夕方の確認、夜の控え
十五時十五分。
オルウェンが谷の南の斜面にたどり着いたとき、馬はもう、汗で黒く濡れていた。
東回りの古い道は、三か所で崩れていた。倒れた木を二度どけ、崖崩れの手前で馬を降りて歩き、途中の村では、屋根の落ちた家から年寄りを一人引っぱり出した。三時間の道に五時間近くかかった。
斜面の上から、谷が見えた。
谷の底が沈んでいた。
川が流れていたはずの場所は、灰色の泥の平らになっていた。家々の屋根が、斜めに傾いて泥に埋まっている。北の崖の中腹にあったはずの古い坑道の口は、もうどこにもない。
斜面の中ほど、古い採掘路の出口のところで、近衛の兵たちがつるはしを振るっていた。そのまんなかに、右腕を布で胴に縛りつけた大男が、左手を岩に当てて立っていた。
「ベルナルト」
オルウェンが呼ぶと、ベルナルトは岩から手を離さずに、顔だけこちらへ向けた。
「賢者殿」
それだけ言って、また岩のほうを向いた。
オルウェンは、それで、だいたいのことを分かった。
*
避難口の中はまだ熱かった。
崩れた岩の塊のあちこちで、赤い光が脈打っていた。作りかけのまま熱を失いきれなかった石が、冷えた岩の中に閉じこめられて、まだ湯気を上げている。その熱のせいで、兵たちは岩の左の隙間に近づけずにいた。
「冷やします」
オルウェンは熱い石に手をかざした。
水を少しずつ。いっぺんにかければ、熱い石は割れて飛び散る。だから、端から。霜の線を一本伸ばして、熱を預かり、外へ逃がす。冷えたところから、次へ。一つ冷やしては、兵が掘る。また一つ冷やしては、掘る。
イレーネの術の、残りだった。
熱い石を流し、冷えたところから順番に固い石に変えていく。冷えて固まったところは、崩れずに残っていた。通路の左の壁沿いに、黒い固い足場が、点々と続いている。
若い兵が、つるはしを振り下ろしながら、ぽつりと言った。
「今なら、動かせるのに」
オルウェンは手を止めずに、その兵を見た。顔じゅう泥だらけで、目が真っ赤だった。
「今なら、賢者様がいて、岩が冷やせて、動かせるのに。あと何時間か、早ければ――」
「十時四十五分には」
オルウェンは言った。
「この上の層は、もう落ちている最中だったよ」
兵が、つるはしを持ったまま止まった。
「今、岩が冷やせて、動かせるのは、上の層がもう落ちきって、止まっているからだ。落ちている最中の層を、止められる術はない。私が十時四十五分にここに立っていたら、私も同じ岩の下に立っていた」
言いながら、オルウェンは霜の線を、次の熱い石へ伸ばした。
「手を止めないで。左の、もう一つ奥。そこにも隙間がある」
*
十八時十分。
夕日が谷の向こうの崖を赤く染めはじめたころ、左の隙間の奥に、穴が通った。
ベルナルトは、ランプを左手に持って、穴の中へ入った。後ろから、治療官のザビーネが続いた。
七人は一本の綱でつながっていた。
いちばん隙間に近いところに、若い兵が二人。フロリアンと、ローレンツ。手を前へ伸ばしていた。その後ろに残りの四人が、ヨアヒムを最後にして並んでいる。
綱のいちばん後ろに、イレーネがいた。
隙間のほうを向いている。黒く冷えた足場の上に、片膝をつき、両手を床について。右足が、一歩、前へ出ていた。
ザビーネが膝をついた。首に指を当て、口元に手をかざし、まぶたを指で開いて、ランプの光を当てた。七人、一人ずつ。同じことを同じ順番で。
「脈、なし。呼吸、なし」
ザビーネは小さな帳面に書いた。
「確認時刻、十八時十分。確認者、治療官ザビーネ」
帳面がベルナルトに差し出された。
「本人であることの確認を」
ベルナルトはランプを床に置いた。
左の手の甲に古い白い傷がある。十五年前、若い近衛だったころのベルナルトとの稽古で、受けそこねてついた傷だ。腰の剣。柄に巻いた革は、赤い色に染めてある。外套はない。
顔を見た。
泥と煤で汚れていた。目は閉じていなかった。隙間のほう、外の光が見えていたはずのほうを、まっすぐ見ていた。
ベルナルトは、左手で、そのまぶたを閉じた。
「第二妃イレーネ。本人であることを、確認する」
ザビーネの帳面に、名前を書いた。
左手で書く字は、まっすぐな線が一本も引けなかった。ベルナルトは、何度か筆を止めて、それでも最後の一画まで、自分で書いた。
穴の外に出ると、オルウェンが斜面に立っていた。
崩落のあと、ベルナルトは札を一枚も書いていなかった。生きているとも死んだとも分からないことを書けば、王都でそれが噂になって、一人歩きする。
ベルナルトは、ザビーネの帳面から一枚、紙を破り取って、左手で札を書いた。
――十八時十分、確認。第二妃イレーネ様、死亡。兵六名、死亡。
――確認者、近衛ベルナルト、治療官ザビーネ。
――詳細は明朝の正式報告にて。
札を伝令の兵に渡してから、ベルナルトは、斜面に腰を下ろした。
谷の下では、採掘民たちが、焚き火を囲んでいた。誰も何も食べていなかった。ピアという名の女の子が、大人の外套にくるまって、漬物の壺を膝に抱えたまま、ずっと避難口のほうを見ていた。
「十時四十五分に、民が全員出た」
ベルナルトは言った。
「そのあと、あいつは、自分の番だと言った。綱を二回引いた」
「うん」
「最後まで、こっちへ向かっていた」
「うん」
オルウェンは、ベルナルトの隣に腰を下ろした。それから長いあいだ、二人とも、何も言わなかった。
*
同じ夜、北の関所の向こうの天幕では、ランプの火が、ゆうべと同じように低く揺れていた。
「我が方の損害、死者二十一。前衛が、崩れた道ごと沢へ」
書記官が報告書を読み上げていた。
「ルーデン側、軍人の死者、十四。うち一名は第二妃イレーネ。採掘民は、全員が南へ逃れた模様。谷の搬出路は、およそ三割が埋まりました」
「三割か」
ヴァルターは、机の上の地図に、細い指で線を引いた。
「残り七割は使える。採掘民も残った。掘る者がいなければ、石はただの石だからな」
書記官は何も言わなかった。
「第二妃は、計算に入っていなかった」
ヴァルターは、地図から目を上げずに続けた。
「ルーデンは、必ず命令書を求めてくる。第二妃が死んだ以上、黙ってはいない。北隧道の爆破を命じたのは誰か、とな」
ヴァルターは、引き出しから一枚の紙を取り出した。昨夜、自分が署名した命令書の控えだった。その下に、裏返しに重ねた、もう一枚の紙。工兵隊の中尉が持ってきた、手描きの図。北隧道の下の、濡れ筋。隅に受領の印。
「控えを、書き直してもらおう」
書記官の手が、止まった。
「……閣下」
「文面は、こうだ。北隧道付近の障害は、前衛指揮官の判断にて除去してよし」
ヴァルターは淡々と言った。
「原本は、戦地の混乱で失われた。残るのはこの控えだけだ。前衛の隊長は、崩れた道で死んでいる。彼の判断だったことにして、困る者はいない」
「工兵隊の報告は」
「受領した記録は、ない」
ヴァルターは、中尉の図を、受領の印ごと、ランプの火に近づけた。紙の端が、茶色く焦げて、丸まった。それから、燃えた。
「ディートマー中尉は、明日付けで南の補給基地へ移ってもらう。昇進だ。彼は優秀な工兵だよ。図を見る目がある」
書記官は新しい紙を広げた。筆を、インクに浸した。
ペン先が紙に触れる前に、一度だけ、ヴァルターの顔を見た。ヴァルターは、もう次の報告書を読んでいた。採掘民八十六名の名簿だった。
「この者たちが、来年もこの谷で石を掘るかどうか」
ヴァルターは名簿の端を指でそろえた。
「それが、次の問題だ」
ペン先が紙の上を走りはじめた。




