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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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帰る方へ踏み出す

暗かった。

 土煙が口にも鼻にも入ってくる。イレーネは咳きこみ、そのたびにわき腹へ走る痛みに、歯を食いしばった。

 足元の《緋堤》の先っぽが、まだ赤く光っていた。その光だけが周りを照らしている。

 さっきまで外の光が見えていた方向に、岩の壁があった。天井から落ちてきた、巨大な塊。外から掘った穴は、その向こう側だ。

 腰に巻いていた綱は、途中で岩に噛まれて、ちぎれていた。

「点呼」

 イレーネは言った。喉の奥に砂がからむ。

「ヨアヒム」

「ここに」

「マレン」

「います」

「フロリアン」

「は、はい」

「ローレンツ。ハインツ。クラウス」

「おります」「います」「……います。左の腕を、やられましたが」

 六人。全員の声が返ってきた。

 十時四十五分の時点で、民は全員、外へ出た。ゴードが最後だった。あの大男の背中が光の中へ出ていくのを、イレーネは自分の目で見た。

 残っているのは、自分と、この六人だけ。

 ――つまり、ここからは、私たちが帰る番。


 岩の塊に手を当てた。

 熱を送ってみる。溶かせるか。無理だった。この大きさの岩を溶かすには、今のイレーネの手には、熱が足りない。足りたとしても、溶けた岩はどこかへ流れていく。この狭い通路で、それをやれば、自分たちが焼ける。

 剣で斬れるか。

 ベルナルトでも、無理だ。

 左を見た。塊と、通路の左の壁とのあいだに、隙間があった。人の体一つが、横向きになって、やっと通れるくらいの。隙間の奥から、かすかに風が来る。外の匂いがする。

 外から、ベルナルトの声が聞こえた。掘れ、と言っている。左だ、と言っている。

 あの人は分かってる。

 イレーネは、足元の《緋堤》の先っぽに、熱を二回、ちかっ、ちかっと送った。

「――ベルナルト! 左の、隙間! そっちへ行く!」


  *


「マレン。綱を結び直して」

「綱、ですか」

「残ってるぶんで、七人をつなぐの。この暗さで誰かがはぐれたら探せない。先頭が隙間を抜けたら、あとは順に引っぱってもらう」

 マレンは、綱の扱いがいちばんうまい兵だった。ちぎれた綱を手早くたぐり寄せ、一人ずつ、腰に結んでいく。先頭のフロリアンから、しんがりのヨアヒムまで。最後に、イレーネ。

「先頭は、フロリアン。いちばん細いから」

「お、俺ですか」

「あなたよ。隙間に入ったら、手を前に伸ばして。ベルナルトが向こうから掘ってる。手が届いたら、つかんでもらいなさい」

 フロリアンはこくこくとうなずいた。指先がこわばっている。でも、隙間のほうへ体を向けた。


 隙間は熱かった。

 イレーネが穴の縁に作ってきた《緋堤》の、まだ冷えきっていないところが、隙間の手前の床になっていた。作りかけの石。赤く脈打っていて、そのままでは、人が触れれば焼ける。

「下がって。熱を逃がすわ」

 イレーネは床に両手をついた。

 《緋堤》を縮める。

 作りかけの石の熱を、通路の内側から、外側へ。隙間とは反対の、噴流の穴のほうへ、逃がしていく。熱が引いたところから、石は黒く冷えて、固まる。完成した石。もう、ただの固い床だ。

 じゅう、と噴流の穴で湯気が上がった。

「ヨアヒム、ハインツ、隙間の上を」

 二人が、剣の鞘と盾を、隙間の上の岩に突っ張った。天井が、それ以上は落ちてこないように。

 床が、一歩ぶん、冷えた。

「フロリアン、行って」

 フロリアンが、冷えた床を踏んで、隙間に体を横向きに差しこんだ。綱がするすると伸びていく。続いて、ローレンツ。

「風が来ます!」

 隙間の奥から、フロリアンの声がした。

「外の風です! 隊長、外の――」

「分かってる。前を見て、進みなさい」


 イレーネは自分の左脚を見た。

 添え木が血で黒く濡れていた。わき腹の布も、もう布の色をしていない。

 手が震えていた。

 床に置いた手のひらの下で、まだ冷えきっていない石が、赤く脈を打っている。あと一歩ぶん。あと一歩ぶん、熱を外へ逃がせば、自分が隙間に入るための足場ができる。

 息を浅く吸った。

 ――剣を持っている間は、見る場所を二つにしろ。

 相手の肩と、自分が帰る足場。

 相手はいない。だから、足場だけを見る。

 帰る。

 エマに出させた、袖の短いふだん着。窓辺の鉢にかけた、小さな札。夕方の、小さい雨。マルグリットの焼かせる干し杏の菓子。袖の勝負の、左。

 帰ったら、全部、その順番で片づける。

 イレーネは熱を送った。

 わき腹で何かがずれた。

 熱が狂った。床の石に送るはずだった熱が、ほんのひと息のあいだ、手のひらの中で行き場をなくして散った。赤い石の先っぽが、ぐにゃりと形を崩す。

「隊長!」

「大丈夫。もう一回――」

 足の下で音がした。

 低い。深い。今まで聞いたどの音よりも、ずっと下のほうから。

 土の声が、谷じゅうで、いっせいに沈んだ。

 イレーネは顔を上げた。隙間の向こうに、フロリアンとローレンツの背中が見える。その向こうに、ほんの小さく、外の光。

「次、右足を――」

 十時五十二分。

 支えを失った谷の底が、沈んだ。


  *


 王宮の伝令の間の窓から、午後の日が斜めに差しこんでいた。

 昼すぎに着いた札が、壁のいちばん上に留めてあった。母の字だった。

 ――八時、北隧道、爆破。地下の支えが抜けて、谷の水が消えた。水の分かる者を求む。 イ

 その札を読んだとき、レオは手帳を開いて、ひと月前に描いた図を見た。北の崖の穴。その下の、黒い濡れ筋。図にない湿り。

 あそこが裂けたのだ。

 それから三時間、レオはほとんど座らなかった。窓と作業台のあいだを行ったり来たりして、着く札を片っぱしから開いた。フェリクスが、黒パンを半分にちぎって、黙ってレオの手に押しこんだ。レオはそれを食べたのか、どこかに置いたのか、覚えていなかった。

 十五時十分。

 舟着き場に灯りをつけた舟が着いた。

 筒の封を切ったのは、セシリアだった。彼女は札を開いて、息を止めた。それから、目をぎゅっと閉じて、札をレオに差し出した。

 ベルナルトの字だった。四角くて、小さくて、一画も崩していない字。


 ――十時四十五分。民間、八十六名、全員退避。救援隊と合流。

 ――イレーネ様と兵六名、綱にて脱出中。 ベ


「……全員」

 レオは札を読んだ。二回読んだ。三回目に声に出して読んだ。

「八十六人、全員。全員だって。ゴードも、ピアも、ハンネスも、イーダも」

「父上の字です」

 セシリアが言った。目のふちが赤い。

「父上の字。父上が、書いてる」

 フェリクスが、帳面に「書いた時刻 十時四十五分ごろ」「着いた時刻 十五時十分」と書きこんだ。書きこむ手がいつもより少し遅かった。

 ――綱にて脱出中。

 レオはその一行を、指でなぞった。

 綱。ベルナルトの隊が、外から綱を通して、母を引っぱっている。母は運ばれる側に回ったのだ。父の言った条件どおり。素直に担がれてあげるわよ、と言っていたとおり。

 膝から、力が抜けた。

 レオは作業台の椅子に、どすんと座りこんだ。気がついたら、笑っていた。声は出ていなかった。顔だけが勝手に笑っていた。

「セシリア。これ、父上のところへ」

「うん」

 セシリアは札を胸に抱いて、光を灯して、廊下を走っていった。走りながら、一度、目元を袖でこすったのが見えた。


 レオは壁の札の列を見上げた。

 いちばん上に母の札が二枚。真夜中に着いた「酸っぱい」の札と、昼に着いた「水の分かる者を求む」の札。

 その上はまだ空いていた。

 次の母の札が来たら、そこに留める。谷を出た、と書いてあるはずの札。もしかしたら、また漬物の話が書いてあるかもしれない。ピアのお昼の話。

 舟着き場に、また一艘、灯りが近づいてきていた。

 レオは立ち上がって、次の札を受け取りに行った。


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