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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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十時の二本の道

角笛を吹き終えたとき、ベルナルトの右手には、まだ汗で湿った札が握られていた。

 ――私は帰る。運ばれる順番は、民のあと。 イ

 東の尾根を下る途中で、若い兵が転がるように駆け上がってきて、これを差し出したのだ。ラースという名の兵は、札を渡すと、その場に膝をついて吐いた。それだけ必死に走ってきたのだろう。

 ベルナルトは札を胸の内側にしまい、目の前の斜面を見下ろした。

 灰冠の谷の南側。崖の中腹に、古い採掘路の出口が、黒い口を開けている。南の避難口。その口から、白い湯気が、もうもうと噴き出していた。


 夜明け前、北の街道を進んでいた救援隊に、王都からの舟の札が追いついた。

 ――北道を捨て、東の尾根道へ回れ。谷の南から入れ。

 理由は書いていなかった。けれど、ベルナルトは命令どおりに隊を尾根へ向けた。あとで、北の街道の関所の先で、橋が落とされていたと聞いた。そのまま北道を進んでいたら、今ごろ谷の北で、崩れた橋の手前に立っていたはずだ。

 誰がこの札を早く回したのかは、まだ知らなかった。

「十時」

 隣で、近衛の兵が懐中時計を読み上げた。

 ベルナルトは斜面を駆け下りた。


  *


 避難口の中は、熱かった。

 通路を三十歩ほど入ったところで、床が途切れていた。足元に大きな穴が開いている。穴の底から、地下の水が、太い柱のように噴き上がっていた。噴き上がった水が、穴の縁の赤い石にぶつかって、じゅうじゅうと湯気を上げている。

 その赤い石の上に、イレーネが立っていた。

 片手を壁に片手を足元の石について。左の脚には添え木。わき腹には血のにじんだ布。それでも、背筋はまっすぐだった。

 イレーネの手元から、熱い石がとろりと流れ出していた。穴の縁に沿って、ほんの二歩ぶん。流れ出た石は、端から黒く冷えて固まっていく。冷えて固まったところを、採掘民が一人ずつ、壁に手をつきながら渡ってくる。渡りきると、出口の側で待っていた兵が、その手を取って引き寄せる。

 二歩ぶん渡ると、イレーネはまた二歩ぶん作る。一度に全部ではなく、少しずつ。冷えたところから順番に。

「遅いわよ」

 イレーネが振り返らずに言った。

「尾根を回った」

「知ってる。北から来てたら、まだ着いてないもの」

 ベルナルトは、穴の縁の、まだ赤く脈打っているところを見た。冷えて黒くなった石は、ただの固い石だ。でも、今まさに作っている先っぽは、赤くて、柔らかい。噴き上がる水がその熱を奪っていくのを、イレーネが絶えず熱を足して、持ちこたえさせている。

 顔色が白かった。

「代わる」

 ベルナルトは言った。

 イレーネの札の、案一だった。


 ベルナルトはイレーネの隣に膝をついた。

 土の術は、近衛でいちばんだと言われている。崩れかけた岩を支えて、地面を固めるのは、ベルナルトの得意だった。

「三つ数えたら、私が手を離す。あなたは、この先っぽを持って」

「分かった」

「ひとつ、ふたつ――みっつ」

 イレーネの手が離れた。ベルナルトの手が、赤い石に触れた。

 固めようとした。

 土の術で、柔らかい石を、ぎゅっと押し固める。いつもどおりに。

 赤い石にひびが入った。

 熱い石は、ベルナルトの術を受け止めなかった。押し固めたところから、ぴしぴしと割れていく。割れ目に噴流の水が入りこみ、湯気が爆ぜて、熱いしぶきがベルナルトの頬を打った。

「戻すわ」

 イレーネの手が、ベルナルトの手の上から重なった。熱が流れこむ。ひびが、赤く溶けて、ふさがる。

 ベルナルトは手を引いた。

 手のひらが赤く焼けていた。

「……これは、壁じゃないな」

「そうよ」

 イレーネは浅く息をした。

「できあがった壁なら、あなたに渡せる。でもこれは、熱いのを流して、冷やして、固める途中なの。熱の足し方と、固まる速さの、両方を見てなきゃいけない。私の術の、途中の部分は、私にしか持てない」

 土だけでは熱を扱えない。

 ベルナルトは穴の向こうを見た。噴流の向こう、通路の奥に、まだ採掘民の列が続いていた。ランプの明かりの中に、何十もの顔が見える。

「案二だ」

 ベルナルトは立ち上がった。

「外から掘る」


  *


 避難口の外の斜面で、近衛の兵たちが岩にとりついた。

 ベルナルトは斜面に両手をついて、岩の奥を探った。土の声を聞く。通路の壁の、外側。噴流の穴を、外から回りこむように、岩の中を進める道はないか。

 あった。

 穴の脇の岩は、古い坑道の跡で、中が少し柔らかくなっている。ここを外から掘れば、噴流の穴の向こう側、通路の奥へ、斜めにつながる。

「この線に沿って掘れ! 岩の外側は、俺が支える!」

 兵たちがつるはしを振るった。ベルナルトは、掘られていく穴の天井と壁を、土の術で押さえつづけた。掘る。支える。掘る。支える。

 穴の中から、声が聞こえた。

「ベルナルト!」

 イレーネの声だった。

「そっちから掘ってる穴、音で分かるわ! 私、つなぎめのところを広げる!」

 通路の内側から、赤い光が近づいてきた。イレーネが、噴流の穴の縁に作っていた道を、外から掘っている穴のほうへ向けて、少しずつ伸ばしているのだ。完成した部分には、もう熱を戻さない。冷えて固まったところは、そのまま固い石として残して、先っぽだけを、新しい方向へ。

 つるはしの先が、何もない空間を突いた。

 風が、外から中へ、すうっと吹きこんだ。

 穴の向こうに、ランプの明かりと、赤い石の光と、灰色の粉にまみれた顔が見えた。

「つながった!」


 二本の道が一本になった。

 内側からイレーネが作った足場を渡り、外から掘った穴を抜けて、採掘民が一人ずつ、斜面の外へ出てくる。外では、近衛の兵が一人ずつ手を取って、受け取っていく。

 ベルナルトは穴の入り口で、出てくる顔を一つずつ見た。

 布の担架にのせられた、しわだらけの婆さん。赤ん坊を抱いた若い母親。大人の外套に足首までくるまって、壺を抱えた女の子。

「名簿を」

 ベルナルトが言うと、イレーネの隊の兵が、名前を書いた紙を差し出した。出てきた者の名前の横に、一つずつ印をつけていく。

 十時十五分。

 ベルナルトは、穴の奥へ向かって、太い綱を一本、通させた。綱の端は外の岩に巻きつけて、近衛の兵が三人で握る。もう一方の端は、穴を通って、通路の中、イレーネのいるところまで。

 綱が届いたことを、イレーネの声が知らせてきた。

「合図を決めるわ!」

 ベルナルトは、わかった、と短く返し、穴の中へ声を張った。

「綱を、二回引いたら」

「あなたたちが、私を引く」

「三回なら」

「待つ。それで、民が全部出たら、私はこの綱を腰に巻いて、二回引く。そしたら遠慮なく、引っぱってちょうだい。足が言うことを聞かないから、途中で転んでも、止めないで」

「引きずる」

「ひどい言い方ね。でも、それでいいわ」

 ベルナルトは、自分の眉が少しだけ動いたのが分かった。

 穴の奥から、イレーネの笑う気配が伝わってきた。


 頭の上で岩がきしむ音がした。

 ベルナルトは顔を上げた。避難口の上、崖のもう一段上の岩が、低く唸るように鳴っていた。外から掘った穴の天井とは、別の場所だった。ベルナルトの術が押さえている岩の、さらに上。

 ベルナルトは岩に手を当てて、土の声を聞いた。

 遠い。上の層は、厚すぎて、深すぎて、底のほうまで声が届かない。

「綱を、もう一本通せ」

 ベルナルトは兵に言った。

「念のためだ。早く」


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