三橋を渡り終えるまで
水の色が変わったのは、八時四十分だった。
オルウェンは二つ目の橋の欄干に肘をついて、北の沢から流れこむ支流を見ていた。ゆうべからずっと、そこだけを見ていた。灰色がかった水が、本流とぶつかって渦を巻き、橋の左の脚をぐいぐい押している。弟子の描いた図のとおりだった。
その灰色が急に濃くなった。
濁った、というより、泥そのものが流れてきたような色だった。渦の巻き方が変わる。水面が、見ている間に、指一本、二本と上がっていく。
「来たね」
オルウェンは懐から筒を出して、紙を広げた。
三つの橋。北の沢から来る支流。二つ目の橋の左の脚に向かう太い矢印。三つ目の橋の右の岸に、低い家の並び。その横に、子どもの字で書きこみがある。
――船頭さんの話。二つ目の左が先に押される。それから三つ目の右岸。毎年、舟で逃げる。
三橋の村長は、ゆうべ、避難の順番を決めていた。
一つ目の橋のまわりから。市場があって、人がいちばん多いからだ。人の多いところから逃がすのは、まちがっていない。オルウェンもゆうべはうなずきかけた。
壁からはがしてきた図を、村長の机に広げるまでは。
「村長さん、順番を変えましょう」
夜明け前、オルウェンは言った。
「一つ目の橋は、石の橋で、いちばん丈夫です。水が来ても最後まで残る。先に沈むのは、三つ目の右の岸。あそこの家から先に、舟で出してください。それから二つ目の左。一つ目の市場は、そのあとでも間に合う」
「賢者様が、そうおっしゃるなら」
「私じゃありません。船頭さんと、私の弟子が、そう言っています」
村長は図をのぞきこんで、子どもの字に眉を上げた。それでも、順番を変えてくれた。
三つ目の右の岸の人たちは、夜明けとともに舟に乗った。今、その岸の家々は、もう軒下まで水に浸かりかけている。
中に人はいない。
オルウェンは図を筒に戻した。それから、二つ目の橋の上に立ち、両手を水のほうへ伸ばした。
*
霜が川岸を走った。
オルウェンの足元から、白い線が何本も伸びていく。冬の窓に咲く羽根のような模様が、橋のたもとの石を伝い、昔の用水路の溝を伝い、三つの橋のそれぞれの脚もとへ向かって枝を広げた。
《霜晶》。
川を止めることはできない。この量の水を全部霜に預けるなんて、どんな賢者にも無理だ。オルウェンが預けるのは、支流の一番先頭の、いちばん強く押してくる水だけ。それを霜の線に吸わせて、ほんの少しだけ、遅らせる。
霜の線がぎしっと鳴った。
二つ目の橋の左の脚にぶつかっていた渦が、ほんの少しゆるんだ。その上を、二つ目の左の岸の人たちが、荷物を抱えて渡っていく。
「急いで! でも走らないで!」
橋の向こうで村長が叫んでいた。
オルウェンの指先が、冷たくなっていく。霜に水を預けるたびに、腕から熱が抜けていく感じがした。
――左の脚の圧が、減る。
その代わりにどこかが重くなる。オルウェンは目を細めた。一つ目の、石の橋の脚に、さっきより高い波がぶつかっていた。二つ目で抑えた水が、行き場をなくして、隣へ回っている。
一か所を押さえれば、別の場所が押される。
水は、どこかへは行かなければならない。
オルウェンは霜の線の一本を、そっとほどいた。二つ目の橋の左で預かっていた水を、一つ目の橋の下の、まだ余裕のある流れへ順番に返していく。代わりに、二つ目の橋のたもとへ、新しい霜の線を一本伸ばして、次の先頭の水を預かる。
預けて、返して、また預ける。
渡っている列の、先頭がどこまで来たか。真ん中がどこにいるか。最後尾がまだ橋の手前か。オルウェンは列の動きに合わせて、三つの流れを順番に切り替えていった。
風を使えば、と一瞬だけ考えた。風で人を持ち上げて、向こう岸へ運ぶ。でも、風で一度に運べるのは、せいぜい子ども一人を何歩かだ。この人数を、この流れの上で、宙に浮かせたら、落ちる。
だから、橋を使う。舟を使う。人の足で渡ってもらう。オルウェンにできるのは、その足が渡りきるまでの時間を、腕で稼ぐことだけだった。
九時五十分、舟が一艘、上流から矢のように下ってきた。
谷からの伝令だった。舟は二つ目の橋のたもとで止まり、ずぶ濡れの伝令が筒を抱えて岸へ飛び降りた。
「賢者様に! 灰冠から!」
村長が筒を受け取り、封を切って、オルウェンの横で読み上げた。
「八時、北隧道、爆破。地下の支えが抜けて、谷の水が消えた。水の分かる者を求む。――イ」
オルウェンの指先で、霜の線が一本、ぴしりと音を立てた。
八時十分に書かれた札だった。今は九時五十分。一時間四十分前の、谷の知らせ。
――地下の支えが抜けた。
あの濡れ筋だ、とオルウェンは思った。弟子がひと月前に見て、写しにして母親に渡した、北隧道の下の濡れた筋。水を含んだ層。その層が裂けた。この濁った水は、そこから来ている。
谷へ行かなければならない。
行って、何ができるかは分からない。水の抜けた地下を、離れた場所から見通す術は、オルウェンにはない。行ってみなければ、何も分からない。
オルウェンは三つ目の橋を見た。
右の岸の、いちばん端。
水に浸かりかけた家々の並びの、いちばん奥に、一軒だけ、戸口に灯りのついた家があった。
「あの家」
「エゴン爺さんの家です」村長の顔が青くなった。「ゆうべ、舟に乗らなかったって……娘のところに行くって言ってたのに」
オルウェンが霜の線をほどけば、預かっていた水が一度に返る。三つ目の右の岸は、あっという間に屋根まで沈む。
かといって、このまま霜を張りつづけていたら、谷へは行けない。
「船頭さん」
オルウェンは、橋のたもとで舟の綱を握っていた年寄りに声をかけた。三橋のことを弟子に教えてくれた、あの船頭だった。
「あの家まで、行ってもらえますか。この流れなら、私が三つ目の右だけは、しばらく押さえていられる」
「行くよ」
船頭はもう舟に乗っていた。
「エゴンのやつ、どうせ山羊を置いていけねえって駄々こねてるんだ。山羊ごと乗せてくる」
舟が岸を離れた。
オルウェンは三つ目の橋の右に、霜の線を三本重ねた。腕が震える。指の先が白くなって、感覚がなくなりかけていた。それでも霜をほどかなかった。
舟が家の戸口に着く。年寄りが一人、戸口から出てきて、何かわめいている。船頭が何かわめき返している。それから、白い山羊が一頭、舟に放りこまれた。続いて、年寄りが、船頭に腕を引っぱられて、転がるように乗りこんだ。
舟が戻ってくる。
岸に着いた。
オルウェンは、霜の線を一本ずつ、預けた順番にほどいていった。三つ目の右の岸の家が、ゆっくりと水に沈んでいく。人のいない家だった。
*
「ベンノさん」
オルウェンは三橋の水守を呼んだ。村の用水を見ている、水の術の使える男だ。
「ここからは、あなたに任せます。水は、私がいなくても、もうこれ以上は上がらない高さまで下げておきました。二つ目の左の脚に、土嚢を足してください。あの脚だけは、今夜まで押されつづける」
「賢者様は」
「谷へ行きます」
ベンノは何か言いかけて、やめた。代わりに、厩から一番足の速い馬を引いてきてくれた。
オルウェンは懐中時計を見た。十時二十分。
谷まではふつうに行けば三時間。北の街道は切られているから、使えるのは東回りの古い道だ。それも、今朝の揺れで、どこが崩れているか分からない。
馬にまたがる前に、オルウェンは筒の中の図を、もう一度だけ広げた。
子どもの字の書きこみ。船頭さんの話。二つ目の左が先に押される。三つ目の右岸。
この図がなければ、右の岸の人たちは、市場のあとに回されていた。今朝、水が来たときにはまだ、あの低い家々の中にいた。
オルウェンは図を丁寧に巻いて、筒に戻し、外套の内側にしまった。
帰ったら、弟子に言うことがある。君の図で何人が舟に乗れたか。
馬の腹を蹴った。
東の道は、最初の坂を越えたところで、もう倒れた木にふさがれていた。




