朝に届いた経緯
目を開けると、自分の部屋の天井だった。
レオは寝台の上で、しばらく動かなかった。伝令の間にいたはずだった。作業台の椅子で、札を乾かしていたはずだった。いつ寝たのか、覚えていない。どうやってここまで来たのかも。
手の中に何か握っていた。
札だった。四角くて小さい、一画も崩していない字。
――イレーネ様と兵六名、綱にて脱出中。
握りしめていたせいで、板の角が手のひらに赤い跡をつけていた。
レオは跳ね起きた。窓の外はもう明るい。母の札が、来ているかもしれない。谷を出た、と書いてある札。伝令の間の壁の、いちばん上に留めなければいけない。
扉を開けると、廊下にフェリクスが立っていた。
「おはようございます」
「なんで起こさなかったの! 札、来た? 母上の――」
フェリクスの顔を見て、レオは言葉を止めた。
目が赤かった。まぶたが腫れていた。いつもきちんと留めている上着の襟が、一つずれていた。
「陛下が、お呼びです」
フェリクスは言った。
「執務室で、お待ちです」
*
父の執務室には、父しかいなかった。
机の上の地図は、片づけられていた。代わりに、紙の束が一つ、置いてあった。封蝋が割られている。
父は机の向こうで立ち上がり、机を回って、レオの前まで来た。そして、膝をついた。レオと目の高さが同じになるように。
父がそんなことをするのは、レオが覚えているかぎり、初めてだった。
「レオ」
父は言った。
「イレーネが、死んだ」
部屋の中の音が、全部遠くなった。
レオは父の顔を見ていた。父の口が動いたのを見ていた。言葉は聞こえた。聞こえたけれど、どこにも入っていかなかった。
「……でも」
自分の声がずいぶん遠くから聞こえた。
「でも、脱出中って。綱で。ベルナルトの字で、書いてあった」
レオは、握りしめていた札を差し出した。
「帰りが、遅れてるだけでしょう。脚を怪我したって、前の札に。だから、遅いんだよ。運ばれる側に回ったから。担架で、ゆっくり――」
「その札は、十時四十五分に書かれた」
父は札を受け取らなかった。レオの手ごと、自分の両手で包んだ。
「その少しあとに、上の岩が崩れた。イレーネと兵六人が、岩の内側に残された。ゆうべ遅くに速報が届いた。夕方の十八時十分に、ベルナルトと治療官が、本人を確かめた」
父は、机の上の紙の束に、目を向けた。
「今朝、正式な報告が届いた。何が、何時に、どう起きたか。全部、書いてある。お前に、それを見せる」
「マルグリット母上は」
「ゆうべ、話した。エドガーとユリウスにも」
「なんで、僕には」
「確かめた者の名前と、何が起きたかの順番が、全部そろってから、私の口から言いたかった」
父の手が、レオの手を包んだまま、少しだけ強くなった。
「噂や、遅れて届く札から、お前が知る前に」
*
報告書は二つの字で書かれていた。
前半は谷の北の詰所の書記の字。八時の爆破。九時二十分の、第一退路の崩落。南旧道への変更。九時四十分、隊長負傷。左脚、わき腹。
後半の字はひどく曲がっていた。
まっすぐな線が、一本もない。字の大きさもそろっていない。でも、レオにはその字が誰のものか分かった。四角くて、小さくて、一画も崩さないように書こうとしている。崩れてしまっているのに、最後まで、崩さないように書こうとしている。
ベルナルトの字だった。左手で書いた、ベルナルトの字。
――十時、南避難口に到着。交代を試みるも、術の性質上不可。外より掘削し、二つの道をつなぐ。
――十時四十五分、民間八十六名、全員退避。最後の一名は採掘頭ゴード。
――同時刻、イレーネ様、綱の合図により脱出を開始。
――直後、上段の支持層が崩落。イレーネ様と兵六名、岩塊の内側に。
――イレーネ様、岩塊の隙間より合図。残る隙間へ向かうとの声を確認。
――十時五十二分ごろ、谷の支持層全体が沈下。
――十八時十分、確認。七名とも、隙間の方向を向き、綱で互いをつないでいた。イレーネ様は最後尾。右足を一歩、前に。
レオはその一行を読んだ。
右足を一歩、前に。
「……帰ろうと、してたんだ」
「そうだ」
父は言った。
「最後まで、帰ろうとしていた。民を全部出して、自分の番だと言って、綱を引いた。岩が落ちたあとも、別の隙間へ向かった」
レオは報告書を机に置いた。
指が、紙の端から離れなかった。
「雷で」
言葉が勝手に出てきた。
「雷で、もっと速く行けたら。僕がもっと強かったら。速く走れて、岩を砕けて、谷まで――」
「王宮から谷までは、早馬で六時間だ」
父は、いつもどおりの落ち着いた調子で、一つずつ並べた。
「お前が昨日の朝ここを出ていても、着くのは昼過ぎだった。オルウェンは三橋から急いで、十五時十五分に着いた。イレーネが脚を折ったのは九時四十分。岩が崩れたのは十時四十五分。そのとき、上の層は、もう落ちはじめていた。オルウェンは、自分がそこにいても、同じ岩の下に立っていただけだと言っている」
「でも」
「それに、オルウェンが三橋を離れていたら、三橋の右の岸の人たちが、どうなっていたか」
父は、報告書の束の、いちばん下の紙を抜いて、レオに見せた。三橋の拠点から来た札の写しだった。
――右岸の住民、夜明けに舟で避難。水位上昇の前に完了。賢者の指示により順番を変更。水の流れ図による。
「お前の図だ」
レオはその写しを見た。見たけれど、字が、うまく読めなかった。
「イレーネが死んだのは、お前が遅かったからではない。お前が弱かったからでもない」
父はレオの肩に手を置いた。
「北隧道の下の層は、水を含んでいた。それを知らずに、あるいは知っていて、爆破を命じた者がいる。そこはまだ調べている。分かっていないことを、分かったことと混ぜて話すつもりはない。だが、それはお前の速さの話ではない」
レオは何も言えなかった。
父の手が肩に置かれたまま、ずいぶん長いあいだ、二人とも動かなかった。
*
母の部屋の扉は、開いていた。
寝台の上に服がたたんで置いてあった。袖の短い、紅鈴草みたいな赤い色のふだん着。帰った日に着るから、出しておいて。エマは言われたとおりにしていた。
エマは、部屋の隅の椅子に座っていた。レオが入ってくると、立ち上がりかけて、また座った。何か言おうとして、言えずに、両手で顔を覆った。
机の上に、母の予定帳が開いたままになっていた。
昨日の日付の頁。大きくて、右上がりで、ところどころはねる字。
――灰冠。
その下に今日の日付。
――夕方、帰着(予定)。窓辺。レオの雨、小さいの。
その下に来週の日付。
――袖の勝負、つづき。左を守る。
さらにその下にも、字はあった。来月の日付。何か所か。何か書いてある。レオはそこから先を、読めなかった。
窓辺に紅鈴草の鉢があった。
鉢の縁に、小さな木の札が下がっている。昨日の朝、紐の結び目を固くした札。
――帰った日の夕方。窓辺。一番。
――雨は小さいのでいいわ。
レオは窓辺に立った。
手をかざせば、降らせられる。小さい雨。湯気を上げて、風でくるんで、底を冷やして。ぱた、ぱたた。この子も上から濡れるのは初めてよ。
手をかざさなかった。
廊下の水差しを取ってきて、鉢の根元に、そっと水をやった。普通の水やりだった。土が水を吸って、色が濃くなった。
夕方はまだ来ていなかった。
――帰った日の夕方。
その日は、もう、来ない。
レオは札を外さなかった。鉢の前に、しゃがみこんだ。膝を抱えた。それから、エマが部屋の隅で声を殺して泣いているのを背中に聞きながら、自分も、声を出さずに、長いあいだそこにいた。
執務室の前を通りかかったのは、昼を過ぎてからだった。
扉が細く開いていた。中で、父が机に向かっていた。机の上の報告書に、片手をのせていた。
もう一方の手で、顔を覆っていた。
肩が震えていた。
レオは扉に手をかけないまま、その場にしばらく立っていた。それから、足音を立てないように、廊下を戻った。
廊下の窓の外で、王宮の旗が、半分の高さまで下ろされていくところだった。




