九時二十分の南道
前を歩いていた兵が、片手を高く上げた。
止まれ、の合図だった。列が前から順番に止まっていく。担架を担いだ若者たちが足を踏ん張り、子どもの手を引いていた母親が、その子を胸に抱き寄せる。
イレーネは列の最後尾から、横の斜面を駆け上がって、前を見た。
西の荷車道が、なかった。
崖沿いに続いていたはずの道の、五十歩ほど先から、地面がまるごと谷のほうへずり落ちていた。道の縁が、崩れた土と石の坂になっている。その坂の上を、まだ小石が転がり落ちていた。
懐中時計を開いた。九時二十分。
第一退路が崩れた。
「下が、抜けてるんです」
列の中ほどから、灰色の上着の女の人が出てきた。測量係のイーダだった。
「八時の揺れで、谷の底を支えていた層から水が抜けました。抜けたところから、上の地面が沈んでる。この荷車道は、ちょうどその上を通ってるんです」
「ほかに、谷を出る道は」
「北は敵。東の尾根はこの人数じゃ登れません。あとは――」
イーダが言い終わる前に、イレーネは腰の袋から紙を出していた。
子どもの字の、地図の写しだった。
崖の下をくりぬいた、細い道の線。南旧道。途中まで実線で、そこから先は点線になっている。線の横に、小さな数字がいくつも書きこんであった。倉庫の裏から四十歩、荷車一台。そこから先、人の肩幅で一つ半。崩れた岩、右に寄せてある。
――ここから先は、ベルナルトに止められた。測り直しが終わってないから。
レオがこの写しを広げたとき、そう言って唇を尖らせていた。どこまで分かっていて、どこから先を見直さなきゃいけないか。ちゃんと書いてある図だった。
「イーダ。この数字、あなたが測ったのね」
「はい。ひと月前に。殿下が、全部写していかれました」
「じゃあ、この先は、あなたが一緒に見て」
イレーネは写しをイーダに渡し、振り返って、声を張った。
「南旧道へ移るわ! 荷車は倉庫の裏で捨てる。そこから先は、歩きと担架!」
*
南旧道は暗かった。
崖の下を掘りぬいた古い採掘路で、天井は手を伸ばせば届くくらい。ところどころ、外へ向かって窓のような穴が開いていて、そこから細い光が差しこんでいる。
列は一人ずつ入っていった。イーダの測った幅のとおり、四十歩までは荷車も通れた。その先で、イレーネは荷車を全部止めさせ、残っていた食べ物と水と毛布を、人の背中に振り分けた。
「重いのは、若い人。軽いのは子どもも持ちなさい。全員、何か一つ持つのよ。手ぶらで歩くと、かえって転ぶから」
列が細くなる。肩幅一つ半の道を、一人ずつ。
イレーネは、道の様子が変わるたびに、列を止めさせた。
床の石の色が変わる場所。天井の割れ目から水が垂れている場所。イーダの数字と、目の前の幅が合わない場所。そのたびに前へ出て、つま先で地面を叩き、壁に手を当て、自分の目で見てから、また列を進める。
「写しのとおりです。ここも」イーダが言った。
「ここまではね」
イレーネは壁から手を離した。
「紙が正しくても、道のほうが、今朝から変わってるかもしれないの。だから、見るわ。いちいち」
時間はかかった。でも、列は一度も崩れなかった。
道の途中で、壁の割れ目から水が噴き出していた。
さっき谷の底から消えた水だ。地面の下を走って、こんなところから出てきている。冷たい霧が通路いっぱいに立ちこめて、そこを通る人はみんな、頭からしっとりと濡れた。
列の中でピアが立ち止まっていた。
漬物の壺を抱えたまま、歯をかちかち鳴らしている。薄い上着が濡れて、肩に張りついていた。
イレーネは自分の外套を脱いで、ピアの肩からくるんだ。大人の外套は、小さな女の子の足首まで届いた。裾を一度折り返して、腰のところで紐を結んでやる。
「お妃さまが、寒くなる」
「私は火の術が使えるから、平気よ」
イレーネは外套の襟を、ピアの顎の下で合わせた。
「谷を出たら返してね。それ、気に入ってるの」
「うん。返す」
ピアは壺と外套を一緒に抱えて、また歩きだした。
狭い角で担架が止まった。
一番の担架。粉ひきのウーテお婆さんを乗せた担架の横棒が、曲がり角の両側の壁につかえて、どうしても回らない。担いでいたハンネスが、顔を真っ赤にして押したり引いたりしている。
同じとき、列の後ろで、金属のぶつかる音がした。
「後ろ! 敵です!」
崩れた荷車道を越えて、グランゼルの兵が何人か、旧道の入り口までついてきていた。爆破のあとの混乱から抜け出した、追手の一隊らしい。
「ローレンツ、横棒を外して!」
イレーネは列の脇をすり抜けて、後ろへ走りながら叫んだ。
「担架の棒を外して、布だけで運ぶの。四人で四隅を持って。ウーテお婆さん、少し揺れるけど、我慢してちょうだいね!」
「何十年、粉の袋みたいに担がれてきたと思ってんだい」
しわがれた声が返ってきて、列の中で誰かが吹き出した。
工兵のローレンツが、斧の背で横棒の留め具を叩き外した。布だけになった担架を、四人が四隅から持ち上げる。角を、斜めにして、回る。
イレーネは最後尾で、追手の先頭の剣を受けた。
狭い通路だった。守る位置から動かない剣には、ちょうどいい。一人目を受けて流し、二人目の足元に、赤く熱した石を一筋、走らせる。追手がたたらを踏んだ。
「下がりなさい。ここから先は、あなたたちの足場もないわよ」
そう言ったときだった。
頭の上で何かが割れる音がした。
天井の岩が、一枚、斜めに落ちてきた。
イレーネは後ろへ跳んだ。跳んだつもりだった。左の脚がほんの少しだけ遅れた。岩の角が、ふくらはぎを、骨ごと打った。同時に、砕けたかけらの一つが、わき腹に、鎧の継ぎ目から深く入った。
膝が石の床につく。
落ちた岩が、通路をなかばふさいでいる。その向こうで、追手の兵たちが悲鳴を上げて、入り口のほうへ逃げていく足音がした。
九時四十分だった。
*
「隊長!」
ヨアヒムとマレンが、両側から肩を支えた。
「わき腹の、抜かないで。抜くと、出るわ」
イレーネは自分で言った。声は、思っていたよりちゃんと出た。
マレンが、わき腹の傷の周りを布で固く縛った。ヨアヒムが、左のふくらはぎに添え木を当てた。フロリアンは青い顔で、松明を持ったまま立ちつくしている。
「フロリアン、灯り、もうちょっとこっち。手元が見えないでしょう」
「は、はいっ」
添え木がきつく締まって、イレーネは歯を食いしばった。息を三つ数えて吐く。
それから、自分の体に聞いた。
左脚は、体重をのせると、きしむ。でも、立てる。わき腹は、息を深く吸うと、ずきんと来る。浅く吸えば、まだいい。
「申告するわね」
イレーネはヨアヒムの目を見た。
「歩けるのは、たぶん、あと三百歩くらい。《緋堤》は長いのは無理。短いのなら、十回。それ以上は、手が震えて、狂う」
ヨアヒムは、ひげの奥で何も言わなかった。
「救援が来たら、私は運ばれる順番に入るわ。担架はウーテお婆さんたちのあと。それまでは、私がいちばん後ろ。いいわね」
「……承知しました」
イレーネは、松明の明かりで、腰の袋から紙と小さな筆を出した。
筆を持つ指に、うまく力が入らない。字が、いつもよりもっと右上がりになった。
――ベルナルトへ。南の避難口に来て。
――案一、南口で、私の術をあなたが代わる。
――案二、だめなら、外から道を掘って。中と外から、つなぐ。
――私は帰る。運ばれる順番は、民のあと。 イ
足の速い兵のラースに、札を持たせた。
「南の避難口から外へ出て、東の尾根のほうへ走りなさい。救援隊が来るなら、そっちからよ」
ラースが、狭い通路を、列の脇を縫うように走っていった。
イレーネは、ヨアヒムの肩を借りて、立ち上がった。
左脚がきしんだ。
前を見る。列は、ゆっくりと、南の避難口のほうへ進んでいる。担架の布の四隅を持った若者たち。外套にくるまれた小さな背中。漬物の壺。
足元を見る。
帰る足場。剣を持っている間は、見る場所を二つにしろ。ベルナルトがレオにそう教えていたのを、練兵場の柵の外から聞いたことがある。相手の肩と、自分が帰る足場。
イレーネは、つま先で床を叩いてから、一歩踏み出した。
二百九十九、と心の中で数えた。
九時五十八分。
南の避難口の向こう、外の明るさの中から、角笛の音が一つ、長く響いてきた。




