十時四十五分の手
十時二十分。
三橋で、水の賢者が馬にまたがったころ、灰冠の谷の南の斜面では、名簿の印が五十を超えていた。
「五十一。粉ひきのウーテ」
布の担架にのせられた婆さんが、穴の口から外へ運び出された。日の光がまぶしいのか、婆さんは目を細めて、運んでいる若者の頭をぺしんと叩いた。
「揺らすなって言ったろう」
「無茶言わないでくれよ、婆ちゃん」
ベルナルトは名簿の「ウーテ」の横に印をつけた。
近衛の兵が、婆さんを斜面の下の平らなところまで運んでいく。そこには、外に出た採掘民たちが、毛布をかぶって座りこんでいた。泣いている者もいる。笑っている者もいる。黙って谷のほうを見ている者もいる。
「五十二。アンネと、赤ん坊」
赤ん坊が、外の風にびっくりして泣きだした。母親が、泣きながらそれをあやしていた。
穴の奥からは、ときどきイレーネの声が聞こえてきた。
「次、ゆっくりね。左の壁に手をついて。そこ、まだ熱いから右は触らないで」
声は落ち着いていた。いつも練兵場で、若い兵に受けの角度を直すときと、まったく同じ調子だった。
ベルナルトは、外の岩に手を当てつづけていた。
掘った穴の天井は、ベルナルトの術で持っている。その上の、もう一段上の層は、まだ低く唸っていた。綱は二本、通してある。二本目の綱ももう穴の奥まで届いていた。
「六十」
「六十一」
兵が名前を読み上げ、ベルナルトが印をつける。
十時三十分を過ぎたころ、名前の読み上げが止まった。
「……隊長、テオという子がいません」
イレーネの隊の兵が、名簿を握って青くなっていた。
「七つの男の子です。母親は、先に出てる」
ベルナルトは穴の奥へ声を投げた。
「イレーネ! テオ、七つ!」
少しのあいだ、返事がなかった。
それから、穴の奥から、くぐもった声がした。
「見つけたわ。荷物の後ろで寝てた。……寝てたのよ、この騒ぎの中で。大物になるわ、この子」
穴の外で、母親が泣きながら笑いだした。
まもなく、寝ぼけた顔の男の子が、フロリアンという若い兵に抱えられて、穴から出てきた。フロリアンは子どもを母親に渡すと、すぐにまた穴の中へ戻っていった。隊長のいるほうへ。
*
「八十五」
名簿の残りは、一つだった。
ゴード。採掘頭。
穴の奥で言い争う声がした。
「ゴード、あなたも行きなさい」
「お妃さまより先に出るのは、俺が最後でいい。谷の者は、俺が全員出たのを見てから出る。それが頭の仕事だ」
「見たでしょう。全員出たわ。あなたで最後よ」
「じゃあ、俺で最後だ」
「だから、早く行きなさいって言ってるの!」
ベルナルトは思わず穴の奥をのぞいた。
赤い石の光の中で、灰色の粉まみれの大男が、イレーネの前で仁王立ちしていた。イレーネは、ヨアヒムの肩を借りて立ったまま、片手で大男の胸を押していた。押しているのに、ちっとも動かない。
「お妃さま。谷を出たら、ピアの漬物で昼にするんだろう。娘が楽しみにしてる。だから、あんたも来てくれ」
「行くわよ。あなたのすぐ後ろから」
「約束だぞ」
「約束。ほら」
ゴードはようやく背を向けた。冷えて固まった足場を渡り、外から掘った穴を抜けて、斜面の光の中へ、のっそりと出てきた。
大きな手が、ベルナルトの肩を一度つかんだ。
「あとは、頼む」
ベルナルトは名簿の最後の名前に、印をつけた。
「八十六」
近衛の兵が懐中時計を読んだ。
「十時四十五分」
斜面の下で採掘民たちがざわめいた。誰かが、谷の者の名前を一人ずつ呼びはじめた。呼ばれた者がここにいると手を上げる。名前を呼ぶ声と、手を上げる声が、斜面いっぱいに広がっていった。
「民間、八十六名、全員退避」
ベルナルトは穴の奥に向かって言った。
それから、綱を握る兵たちを見た。
「次は、あいつだ」
綱が、二回、引かれた。
くん、くん。
イレーネの合図だった。
「引け!」
近衛の兵が三人がかりで、綱をたぐりはじめた。
ベルナルトは名簿の端を破り、四角い字で短く書いて、斜面の下の伝令に放った。――十時四十五分。民間、八十六名、全員退避。救援隊と合流。イレーネ様と兵六名、綱にて脱出中。王都では、娘も、イレーネの息子も、この知らせを待っている。
ベルナルトは、穴の天井から手を離さないまま、たぐられていく綱を見ていた。綱の向こう、穴の奥で、赤い光が、少しずつこちらへ近づいてくる。
イレーネが来る。
その後ろから、六人の兵も来る。ヨアヒムを先頭に、最後まで隊長のそばにいた者たちだった。
「ゆっくりだ。止めるな。転んでも止めるな」
赤い光が近づく。穴の外から、イレーネの顔が見えた。汗と粉で汚れていて、唇が白い。でも、まっすぐこちらを見ていた。
あと、十歩。
上が鳴った。
今まで唸っていた音とは、違う音だった。何かが根元から外れる音。
ベルナルトは顔を上げた。
避難口の上の、もう一段上の岩が、動いていた。ベルナルトが押さえていた穴の天井とは、別の方向へ。崖の内側へ、斜めに。外から掘った穴と、通路の中のイレーネとのあいだの、ちょうど真上へ。
「上だ!」
叫んだのと、岩が落ちたのと、どちらが先だったか分からない。
綱がぴんと張った。
内側から、何かに引きずりこまれるように。綱をたぐっていた兵たちの足が、斜面の上を滑った。ベルナルトは右手を天井から離して、綱をつかんだ。
右の肩に、何かが焼けるような痛みが走った。
綱が、ベルナルトの右腕ごと、穴の奥へ引っぱられる。肩の中で、ぶつっと、何かが切れる音がした。指が開きかける。開かなかった。開かせなかった。左手も綱に添えて、両足を斜面に突っ張った。
岩の落ちる音が、長く続いた。
そして、綱が、緩んだ。
たぐると、綱の端が、するすると出てきた。端は岩に挟まれてちぎれていた。
*
土煙が、穴の口からもうもうと吹き出していた。
ベルナルトは、だらりと下がった右腕を左手で押さえて、穴の口へ這い寄った。
外から掘った穴は、半分まで残っていた。ベルナルトの術が押さえていたぶんだけ。その先は、天井から落ちてきた巨大な岩の塊で、ぴったりとふさがっていた。
「イレーネ!」
返事はなかった。
岩の塊に左手を当てた。土の声を聞く。厚い。深い。この塊は、一人で動かすにも、剣で斬るにも、大きすぎた。
「隊長、肩が」
「掘れ」
ベルナルトは言った。
「別の穴だ。この塊の、左だ。左の岩はまだ柔らかい。そこから回りこめ」
「ですが、上がまた――」
「上は、俺が押さえる」
左手を穴の天井に当てた。右の肩が、腕ごと燃えているみたいだった。それでも、土の声は聞こえた。左手一本でも、天井は押さえられる。
兵たちがつるはしを振るいはじめた。
そのとき、岩の塊の、ほんの小さな隙間から、赤い光が見えた。
ちかっ。ちかっ。
二回。
ベルナルトはその光を知っていた。イレーネが熱い石の先っぽに、熱を足すときの光だ。
――二回なら、引いて。
引く綱はもうない。
でも、イレーネはまだ、合図を送ってきていた。
「向かってくる」
ベルナルトは言った。
「あいつは、残る隙間のほうへ、向かってくる。左だ。急げ」
隙間の向こうから、くぐもった声がした。岩を通して、ひどく遠い声だった。
「――ベルナルト! 左の、隙間! そっちへ行く!」
時計を持っていた兵が、つっかえながら読んだ。
「十時、四十七分」




