札の時刻を並べる
伝令の札は、思っていたよりずっと小さかった。
手のひらに収まるくらいの薄い板に、油を引いた紙が巻いてある。紙に字を書き、板に巻き、革の筒に入れて封をする。それを川の拠点から拠点へ、舟と人の手で順番に運んでくる。
王宮の東の水門の脇、伝令の間は、天井の低い石の部屋だった。水門に面した窓から舟着き場が見え、反対側の扉は長い廊下を通って、父の執務室へつながっている。
昼すぎから、レオはずっとそこにいた。
「北の詰所、三の拠点経由。……これは、エドガー兄上の備蓄の便のことだ」
レオは筒から出した札を読み上げ、壁の板に留めた。フェリクスが帳面に書き写す。廊下で待っている当番の兵が、写しを持って執務室へ走る。
札は、思っていたよりたくさん来た。北の詰所から、谷の手前の村から、三橋の拠点から。どれも同じような板で、同じような紙で、書いた人の字だけが違った。
母の字の札はまだ一枚もなかった。
*
夕方、湿った空気といっしょに、セシリアが伝令の間に入ってきた。
「ここにいるって聞いたから」
赤みがかった栗色の一本結びが、少し乱れていた。走ってきたらしい。
「父上、昼に出たの。救援隊の先頭で」
「知ってる。見てた。先頭の馬、いちばん大きいのだった」
「北の街道を通って、夜のうちに谷の手前まで行くって」
セシリアはそれだけ言って、壁の板に留められた札を、端から順番に見はじめた。レオが何か言う前に、もう目が札の字を追っていた。
ベルナルトの名前のある札を探しているのだ、と分かった。
「まだ来てないよ。救援隊の札は」
「分かってる。来たら、私が持っていく」
セシリアは廊下のほうを振り返った。窓のない長い廊下は、夕方になるともう薄暗い。当番の兵が、壁の燭台に火を入れる前に、何度かつまずきかけていた。
「あの廊下、暗いでしょ。私、光で照らせるから」
日が沈むと、舟の数が増えた。
札が次々に来る。レオは筒を開け、読み、壁に留める。セシリアは写しを持って、指先の光で足元を照らしながら廊下を走る。フェリクスは帳面をつけ、空いた手で筒を元の舟へ返す。
三人の手が、少しずつ同じ速さで回りはじめた。
その中に、一枚、レオの手を止めた札があった。
「――北の街道、異状なし。救援隊の受け入れ、関所にて準備よし」
レオは顔を上げた。
「北道、大丈夫だって。これなら、セシリアの父上の隊も――」
「待ってください」
フェリクスがレオの手から札を取った。札の端、紙の折り返しのところを指でめくる。小さな字で数字が書いてあった。
「これ、書いた時刻は今朝の九時です」
「え?」
「書いたのが九時で、ここに着いたのが、今です」フェリクスは窓の外を見た。空は群青色に暮れていた。「十時間かかってます。拠点のどこかで、ずっと止まっていたんだと思います」
レオは札の字をもう一度見た。
異状なし。今朝の九時には、そうだった。でも、それから十時間のあいだに、何が起きたかは書いていない。書けるわけがない。
セシリアが、廊下の入り口で立ち止まっていた。
「……一番新しい札だと思った」
レオは言った。自分の声が少しかすれていた。
「僕、今、いちばん新しい知らせだと思って読んだ」
「着いたのが一番新しいだけです」
フェリクスは帳面を開き、頁の真ん中に線を一本引いた。左に「書いた時刻」、右に「着いた時刻」。
「全部、二つに分けて書きます。壁の札も、書いた時刻の順に並べ直しましょう」
三人で壁の札を全部はがした。書いた時刻の順に並べ直すと、さっきまで「最新」の場所にあった札のいくつかが、ずっと前のほうへ下がっていった。逆に、昼に着いて隅に留めていた札が、夕方の知らせより後に書かれていたことも分かった。
壁の板の上で、知らせの順番が、がらりと入れ替わる。
セシリアが、並べ直した列を、光で端から照らしていった。
「こうすると、道の地図みたい」
「地図? 札が?」
「どこまで分かってて、どこから先が分かってないか。線が切れてるとこが見える」
レオは列を見た。北の街道の知らせは、今朝の九時で切れていた。そこから先は空白だった。
*
夜が更けたころ、舟着き場で大きな水音がした。
舟が着いたのではなかった。舟から人が、石段に這い上がってきた音だった。若い伝令が、頭から足の先までずぶ濡れで、革の筒を胸に抱えていた。
「三橋の、下で……水が、急に上がって……舟が傾いて」
筒の封は切れていた。中の札を出すと、紙はぐっしょりと水を吸って、板に張りついていた。インクがにじんで、字が雲みたいに広がっている。
レオは札を作業台に置き、両手をかざした。
紙の繊維の中にしみこんだ水を、そっと引く。速く引くと、インクまで連れていってしまう。だから、紙の裏側から、少しずつ。干し場の雲の底を冷やすときくらい、ゆっくりと。
水の粒が、紙の裏から一粒ずつ浮き上がって、作業台に転がった。紙が乾いていく。
でも、にじんだ字は、にじんだままだった。
「読める?」
セシリアが光を近づけた。
「……北、道。それから、たぶん、切。あとは三、橋? 水」
レオは顔を上げて、濡れた伝令を見た。名前はヤコプといった。暖炉の前で毛布にくるまれて、まだ歯をかちかち鳴らしていた。
「ヤコプさん。これ、渡されたとき、渡した人は何か言ってた?」
「言って、ました」
ヤコプはがたがた震えながら、それでもはっきり答えた。
「北の街道の、関所の先で、道が切られたって。敵が橋を落としたって。それと、三橋の水が上がってるって。賢者様が、もう来てて、見てるって」
二つだ、とレオは思った。
北道が切られた。三橋の水が上がっている。二つの、別々の知らせ。にじんだ一枚の札の中で、一つにくっついている。
「フェリクス、札、二枚」
レオは新しい紙を二枚取り、一枚目に「北の街道、関所の先で遮断」、二枚目に「三橋、増水。賢者が監視中」と書いた。両方に、元の札の書いた時刻と、着いた時刻と、ヤコプから聞いたと書き添えた。
「セシリア、これ」
セシリアは二枚の札を受け取った。一枚目を見て、息をのんだ。救援隊はその北の街道を進んでいる。
それから彼女は、何も言わずに光を灯して、廊下を走っていった。
しばらくして、廊下の奥から足音がふたつ、戻ってきた。セシリアと、父だった。
父は伝令の間に入ってくると、壁の札の列を、端から端まで黙って見た。書いた時刻の順に並んだ列を。北の街道の知らせが、今朝の九時で切れているところを。
「ベルナルトの隊を、東の尾根道へ回す」
父は言った。
「北道を捨てて、谷の南側から入らせる。遠回りになるが、尾根道なら橋がない。……この並べ方は、誰が考えた」
「フェリクスです」
「レオです」
父は二人の顔を見比べ、少しだけ目を細めて、伝令の兵に命令の札を書かせ、その場で舟を出させた。
セシリアは、出ていく舟が見えなくなるまで、窓に張りついていた。
*
母の札が着いたのは、真夜中を少し過ぎたころだった。
大きくて、右上がりで、ところどころはねる字。レオは筒を開けた瞬間に分かった。
――十七時、谷に着。八十六名、一人ずつ名を確かめた。夜の谷道は荷車が落ちるので、明朝、夜明けに出す。ピアに漬物をもらったわ。酸っぱい。 イ
「……酸っぱい、だって」
レオは札を持ったまま、小さく笑った。フェリクスも、セシリアも、のぞきこんで、つられて笑った。
書いた時刻は、十七時。着いたのは、今。七時間ぶんの空白が、この札の後ろにある。
レオは札を、壁の列のいちばん上に留めた。書いた時刻の順からは外れる。でも、そこに留めた。約束だった。
そのまま作業台に戻った。返事は書かない。書いても川を上っていく舟はない。窓の外の舟着き場に、また一艘、灯りが近づいてきていた。
レオは次の濡れた札を受け取り、両手をかざした。
*
同じ夜、北の関所の向こう、グランゼル国境軍の天幕では、ランプの火が低く揺れていた。
「北隧道の口の下に、新しい濡れ筋があります」
工兵隊の若い中尉、ディートマーが、地図の上に紙を一枚置いた。手描きの図だった。崖の穴と、その下に垂れる黒い筋。
「軍の古図では空洞ですが、下の層が水を含んでいるおそれがあります。爆破すれば、空洞だけでなく、下の支えごと――」
「図には、空洞とある」
机の向こうの男が、紙を見もせずに言った。
国境軍参謀長ヴァルター。細い指で、自分の書いた命令書の端をそろえていた。
「その図は二十年前のものです」
「では、二十年間、空洞だったのだろう」
ヴァルターは命令書の一番下に署名をした。北隧道の爆破。谷の守りを南北に分け、資源の搬出路を確保する。採掘民が残れば、残ったぶんだけ、あとで使える手が増える。
「ディートマー中尉。君の紙は受け取った。受領の印も押そう」
ヴァルターは中尉の紙の隅に、受領の印を押した。それから、その紙を命令書の束のいちばん下へ、裏返しに重ねた。
「明朝、八時に」




