父が空けられない門
「八十六」
母が、地図の上の小さな紙を指で押さえて読み上げた。
夜明け前の執務室は、燭台の明かりだけが机の上に集まっていた。大きな机いっぱいに、ルーデンの北半分の地図が広げてある。王都ローヴェン、北の街道、三橋、そして北東の山あいに、灰冠鉱谷。谷のところに、誰かの字で「採掘民 八十六名」と書いた紙が針で留めてあった。
その少し上、北の街道の先には、黒い駒がいくつも並んでいた。グランゼルの国境軍だ。
「夜中のうちに、北の関所の向こうへ三隊。旗は国境軍の本隊のものです」
北の詰所から来た伝令が、泥のついた長靴のまま報告した。
「狙いは、北隧道の口のあたりかと」
レオは部屋の隅で、フェリクスと並んで立っていた。
呼ばれたのだ。夜中に侍女に起こされて、上着を羽織って来てみたら、父と母と第一妃マルグリット、それに兄たちがもう机を囲んでいた。父は子どもに事実を隠さない。分かっていたつもりだったけれど、こんな時間に、こんな地図の前に呼ばれるとは思っていなかった。
「北隧道……」
レオは小さくつぶやいた。
ひと月前、南旧道から見上げた、北の崖の黒い穴。その下の岩肌に垂れていた、新しい濡れた筋。軍の図には「空洞」と書いてあった。
*
父アルベルトは、黒い駒の並びをしばらく見ていた。
「やらなければならないことは、二つある」
いつもどおりの、落ち着いた声だった。
「一つは、灰冠の八十六人を谷から出すこと。もう一つは王都の北門を守ること。どちらか一つなら、楽なんだがな」
「全軍で谷へ行けばいいじゃないですか」
ユリウスが言った。十四歳の次兄は、拳を地図の端に置いて身を乗り出している。
「八十六人を守って、敵を押し返して、それで終わりでしょう」
「それをすると、ここが空く」
父は北の街道を、指でなぞった。谷の手前で道は二つに分かれる。一本は谷へ。もう一本はまっすぐ王都の北門へ。
「向こうが谷のほうへ見せている駒が全部とは限らない。全軍を谷へ出した次の日に、北門の前に別の三隊が並んでいたら、王都の四万人と、下流の三橋の村が、守る者のいないまま残る」
ユリウスは口を開けて、それから閉じた。
長兄のエドガーが、手元の帳面から顔を上げた。十七歳。背丈はもう父とほとんど変わらない。
「北門に兵を置くなら、備蓄の便を増やします。北の倉は春の便が遅れてて、今のままだと半月もちません。今日のうちに南の倉から荷車を回します」
「頼む」
「僕は、国境の使節の館へ手紙を出します」ユリウスが言い直した。「向こうの将軍に、止める気があるのかどうか。言葉で済むなら、そのほうが早い」
「頼む。言葉はきつくしすぎるな」
「……はい」
父は地図の上の、灰冠の紙に目を戻した。
「残るのは、谷だ」
北の街道が切られれば、王都から谷へ行く早馬の道は使えない。谷には北の詰所の兵が少しいるだけで、八十六人を連れて逃げる道を作れる者がいない。
母が椅子から立ち上がった。
「私が行くわ」
誰もすぐには何も言わなかった。
母は軍装の上着を椅子の背から取って、袖に腕を通しながら続けた。
「谷の中の道なら、私がいちばんよく知ってる。北の詰所の資料に、レオの描いた南旧道の写しも添えてあるしね。それに、崩れそうな道を、崩れない道に変えるのは、私の得意よ」
火と土の守護剣聖。母の《緋堤》は、熱い石を流して、冷えたところから順番に固い石に変えていく術だ。足場のないところに、足場を作れる。
父は母を見た。
レオは、父がこんな顔をするのを初めて見た。何か言いたいことを、口の中で一つずつ確かめて、捨てているような顔だった。
「……ベルナルトの隊を、昼に出す」
やがて父は言った。
「近衛の救援隊だ。お前が道を作る。ベルナルトが着いたら、指揮と道をあいつに渡して、お前は下がる。交代が来たら、運ばれる側に回れ。それが条件だ」
「運ばれる側ね」
母は上着の留め具をとめながら、片方の眉を上げた。
「素直に担がれてあげるわよ。ベルナルトの肩の上は、さぞ眺めがいいでしょうね」
マルグリットが、小さく息を吐いた。笑ったのか、ため息なのか、レオには分からなかった。第一妃は母の手をとって、指先を一度だけ握った。
「帰ってきたら、あなたの好きな干し杏の菓子を焼かせておくわ」
「たくさんね。今度は兄弟喧嘩にならないくらい」
*
レオは、地図の上の「八十六」を見ていた。
数字だった。紙切れに書かれた、ただの数字。
でもレオには、その数字の中にいる人の顔が、何人か分かった。灰色の粉まみれで、笑うと歯だけ白いゴード。自分の漬物を一切れ、こっちのパンにのせてくれたピア。酸っぱかった。荷車の道を案内してくれたハンネス。崖に紐を張って、道の幅を測り直していたイーダ。
坑道の前の岩に座って、みんなで黒パンをかじった。あの昼の、あの岩の上にいた人たちが、この紙一枚の中にいる。
「父上」
声が出ていた。
部屋じゅうの目が、こちらを向いた。レオは喉の奥がきゅっと縮むのを感じたが、言いかけたことは最後まで言った。
「僕も、何か手伝いたい」
連れていってほしい、とは言わなかった。言えば、母はきっと笑って断る。父は、断る理由を一つずつ丁寧に並べる。そしてどちらも正しい。谷は早馬で六時間。十一歳の子どもが一人増えれば、母が守らなければいけない数が一つ増えるだけだ。
「北の街道が切られたら、知らせは川を下ってくるんでしょう。水路の伝令」
レオは地図の、谷から王都まで続く川の線を指さした。三橋を通って、王宮の水門まで。
「伝令の札、濡れて届くことがあるって、前にハンネスが言ってた。インクがにじんで読めなくなるって。僕、紙から水だけ抜けるよ。字を流さないで。それに、札を並べるのも得意」
父は少し黙った。
「伝令の間は、王宮の東の水門の脇だ。夜も人が詰める。眠くなっても、そこで寝るなよ」
「寝ない。眠くなったら、自分の顔に水をかける」
「フェリクス、一つ頼みがある」
「はい。何なりと」
「レオが寝たら、起こさずに毛布をかけてくれ」
「……はい」
フェリクスの返事が、ほんの少し遅れた。レオは横目で相棒をにらんだが、フェリクスはもう、まっすぐ前を向いていた。
話が終わりかけたころ、扉が叩かれて、オルウェン師匠が入ってきた。研究着の上に旅の外套を羽織り、腕に筒を一本抱えている。
「三橋へ行くよ」
師匠は地図の、三つの橋のところを指でとんとんと叩いた。
「北のほうで何かが崩れれば、北の沢の水が増える。増えた水は、二つ目の橋の左の脚を押して、三つ目の橋の右の岸から沈める。年寄りの船頭さんが、そう言っていたそうだ」
レオは師匠の腕の筒を見た。
見覚えのある紙の端が、筒の口からのぞいていた。
「それ……」
「研究室の壁から、はがしてきた」
師匠は筒を少し持ち上げてみせた。この春、レオが三橋で描いた流れ図だった。橋の脚にぶつかる渦。北の沢から来る灰色の支流。船頭の言葉。
「借りていくよ。私が三橋を見たのは、もう何年も前だからね。君の図のほうが新しい」
*
母が王宮を出たのは、朝の鐘が鳴ってすぐだった。
中庭に、母の隊の馬が二十頭あまり並んでいた。近衛の朝の調練の顔ぶれが、そのまま鎧を着ている。母は自分の馬の手綱を兵に預けて、回廊の下で待っていた侍女のエマのところへ行った。
エマは両腕にたたんだ服を抱えていた。母のふだん着だった。稽古着でも軍装でもない、夕食のときに着る、袖の短い、紅鈴草みたいな赤い色のほう。
「帰った日に着るから、寝台の上に出しておいて」
「はい」
「袖の短いほうよ。長いほうは、肩が凝るの」
「存じております」
エマは何度もうなずいていた。うなずくたびに、服を抱く腕に力が入っていくのが見えた。
母は振り向いて、レオを見つけた。
レオは回廊の柱の横で、どう立っていればいいのか分からないまま立っていた。何か言わなきゃいけない気がした。行ってらっしゃい、とか、気をつけて、とか。どれも、口にしたとたん、軽くなってしまいそうだった。
母はすたすた歩いてきて、レオの前にしゃがんだ。
「伝令の札を並べるんですって?」
「うん。届いた順に、全部。にじんだのは、乾かしてから」
「じゃあ、私の札は、いちばん上に置いてね。字が汚くても」
「汚いのは知ってる」
「言うわね」
母は笑って、レオの頭をくしゃくしゃにした。それから、左の袖を、レオの目の前でひらひらさせた。
「前の勝負で、右を取られかけたでしょう。帰ったら続きよ。今度は左を守るわ」
「じゃあ右を取る」
「取れたらね」
それだけだった。
母は立ち上がり、馬のほうへ歩いていった。途中で一度、肩越しに振り返った。
「窓辺の鉢に、札をかけておいたわ。見ておきなさい」
それから馬に乗り、門のほうへ馬首を向けた。蹄の音が中庭の石畳に響き、隊列が門をくぐり、北の街道のほうへ曲がって、見えなくなった。
マルグリットが、黙ってレオの肩に手を置いた。
*
レオは走って、母の部屋の前の窓辺へ行った。
素焼きの鉢の紅鈴草は、花の季節を少し過ぎて、細い葉ばかりになっていた。その縁に、小さな木の札が、紐で結んで下げてある。
母の字だった。大きくて、右上がりで、ところどころはねている。
――帰った日の夕方。窓辺。一番。
――雨は小さいのでいいわ。
レオは札を指でつまんで、裏返した。裏には何も書いていなかった。表に戻して、もう一度読んだ。
「小さいのでいい、だって」
後ろに来ていたフェリクスが、のぞきこんだ。
「前に、レオが手紙に書いたやつですね。今度は、小さいのを見て、って」
「覚えてたんだ」
「レオのお母上ですから」
レオは札を元どおり鉢の縁に下げた。紐の結び目を、少しだけ固くした。
東の水門のほうから、鐘が一つ鳴った。伝令の間の鐘だった。最初の舟が着いたのだ。




