家族らしくしろとは、言わない」
レオは動けなかった。下がることも、前に出ることもできないまま、立っていた。
採掘民の列がレオの前まで来た。
先頭はゴードだった。灰色の粉まみれだった大男は、借りものらしい黒い上着を窮屈そうに着て、帽子を両手で握りつぶしていた。
「殿下」
ゴードは、それだけ言って、深く、深く頭を下げた。頭を上げなかった。そのまま、大きな背中が震えていた。
その脇から、小さな影が前に出た。
ピアだった。
両腕に何かを抱えていた。たたんだ布。濃い色の、大人の外套だった。裾が、一度折り返して縫いとめてある。肩のところに、近衛の紋の小さな刺繍がある。
レオはその外套を知っていた。
母が、朝の調練に出るときに、稽古着の上に羽織っていたものだ。
「返すって、言ったの」
ピアは、外套を、レオのほうへ差し出した。
「谷を出たら、返してねって。お妃さまの、お気に入りだからって。だから、返しにきた」
ピアの目は乾いていた。ただ、外套を差し出す腕が、ずっと前に伸びたまま、下ろされなかった。
「お妃さまに、返せなかったから。殿下に、返す」
レオは外套を見た。
受け取りたくなかった。受け取ったら、何かを認めることになる気がした。この子が助かったことと、母が帰らなかったことが、一本の糸でつながってしまう気がした。
でも、ピアの腕は、下りなかった。
レオは手を伸ばした。
外套は重かった。思っていたよりずっと。濡れて、乾いて、また濡れて、乾いたらしく、布が少しごわごわしていた。母の匂いはもうしなかった。かすかに、石の粉と、酸っぱい漬物の匂いがした。
「……ありがとう」
自分の口から出た言葉に、レオは驚いた。
「ちゃんと、返してくれて」
ピアはこくんとうなずくと、ゴードの上着の裾をつかんで、父親の後ろに隠れた。
腕の中の外套の重さは、母が死んだことを、少しも軽くしなかった。ピアが生きていることも、少しも重くしなかった。二つは、同じ腕の中で、別々の重さのまま、そこにあった。
*
葬儀が終わっても、レオは食べられなかった。
夕食の席で、スープの皿の前に座って、匙を持ったまま、一度も口に運ばなかった。マルグリットが何か言いかけて、やめた。エドガーが、自分の皿のパンを一つ、黙ってレオの皿の横に置いた。ユリウスはずっと窓の外を見ていた。
食卓の、母の席が、空いていた。
夜になっても眠れなかった。寝台に横になって、天井を見て、それから起き上がった。
椅子の背に母の外套がかけてあった。
レオは外套を両腕に抱えて、部屋を出た。暗い廊下を歩いて、母の部屋へ行った。
扉は開いていた。寝台の上の、袖の短い服は、まだそこにあった。エマは片づけられなかったのだ。
レオは、母の机の椅子の背に、外套をかけた。
そこが、母がいつも軍装の上着をかけていた場所だった。窓辺で雨を見るとき、母は上着を椅子の背にかけたまま、髪をほどいていた。
外套のしわを手で伸ばした。裾の折り返しの縫い目を、指でなぞった。ピアが、谷を出るまでずっと着ていたぶんの、しわ。
背中で扉が小さく鳴った。
エマだった。燭台を持って、廊下に立っていた。
「殿下。……窓辺の鉢は、どういたしましょう。温室へ、移したほうがよろしいでしょうか。ここは、お部屋を閉めると、日が足りなくなりますので」
レオは窓辺を見た。
紅鈴草の鉢。縁に下がった、小さな木の札。
移せば、札はどうなるのか。外すのか。つけたまま温室へ持っていくのか。温室の棚に、母の字の札が下がっているのを想像した。それから、窓辺に何もなくなった母の部屋を想像した。
どちらも選べなかった。
「……今日は、このままで」
「はい」
エマはうなずき、少しためらってから言った。
「マルグリット様が、明日の午後、お部屋のことで、殿下とお話ししたいと。……殿下の決めたいように、と、おっしゃっておいででした」




