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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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19/22

八時、足元から引く水

谷の朝は石の匂いがした。

 イレーネは北の石橋のたもとに立って、懐中時計の蓋を閉じた。七時四十二分。背中のほうでは、八十六人の列が、西の荷車道へ向かってゆっくり動きはじめている。荷車の車輪がきしむ音、子どもを呼ぶ声、鶏の籠ががたがた鳴る音。夜明けからずっと、谷じゅうがその音でいっぱいだった。

 前のほうからは、別の音が近づいていた。

 北の街道を下ってくる、たくさんの足音。

「来ます。前衛、三十ほど」

 副長のヨアヒムが、灰色のひげの奥から言った。五十を過ぎた古参で、イレーネが近衛に入ったころからの付き合いだった。

「三十なら、橋で止まるわね」

 イレーネは剣を抜いた。

 石橋は狭い。荷車一台がやっと通れる幅で、両側は北の沢へ落ちる崖だ。ここを越えなければ、敵は谷の奥へは入れない。こちらの兵は二十。列を守るために、その半分はもう後ろへ回してある。

「ヨアヒム、左。マレン、綱を張って右の崖を見て。フロリアン」

「はいっ」

 一番若い兵が声を裏返して返事をした。十九歳。初めての実戦だと、ゆうべ焚き火の前で言っていた。

「あなたは私の後ろ。私が下がれと言ったら、迷わず下がるのよ。前に出るのは、私の仕事」


  *


 グランゼルの前衛は、橋の向こうで横に広がって、それから一気に押してきた。

 イレーネは橋の真ん中で受けた。

 ヴァルディス流の守護剣は、守る位置から動かないための剣だ。一人目の剣を斜めに受けて、力を横の欄干へ流す。二人目の突きを、半歩下がって剣の腹で払う。三人目が肩を沈めた。上から来る。受けて、返して、その胸当てを柄頭で突いて、後ろの兵ごと押し戻す。

 橋の上で敵の足が止まった。

「そこまでよ」

 イレーネは左手を橋の石に置いた。

 石の継ぎ目から、赤い光がにじみ出した。熱い石がとろりと流れ出る。橋の向こう半分を横切るように、腰の高さの赤い壁がせり上がった。《緋堤》。表面はもう黒く冷えはじめているが、中はまだ赤く脈打っていて、近づいた敵の外套の裾がちりっと焦げた。

 前衛の兵たちが、一歩、二歩と下がった。

「下がるわね」ヨアヒムが言った。

「下がりすぎよ」

 イレーネは目を細めた。

 押し返されて下がるのなら、もっとばらばらに下がるはずだ。でも、向こうの兵は、まるで最初から決めていたみたいに、きれいにそろって、北の街道の上のほうへ引いていく。

 懐中時計を見た。七時五十八分。

 橋の向こうの崖を見上げた。北の崖の中腹に、黒い穴がある。北隧道。古い坑道の口。

 その下の岩肌には、レオの写しに描いてあったとおりの、黒い濡れ筋が何本も垂れていた。

「全員、橋から下がりなさい!」


 音より先に足の裏が揺れた。

 それから、腹の底を殴られたような響きが来た。北の崖の穴から、灰色の煙と砂が噴き出した。石のかけらが雨みたいに谷へ降ってきて、イレーネの肩当てをかんかんと叩いた。

 八時。

 北隧道が爆破された。

「空洞を崩して、谷を分けるつもりね」

 イレーネは煙の向こうをにらんだ。軍の古い図では、北隧道は空っぽの通路だ。そこを崩せば、谷の北と南の行き来が切れる。こちらの守りは、二つに分かれる。

 手としては悪くない。

 図が正しければ。

 煙がゆっくり晴れていく。穴の口は崩れて、ふさがっていた。そこまでは向こうの思いどおりだった。

 次の瞬間、足元の音が変わった。


 北の沢の水が、引いていた。

 石橋の下を流れていた水が、さっきまで膝の深さはあったはずの水が、見ているうちにみるみる低くなっていく。川底の石が、一つ、また一つと顔を出した。水は、川底の割れ目へ吸いこまれていた。

 ごぼっ、と、地面の下で何かが鳴った。

 イレーネは剣を下ろさないまま、膝をついて、橋の石に手を当てた。

 土の声を聞くのは、火より苦手だ。それでも分かった。下だ。北隧道の、さらに下。水を含んで、谷の底を支えていた層が、爆破で裂けた。裂け目から水が抜けていく。水が抜けたところから、支えが痩せていく。

 橋の向こうで悲鳴が上がった。

 北の街道の上のほう、敵の前衛が引いていった道の端が、ずるりと崩れていた。何人かの兵が、土ごと沢のほうへ滑り落ちていくのが見えた。向こうも、この崩れは知らなかったのだ。

「隊長、今なら」

 フロリアンが、イレーネの袖の後ろから身を乗り出した。

「今なら、追えます。向こうは崩れて――」

「追わない」

 イレーネは立ち上がった。

 橋の向こうの敵は、崩れた道の上で混乱している。今、橋を越えて斬りこめば、きっと何人も倒せる。この朝の勝負は、勝てる。

 でも、橋を越えれば、背中にいる八十六人との間に、この割れていく地面が挟まる。

 イレーネは、地面に走った細いひびの向きを見ていた。北から、南西へ。谷の底を斜めに横切って、西の荷車道のほうへ伸びている。

 八十六人が、今、歩いている道だった。


  *


「ヨアヒム、壁を切り替えるわ」

 イレーネは《緋堤》に手を当てた。

 橋の上の赤い壁は、まだ半分しか冷えていない。作りかけの壁は、熱を送るのをやめれば崩れる。イレーネは壁の根元だけを残して、上の半分の熱を抜いた。冷えた根元はもうただの固い石だ。これで、敵は当分、橋を越えられない。

 それから、走った。

 列のいちばん後ろまで、谷の底を一気に。足元で、地面がときどき、ずん、と沈む。そのたびにつま先で叩いてから、体重をのせた。ベルナルトの癖がうつったのだと、走りながら思った。

 列は、西の荷車道の手前で止まっている。

 荷車がひびに車輪をとられていた。道の真ん中に、さっきまでなかった段差ができている。荷台いっぱいに積んだ家財が傾いて、鍋や布団や、保流石の袋が、道にこぼれていた。

「荷を下ろしなさい!」

 イレーネの声が、谷に響いた。

「荷は倉庫の前の広場へ。持っていくのは、水と、食べ物と、薬と、毛布だけ。それ以外はあとで取りに来ればいい。谷は逃げないわ」

 ざわめきが起きた。泣きそうな顔で荷台にしがみつく女の人がいる。祖父の代からの道具だ、と叫ぶ男がいる。

 採掘頭のゴードが、荷車の上から飛び降りた。

「聞こえたろう! 下ろせ! 下ろさないやつの荷は、俺が下ろす!」

 大男が一つ目の袋を広場へ放り投げると、それからは早かった。人の手から人の手へ、荷が下ろされていく。

「担架は四つ。歩けない人の順番を決めるわ」

 イレーネは懐から、ゆうべ書いた名簿を出した。八十六人の名前の横に、小さな印をつけてある。足の悪い年寄り、生まれたばかりの赤ん坊のいる母親、熱を出している子ども。

「一番の担架は、粉ひきのウーテお婆さん。二番はアンネと赤ちゃん。担ぐのは、ハンネスと、運搬の若い人たち。交代の順番も今決めて。疲れてから決めるんじゃ遅い」

 運搬係のハンネスが、うなずいて仲間を集めた。

 足元でくいくいと袖を引かれた。

 ピアだった。両腕に小さな壺を一つ抱えている。

「これ、置いていかなきゃだめ?」

 壺の中身は言われなくても分かった。酸っぱい蕪の漬物だ。ゆうべ、イレーネも一切れもらった。

「食べ物は、持っていっていいのよ」

「よかった」

 ピアは壺をぎゅっと抱え直した。

「お妃さまも、あとで食べる?」

「もちろん。谷を出たら、お昼にしましょう」


 列がまた動きだした。荷車を捨て、身軽になった人たちが、西の荷車道を進んでいく。

 イレーネは列の最後尾に立って、もう一度懐中時計を開いた。八時十九分。

「ヨアヒム。この先の手順を言っておくわ」

 ヨアヒムが黙って、隊長の横に並んだ。

「前は兵が五人。列の真ん中に担架。後ろは私と、残りの兵。何かあったら、前から順に逃がす。私は最後に戻る」

 ヨアヒムがひげの奥で口を引き結んだ。

「隊長」

「最後に、よ。残るんじゃない。いちばん後ろを歩いて、いちばん後ろから帰るの。誰かがいちばん後ろを歩かなきゃいけないなら、足の速い人がやるのがいいでしょう」

「……あなたより足の速い者は、この谷にはいませんな」

「でしょう。だから、これは私の仕事」

 イレーネは笑って、時計をしまった。


 谷の底を、北の沢から引いた水が、どこへ行ったのか。

 イレーネが振り返ったとき、谷の出口のほうで、川の色が変わりはじめていた。割れ目に吸いこまれた水が、地面の下を通って、別の場所から噴き出している。灰色に濁った水が、谷の下流へ、三橋のほうへ、いつもの倍の速さで流れていった。


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