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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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25/43

夕方の確認、夜の控え

十五時十五分。

 オルウェンが谷の南の斜面にたどり着いたとき、馬はもう、汗で黒く濡れていた。

 東回りの古い道は、三か所で崩れていた。倒れた木を二度どけ、崖崩れの手前で馬を降りて歩き、途中の村では、屋根の落ちた家から年寄りを一人引っぱり出した。三時間の道に五時間近くかかった。

 斜面の上から、谷が見えた。

 谷の底が沈んでいた。

 川が流れていたはずの場所は、灰色の泥の平らになっていた。家々の屋根が、斜めに傾いて泥に埋まっている。北の崖の中腹にあったはずの古い坑道の口は、もうどこにもない。

 斜面の中ほど、古い採掘路の出口のところで、近衛の兵たちがつるはしを振るっていた。そのまんなかに、右腕を布で胴に縛りつけた大男が、左手を岩に当てて立っていた。

「ベルナルト」

 オルウェンが呼ぶと、ベルナルトは岩から手を離さずに、顔だけこちらへ向けた。

「賢者殿」

 それだけ言って、また岩のほうを向いた。

 オルウェンは、それで、だいたいのことを分かった。


  *


 避難口の中はまだ熱かった。

 崩れた岩の塊のあちこちで、赤い光が脈打っていた。作りかけのまま熱を失いきれなかった石が、冷えた岩の中に閉じこめられて、まだ湯気を上げている。その熱のせいで、兵たちは岩の左の隙間に近づけずにいた。

「冷やします」

 オルウェンは熱い石に手をかざした。

 水を少しずつ。いっぺんにかければ、熱い石は割れて飛び散る。だから、端から。霜の線を一本伸ばして、熱を預かり、外へ逃がす。冷えたところから、次へ。一つ冷やしては、兵が掘る。また一つ冷やしては、掘る。

 イレーネの術の、残りだった。

 熱い石を流し、冷えたところから順番に固い石に変えていく。冷えて固まったところは、崩れずに残っていた。通路の左の壁沿いに、黒い固い足場が、点々と続いている。

 若い兵が、つるはしを振り下ろしながら、ぽつりと言った。

「今なら、動かせるのに」

 オルウェンは手を止めずに、その兵を見た。顔じゅう泥だらけで、目が真っ赤だった。

「今なら、賢者様がいて、岩が冷やせて、動かせるのに。あと何時間か、早ければ――」

「十時四十五分には」

 オルウェンは言った。

「この上の層は、もう落ちている最中だったよ」

 兵が、つるはしを持ったまま止まった。

「今、岩が冷やせて、動かせるのは、上の層がもう落ちきって、止まっているからだ。落ちている最中の層を、止められる術はない。私が十時四十五分にここに立っていたら、私も同じ岩の下に立っていた」

 言いながら、オルウェンは霜の線を、次の熱い石へ伸ばした。

「手を止めないで。左の、もう一つ奥。そこにも隙間がある」


  *


 十八時十分。

 夕日が谷の向こうの崖を赤く染めはじめたころ、左の隙間の奥に、穴が通った。

 ベルナルトは、ランプを左手に持って、穴の中へ入った。後ろから、治療官のザビーネが続いた。

 七人は一本の綱でつながっていた。

 いちばん隙間に近いところに、若い兵が二人。フロリアンと、ローレンツ。手を前へ伸ばしていた。その後ろに残りの四人が、ヨアヒムを最後にして並んでいる。

 綱のいちばん後ろに、イレーネがいた。

 隙間のほうを向いている。黒く冷えた足場の上に、片膝をつき、両手を床について。右足が、一歩、前へ出ていた。

 ザビーネが膝をついた。首に指を当て、口元に手をかざし、まぶたを指で開いて、ランプの光を当てた。七人、一人ずつ。同じことを同じ順番で。

「脈、なし。呼吸、なし」

 ザビーネは小さな帳面に書いた。

「確認時刻、十八時十分。確認者、治療官ザビーネ」

 帳面がベルナルトに差し出された。

「本人であることの確認を」

 ベルナルトはランプを床に置いた。

 左の手の甲に古い白い傷がある。十五年前、若い近衛だったころのベルナルトとの稽古で、受けそこねてついた傷だ。腰の剣。柄に巻いた革は、赤い色に染めてある。外套はない。

 顔を見た。

 泥と煤で汚れていた。目は閉じていなかった。隙間のほう、外の光が見えていたはずのほうを、まっすぐ見ていた。

 ベルナルトは、左手で、そのまぶたを閉じた。

「第二妃イレーネ。本人であることを、確認する」

 ザビーネの帳面に、名前を書いた。

 左手で書く字は、まっすぐな線が一本も引けなかった。ベルナルトは、何度か筆を止めて、それでも最後の一画まで、自分で書いた。


 穴の外に出ると、オルウェンが斜面に立っていた。

 崩落のあと、ベルナルトは札を一枚も書いていなかった。生きているとも死んだとも分からないことを書けば、王都でそれが噂になって、一人歩きする。

 ベルナルトは、ザビーネの帳面から一枚、紙を破り取って、左手で札を書いた。

 ――十八時十分、確認。第二妃イレーネ様、死亡。兵六名、死亡。

 ――確認者、近衛ベルナルト、治療官ザビーネ。

 ――詳細は明朝の正式報告にて。

 札を伝令の兵に渡してから、ベルナルトは、斜面に腰を下ろした。

 谷の下では、採掘民たちが、焚き火を囲んでいた。誰も何も食べていなかった。ピアという名の女の子が、大人の外套にくるまって、漬物の壺を膝に抱えたまま、ずっと避難口のほうを見ていた。

「十時四十五分に、民が全員出た」

 ベルナルトは言った。

「そのあと、あいつは、自分の番だと言った。綱を二回引いた」

「うん」

「最後まで、こっちへ向かっていた」

「うん」

 オルウェンは、ベルナルトの隣に腰を下ろした。それから長いあいだ、二人とも、何も言わなかった。


  *


 同じ夜、北の関所の向こうの天幕では、ランプの火が、ゆうべと同じように低く揺れていた。

「我が方の損害、死者二十一。前衛が、崩れた道ごと沢へ」

 書記官が報告書を読み上げていた。

「ルーデン側、軍人の死者、十四。うち一名は第二妃イレーネ。採掘民は、全員が南へ逃れた模様。谷の搬出路は、およそ三割が埋まりました」

「三割か」

 ヴァルターは、机の上の地図に、細い指で線を引いた。

「残り七割は使える。採掘民も残った。掘る者がいなければ、石はただの石だからな」

 書記官は何も言わなかった。

「第二妃は、計算に入っていなかった」

 ヴァルターは、地図から目を上げずに続けた。

「ルーデンは、必ず命令書を求めてくる。第二妃が死んだ以上、黙ってはいない。北隧道の爆破を命じたのは誰か、とな」

 ヴァルターは、引き出しから一枚の紙を取り出した。昨夜、自分が署名した命令書の控えだった。その下に、裏返しに重ねた、もう一枚の紙。工兵隊の中尉が持ってきた、手描きの図。北隧道の下の、濡れ筋。隅に受領の印。

「控えを、書き直してもらおう」

 書記官の手が、止まった。

「……閣下」

「文面は、こうだ。北隧道付近の障害は、前衛指揮官の判断にて除去してよし」

 ヴァルターは淡々と言った。

「原本は、戦地の混乱で失われた。残るのはこの控えだけだ。前衛の隊長は、崩れた道で死んでいる。彼の判断だったことにして、困る者はいない」

「工兵隊の報告は」

「受領した記録は、ない」

 ヴァルターは、中尉の図を、受領の印ごと、ランプの火に近づけた。紙の端が、茶色く焦げて、丸まった。それから、燃えた。

「ディートマー中尉は、明日付けで南の補給基地へ移ってもらう。昇進だ。彼は優秀な工兵だよ。図を見る目がある」

 書記官は新しい紙を広げた。筆を、インクに浸した。

 ペン先が紙に触れる前に、一度だけ、ヴァルターの顔を見た。ヴァルターは、もう次の報告書を読んでいた。採掘民八十六名の名簿だった。

「この者たちが、来年もこの谷で石を掘るかどうか」

 ヴァルターは名簿の端を指でそろえた。

「それが、次の問題だ」

 ペン先が紙の上を走りはじめた。


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