帰る方へ踏み出す
暗かった。
土煙が口にも鼻にも入ってくる。イレーネは咳きこみ、そのたびにわき腹へ走る痛みに、歯を食いしばった。
足元の《緋堤》の先っぽが、まだ赤く光っていた。その光だけが周りを照らしている。
さっきまで外の光が見えていた方向に、岩の壁があった。天井から落ちてきた、巨大な塊。外から掘った穴は、その向こう側だ。
腰に巻いていた綱は、途中で岩に噛まれて、ちぎれていた。
「点呼」
イレーネは言った。喉の奥に砂がからむ。
「ヨアヒム」
「ここに」
「マレン」
「います」
「フロリアン」
「は、はい」
「ローレンツ。ハインツ。クラウス」
「おります」「います」「……います。左の腕を、やられましたが」
六人。全員の声が返ってきた。
十時四十五分の時点で、民は全員、外へ出た。ゴードが最後だった。あの大男の背中が光の中へ出ていくのを、イレーネは自分の目で見た。
残っているのは、自分と、この六人だけ。
――つまり、ここからは、私たちが帰る番。
岩の塊に手を当てた。
熱を送ってみる。溶かせるか。無理だった。この大きさの岩を溶かすには、今のイレーネの手には、熱が足りない。足りたとしても、溶けた岩はどこかへ流れていく。この狭い通路で、それをやれば、自分たちが焼ける。
剣で斬れるか。
ベルナルトでも、無理だ。
左を見た。塊と、通路の左の壁とのあいだに、隙間があった。人の体一つが、横向きになって、やっと通れるくらいの。隙間の奥から、かすかに風が来る。外の匂いがする。
外から、ベルナルトの声が聞こえた。掘れ、と言っている。左だ、と言っている。
あの人は分かってる。
イレーネは、足元の《緋堤》の先っぽに、熱を二回、ちかっ、ちかっと送った。
「――ベルナルト! 左の、隙間! そっちへ行く!」
*
「マレン。綱を結び直して」
「綱、ですか」
「残ってるぶんで、七人をつなぐの。この暗さで誰かがはぐれたら探せない。先頭が隙間を抜けたら、あとは順に引っぱってもらう」
マレンは、綱の扱いがいちばんうまい兵だった。ちぎれた綱を手早くたぐり寄せ、一人ずつ、腰に結んでいく。先頭のフロリアンから、しんがりのヨアヒムまで。最後に、イレーネ。
「先頭は、フロリアン。いちばん細いから」
「お、俺ですか」
「あなたよ。隙間に入ったら、手を前に伸ばして。ベルナルトが向こうから掘ってる。手が届いたら、つかんでもらいなさい」
フロリアンはこくこくとうなずいた。指先がこわばっている。でも、隙間のほうへ体を向けた。
隙間は熱かった。
イレーネが穴の縁に作ってきた《緋堤》の、まだ冷えきっていないところが、隙間の手前の床になっていた。作りかけの石。赤く脈打っていて、そのままでは、人が触れれば焼ける。
「下がって。熱を逃がすわ」
イレーネは床に両手をついた。
《緋堤》を縮める。
作りかけの石の熱を、通路の内側から、外側へ。隙間とは反対の、噴流の穴のほうへ、逃がしていく。熱が引いたところから、石は黒く冷えて、固まる。完成した石。もう、ただの固い床だ。
じゅう、と噴流の穴で湯気が上がった。
「ヨアヒム、ハインツ、隙間の上を」
二人が、剣の鞘と盾を、隙間の上の岩に突っ張った。天井が、それ以上は落ちてこないように。
床が、一歩ぶん、冷えた。
「フロリアン、行って」
フロリアンが、冷えた床を踏んで、隙間に体を横向きに差しこんだ。綱がするすると伸びていく。続いて、ローレンツ。
「風が来ます!」
隙間の奥から、フロリアンの声がした。
「外の風です! 隊長、外の――」
「分かってる。前を見て、進みなさい」
イレーネは自分の左脚を見た。
添え木が血で黒く濡れていた。わき腹の布も、もう布の色をしていない。
手が震えていた。
床に置いた手のひらの下で、まだ冷えきっていない石が、赤く脈を打っている。あと一歩ぶん。あと一歩ぶん、熱を外へ逃がせば、自分が隙間に入るための足場ができる。
息を浅く吸った。
――剣を持っている間は、見る場所を二つにしろ。
相手の肩と、自分が帰る足場。
相手はいない。だから、足場だけを見る。
帰る。
エマに出させた、袖の短いふだん着。窓辺の鉢にかけた、小さな札。夕方の、小さい雨。マルグリットの焼かせる干し杏の菓子。袖の勝負の、左。
帰ったら、全部、その順番で片づける。
イレーネは熱を送った。
わき腹で何かがずれた。
熱が狂った。床の石に送るはずだった熱が、ほんのひと息のあいだ、手のひらの中で行き場をなくして散った。赤い石の先っぽが、ぐにゃりと形を崩す。
「隊長!」
「大丈夫。もう一回――」
足の下で音がした。
低い。深い。今まで聞いたどの音よりも、ずっと下のほうから。
土の声が、谷じゅうで、いっせいに沈んだ。
イレーネは顔を上げた。隙間の向こうに、フロリアンとローレンツの背中が見える。その向こうに、ほんの小さく、外の光。
「次、右足を――」
十時五十二分。
支えを失った谷の底が、沈んだ。
*
王宮の伝令の間の窓から、午後の日が斜めに差しこんでいた。
昼すぎに着いた札が、壁のいちばん上に留めてあった。母の字だった。
――八時、北隧道、爆破。地下の支えが抜けて、谷の水が消えた。水の分かる者を求む。 イ
その札を読んだとき、レオは手帳を開いて、ひと月前に描いた図を見た。北の崖の穴。その下の、黒い濡れ筋。図にない湿り。
あそこが裂けたのだ。
それから三時間、レオはほとんど座らなかった。窓と作業台のあいだを行ったり来たりして、着く札を片っぱしから開いた。フェリクスが、黒パンを半分にちぎって、黙ってレオの手に押しこんだ。レオはそれを食べたのか、どこかに置いたのか、覚えていなかった。
十五時十分。
舟着き場に灯りをつけた舟が着いた。
筒の封を切ったのは、セシリアだった。彼女は札を開いて、息を止めた。それから、目をぎゅっと閉じて、札をレオに差し出した。
ベルナルトの字だった。四角くて、小さくて、一画も崩していない字。
――十時四十五分。民間、八十六名、全員退避。救援隊と合流。
――イレーネ様と兵六名、綱にて脱出中。 ベ
「……全員」
レオは札を読んだ。二回読んだ。三回目に声に出して読んだ。
「八十六人、全員。全員だって。ゴードも、ピアも、ハンネスも、イーダも」
「父上の字です」
セシリアが言った。目のふちが赤い。
「父上の字。父上が、書いてる」
フェリクスが、帳面に「書いた時刻 十時四十五分ごろ」「着いた時刻 十五時十分」と書きこんだ。書きこむ手がいつもより少し遅かった。
――綱にて脱出中。
レオはその一行を、指でなぞった。
綱。ベルナルトの隊が、外から綱を通して、母を引っぱっている。母は運ばれる側に回ったのだ。父の言った条件どおり。素直に担がれてあげるわよ、と言っていたとおり。
膝から、力が抜けた。
レオは作業台の椅子に、どすんと座りこんだ。気がついたら、笑っていた。声は出ていなかった。顔だけが勝手に笑っていた。
「セシリア。これ、父上のところへ」
「うん」
セシリアは札を胸に抱いて、光を灯して、廊下を走っていった。走りながら、一度、目元を袖でこすったのが見えた。
レオは壁の札の列を見上げた。
いちばん上に母の札が二枚。真夜中に着いた「酸っぱい」の札と、昼に着いた「水の分かる者を求む」の札。
その上はまだ空いていた。
次の母の札が来たら、そこに留める。谷を出た、と書いてあるはずの札。もしかしたら、また漬物の話が書いてあるかもしれない。ピアのお昼の話。
舟着き場に、また一艘、灯りが近づいてきていた。
レオは立ち上がって、次の札を受け取りに行った。




