八時、足元から引く水
谷の朝は石の匂いがした。
イレーネは北の石橋のたもとに立って、懐中時計の蓋を閉じた。七時四十二分。背中のほうでは、八十六人の列が、西の荷車道へ向かってゆっくり動きはじめている。荷車の車輪がきしむ音、子どもを呼ぶ声、鶏の籠ががたがた鳴る音。夜明けからずっと、谷じゅうがその音でいっぱいだった。
前のほうからは、別の音が近づいていた。
北の街道を下ってくる、たくさんの足音。
「来ます。前衛、三十ほど」
副長のヨアヒムが、灰色のひげの奥から言った。五十を過ぎた古参で、イレーネが近衛に入ったころからの付き合いだった。
「三十なら、橋で止まるわね」
イレーネは剣を抜いた。
石橋は狭い。荷車一台がやっと通れる幅で、両側は北の沢へ落ちる崖だ。ここを越えなければ、敵は谷の奥へは入れない。こちらの兵は二十。列を守るために、その半分はもう後ろへ回してある。
「ヨアヒム、左。マレン、綱を張って右の崖を見て。フロリアン」
「はいっ」
一番若い兵が声を裏返して返事をした。十九歳。初めての実戦だと、ゆうべ焚き火の前で言っていた。
「あなたは私の後ろ。私が下がれと言ったら、迷わず下がるのよ。前に出るのは、私の仕事」
*
グランゼルの前衛は、橋の向こうで横に広がって、それから一気に押してきた。
イレーネは橋の真ん中で受けた。
ヴァルディス流の守護剣は、守る位置から動かないための剣だ。一人目の剣を斜めに受けて、力を横の欄干へ流す。二人目の突きを、半歩下がって剣の腹で払う。三人目が肩を沈めた。上から来る。受けて、返して、その胸当てを柄頭で突いて、後ろの兵ごと押し戻す。
橋の上で敵の足が止まった。
「そこまでよ」
イレーネは左手を橋の石に置いた。
石の継ぎ目から、赤い光がにじみ出した。熱い石がとろりと流れ出る。橋の向こう半分を横切るように、腰の高さの赤い壁がせり上がった。《緋堤》。表面はもう黒く冷えはじめているが、中はまだ赤く脈打っていて、近づいた敵の外套の裾がちりっと焦げた。
前衛の兵たちが、一歩、二歩と下がった。
「下がるわね」ヨアヒムが言った。
「下がりすぎよ」
イレーネは目を細めた。
押し返されて下がるのなら、もっとばらばらに下がるはずだ。でも、向こうの兵は、まるで最初から決めていたみたいに、きれいにそろって、北の街道の上のほうへ引いていく。
懐中時計を見た。七時五十八分。
橋の向こうの崖を見上げた。北の崖の中腹に、黒い穴がある。北隧道。古い坑道の口。
その下の岩肌には、レオの写しに描いてあったとおりの、黒い濡れ筋が何本も垂れていた。
「全員、橋から下がりなさい!」
音より先に足の裏が揺れた。
それから、腹の底を殴られたような響きが来た。北の崖の穴から、灰色の煙と砂が噴き出した。石のかけらが雨みたいに谷へ降ってきて、イレーネの肩当てをかんかんと叩いた。
八時。
北隧道が爆破された。
「空洞を崩して、谷を分けるつもりね」
イレーネは煙の向こうをにらんだ。軍の古い図では、北隧道は空っぽの通路だ。そこを崩せば、谷の北と南の行き来が切れる。こちらの守りは、二つに分かれる。
手としては悪くない。
図が正しければ。
煙がゆっくり晴れていく。穴の口は崩れて、ふさがっていた。そこまでは向こうの思いどおりだった。
次の瞬間、足元の音が変わった。
北の沢の水が、引いていた。
石橋の下を流れていた水が、さっきまで膝の深さはあったはずの水が、見ているうちにみるみる低くなっていく。川底の石が、一つ、また一つと顔を出した。水は、川底の割れ目へ吸いこまれていた。
ごぼっ、と、地面の下で何かが鳴った。
イレーネは剣を下ろさないまま、膝をついて、橋の石に手を当てた。
土の声を聞くのは、火より苦手だ。それでも分かった。下だ。北隧道の、さらに下。水を含んで、谷の底を支えていた層が、爆破で裂けた。裂け目から水が抜けていく。水が抜けたところから、支えが痩せていく。
橋の向こうで悲鳴が上がった。
北の街道の上のほう、敵の前衛が引いていった道の端が、ずるりと崩れていた。何人かの兵が、土ごと沢のほうへ滑り落ちていくのが見えた。向こうも、この崩れは知らなかったのだ。
「隊長、今なら」
フロリアンが、イレーネの袖の後ろから身を乗り出した。
「今なら、追えます。向こうは崩れて――」
「追わない」
イレーネは立ち上がった。
橋の向こうの敵は、崩れた道の上で混乱している。今、橋を越えて斬りこめば、きっと何人も倒せる。この朝の勝負は、勝てる。
でも、橋を越えれば、背中にいる八十六人との間に、この割れていく地面が挟まる。
イレーネは、地面に走った細いひびの向きを見ていた。北から、南西へ。谷の底を斜めに横切って、西の荷車道のほうへ伸びている。
八十六人が、今、歩いている道だった。
*
「ヨアヒム、壁を切り替えるわ」
イレーネは《緋堤》に手を当てた。
橋の上の赤い壁は、まだ半分しか冷えていない。作りかけの壁は、熱を送るのをやめれば崩れる。イレーネは壁の根元だけを残して、上の半分の熱を抜いた。冷えた根元はもうただの固い石だ。これで、敵は当分、橋を越えられない。
それから、走った。
列のいちばん後ろまで、谷の底を一気に。足元で、地面がときどき、ずん、と沈む。そのたびにつま先で叩いてから、体重をのせた。ベルナルトの癖がうつったのだと、走りながら思った。
列は、西の荷車道の手前で止まっている。
荷車がひびに車輪をとられていた。道の真ん中に、さっきまでなかった段差ができている。荷台いっぱいに積んだ家財が傾いて、鍋や布団や、保流石の袋が、道にこぼれていた。
「荷を下ろしなさい!」
イレーネの声が、谷に響いた。
「荷は倉庫の前の広場へ。持っていくのは、水と、食べ物と、薬と、毛布だけ。それ以外はあとで取りに来ればいい。谷は逃げないわ」
ざわめきが起きた。泣きそうな顔で荷台にしがみつく女の人がいる。祖父の代からの道具だ、と叫ぶ男がいる。
採掘頭のゴードが、荷車の上から飛び降りた。
「聞こえたろう! 下ろせ! 下ろさないやつの荷は、俺が下ろす!」
大男が一つ目の袋を広場へ放り投げると、それからは早かった。人の手から人の手へ、荷が下ろされていく。
「担架は四つ。歩けない人の順番を決めるわ」
イレーネは懐から、ゆうべ書いた名簿を出した。八十六人の名前の横に、小さな印をつけてある。足の悪い年寄り、生まれたばかりの赤ん坊のいる母親、熱を出している子ども。
「一番の担架は、粉ひきのウーテお婆さん。二番はアンネと赤ちゃん。担ぐのは、ハンネスと、運搬の若い人たち。交代の順番も今決めて。疲れてから決めるんじゃ遅い」
運搬係のハンネスが、うなずいて仲間を集めた。
足元でくいくいと袖を引かれた。
ピアだった。両腕に小さな壺を一つ抱えている。
「これ、置いていかなきゃだめ?」
壺の中身は言われなくても分かった。酸っぱい蕪の漬物だ。ゆうべ、イレーネも一切れもらった。
「食べ物は、持っていっていいのよ」
「よかった」
ピアは壺をぎゅっと抱え直した。
「お妃さまも、あとで食べる?」
「もちろん。谷を出たら、お昼にしましょう」
列がまた動きだした。荷車を捨て、身軽になった人たちが、西の荷車道を進んでいく。
イレーネは列の最後尾に立って、もう一度懐中時計を開いた。八時十九分。
「ヨアヒム。この先の手順を言っておくわ」
ヨアヒムが黙って、隊長の横に並んだ。
「前は兵が五人。列の真ん中に担架。後ろは私と、残りの兵。何かあったら、前から順に逃がす。私は最後に戻る」
ヨアヒムがひげの奥で口を引き結んだ。
「隊長」
「最後に、よ。残るんじゃない。いちばん後ろを歩いて、いちばん後ろから帰るの。誰かがいちばん後ろを歩かなきゃいけないなら、足の速い人がやるのがいいでしょう」
「……あなたより足の速い者は、この谷にはいませんな」
「でしょう。だから、これは私の仕事」
イレーネは笑って、時計をしまった。
谷の底を、北の沢から引いた水が、どこへ行ったのか。
イレーネが振り返ったとき、谷の出口のほうで、川の色が変わりはじめていた。割れ目に吸いこまれた水が、地面の下を通って、別の場所から噴き出している。灰色に濁った水が、谷の下流へ、三橋のほうへ、いつもの倍の速さで流れていった。




