消したあとに流れるもの
オルウェン師匠の研究室は、王宮の西の塔の三階にある。
扉を開けると、雨上がりの石畳みたいな匂いがする。壁一面の棚には硝子の器と標本の石と、背表紙の色が抜けた本がぎっしり詰まっていて、窓辺では細い管を伝う水が、上から下へ、下から上へと、ゆっくり行き来している。
その日の午後、レオは棚から本を抜いては机に積み、積んではめくっていた。
六賢者の本をここにあるだけ全部。火の賢者アグニアの『熱の行き先』、風の賢者セーレンの『見えない川の地図』。土の賢者オルドの『深脈論』は両手でやっと持ち上がる革表紙で、めくると、地下の水の流れを一つの中心から止めたり動かしたりする図がびっしり並んでいた。きれいなのに見ていると息が詰まる。レオは三頁で閉じた。
探しているのは、昨日の青い光の名前だ。雷、稲妻、閃光。それらしい言葉はいくつも出てくる。でもどれも空から落ちてくるものの話で、素焼きの鉢の縁を半周走って消えるような光のことは、どこにも書いていない。
「師匠、ほんとに知らないの」
「知らないね。知っていたら、昨日の朝、もっと偉そうな顔をしていたよ」
机の向こうで、オルウェンはあっさり言った。
「四十年ちょっと水と風をいじってきたけれど、ああいうものは初めて見た。嵐の夜の空に似たものはある。でも、あれと同じかどうかは分からない」
レオは本の山に顎を乗せた。
「賢者なのに。世界に六人しかいないのに」
「賢者だからだよ。分からないものを分かったふりをすると、あとで十年ぶんくらい恥をかく」
師匠は椅子から立ち上がった。
「私が言うんだから間違いない。――おいで。今日は私の術を一つ見せよう。君の光とは関係ないかもしれないけど、関係あるかもしれない」
*
作業台の上に、空の硝子の杯が三つ置かれた。
一つは師匠の手元に。一つは台の真ん中に。一つは台の端、腕を伸ばしても届かないくらい離れたところに。杯と杯の間には、台に彫られた浅い溝が一本ずつ走っているだけで、水は一滴も入っていない。
師匠は手元の水差しから、細い管へ水を流した。管の先には、手のひらほどの白い塊がある。霜だった。冬の朝、窓の内側に咲く羽根みたいな模様の霜が、拳くらいの大きさにぎゅっと固まっている。霜からは、白い糸のような霜の線が三本、溝に沿って、それぞれの杯の足元まで伸びていた。
「《霜晶》」と師匠は言った。「水と風を合わせて作る、創成の術だ」
管から流れた水が、霜に吸いこまれていく。霜は大きくならなかった。代わりに、表面の羽根模様が少しずつ形を変えていく。右へ枝分かれし、左へ伸び、また右へ。
「水を、霜の中に預けている。量じゃなくて、流れ方をね。どっちへ、どの順番で、どれだけ流れたか」
師匠は水差しを置き、霜に指先をそっと当てた。
「では、返してもらおう」
霜がほどけはじめた。
手元へ伸びた一本目の霜の線が、すうっと透明になった。溶けた線を伝って、水がひと筋、溝を走る。手元の杯の底に、ちょろりと水が溜まりはじめた。
手元の杯が半分まで満ちたところで、一本目の線の流れがぴたりと止まり、今度は二本目の線が溶けだした。
「あ」
レオは思わず声を出した。
二本目が止まると、最後に三本目。台の端まで伸びた細い霜の線が、根元から順番に透きとおっていき、誰も触っていない遠い杯の底へ、迷いのない水を送りこんでいく。
霜は消えていた。三つの杯に同じ高さの水が残っていた。
「……順番、守った」
レオの声はほとんどささやきだった。
「最初に流した順に、最初に流した場所へ。霜が溶けるとき、預けた順番どおりに返すんだ」
「量は? この台いっぱいとか、できる?」
「たいして預けられない。杯三つぶんがやっとだ。それに、霜を作るときの温度がずれると順番が狂う。何年も失敗したよ」
「何年? 僕が生まれる前から?」
「十一年かな。君が生まれる、ずっと前からだ」
師匠は笑った。
「最初の三年は、三つ目の杯にたどり着く前に、全部台の上にこぼれていた。この部屋の床が乾いた日はなかった。あの頃の私の弟子がいたら、きっと私に雑巾を投げつけていた」
レオは昨日の温室の床を思い出した。それから、三度も雲を崩した自分を。
十一年。それだけかけた術を、師匠は今、杯三つぶんの水のためだけに見せてくれた。
*
「やってみていい?」
「どうぞ。ただし、作業台の上だけで」
昨日の光は術をほどいた瞬間に出た。だったら、もっとたくさん術を重ねて、まとめてほどけば、もっと大きく出るかもしれない。
レオは火で水を温め、風で湯気を回し、水で冷やした。三つの属性をぜんぶ同時に、昨日より強く。皿の上に、手のひらほどの小さな雲ができる。
「よし、ほどく」
全部いっぺんに切った。
ばしゃっ、と雲が皿に落ちた。それだけだった。水が皿からあふれて作業台を伝い、レオの膝を濡らした。
「……出ない」
「出なかったね」
「なんで。昨日より強くしたのに」
オルウェンは雑巾を放ってよこし、さっき霜が溶けたあたりを指でとんとん叩いた。
「昨日と今日で、何が違う?」
「強さ」
「それだけ? 皿だって、昨日の鉢とは違う顔をしているけどね」
レオは膝を拭きながら考えた。昨日は鉢、今日は皿。昨日は外側に風の輪を回して、今日は回していない。昨日は――
「消す順番」
昨日はひとつずつほどいた。火、冷たさ、最後に風の輪を外からゆるめて。今日は全部いっぺんに切った。
「三つも四つも変えたら、どれのせいで光ったのか分からないや」
口に出してみて、レオはそれが自分の言葉なのか、師匠に昔言われた言葉なのか、よく分からなくなった。どちらでもいい、と思った。
「今日は、風の消し方だけ変える」
小さな雲を作り、外側に風の輪を回し、雨を三粒だけ降らせて、止める。
一回目は、火を消し、冷たさを解いてから、風の輪を内側から順にほどいた。光らない。皿の上の水滴も、じっとしたままだった。
二回目も同じように作って、今度は風の輪を、昨日と同じく外側からゆるめた。
光らない。
でも水滴が動いた。
皿に残っていた三粒が、ゆっくりと皿の片側へ寄っていく。術はもう何もかかっていないのに。昨日、鉢の縁で見たのと同じ動きだった。
「師匠」
「見えているよ」
オルウェンの声が、さっきより低かった。
師匠は棚から薄い紙束を引き抜いて作業台に広げた。霜晶の失敗記録だった。何十枚もの紙に、杯と、霜の羽根模様と、矢印が描いてある。師匠はその中の一枚を指で押さえた。
霜が溶けるときの、こぼれた水の跡の図だった。霜の外側が先に溶けてしまった回だけ、水がいつも同じ片側へ寄っている。矢印の向きが皿の上の水滴と同じだった。
「……ほどいたあとも、流れが残ってる」
レオは言った。
「術は終わったのに。外から先にほどくと、内側の流れが、逃げ道を探して寄っていくんだ。たぶん」
「たぶん」と師匠は繰り返した。「でも、いい『たぶん』だ」
師匠は紙束をめくった。四十枚目にも、五十枚目にも、同じ形の矢印があった。どれも余白に、小さな字で「温度ずれ」と書いてある。
「私はこれを、霜を作るときの温度がずれたせいだと思っていた。温度を直せば消える癖だとね。十一年、ずっとそう書いてきた」
オルウェンは「温度ずれ」の字を指でなぞった。
「術を消したあとに、流れのほうが残っていたのか。君の皿と並べるまで、そういう読み方をしたことがなかった」
レオは、賢者が自分の失敗の紙を見つめているのを見ていた。気がつくと、作業台の縁を両手でつかんでいた。離したら、どこかへ走っていってしまいそうだった。
「師匠、その紙、捨てないでね」
「捨てないよ。今日から、捨てられなくなった」
*
窓の外が橙色になるころ、レオは本の山を棚に戻しながら、ふと手を止めた。
セーレンの本の見返しに、小さな肖像と略歴が載っている。風。属性は一つだけだ。
「師匠。セーレンって、風しか使えないの」
「そうだよ。風ひとつで、賢者の席に座っている」
「師匠は水と風で二つ。アグニアは三つ。……賢者の席って、属性が多い順じゃないんだ」
「その属性を、いちばん深く知っている人が座る席だからね」
オルウェンは杯を片づけながら言った。
「セーレンの風は、私の風より十倍は細かい。あの人に言わせれば、私の風なんか扇子であおいでいるのと変わらないそうだ。……悔しいけど、本当だ」
レオは本を棚に押しこみ、振り返った。
火も水も風も三つとも好きだ。でも、鉢の上の雨と、順番を守って満ちた三つの杯と、皿の端へ寄っていった三粒のことを考えると、胸のいちばん奥で鳴っているのは、水の音だった。
「じゃあ、僕、水の席がいい」
言ってから、少し顔が熱くなった。
「師匠の席を取るって意味じゃなくて。いつか、師匠が座ってる机の、隣くらいに」
オルウェンは杯を拭く手を止めて、弟子を見た。
それから、笑わずにうなずいた。
「なら、まずは明日の実験の準備だね。今日の皿は私のだ。同じ条件で比べたいなら、同じ形の皿が、少なくとも三枚いる」
「三枚……」
レオは研究室の棚を見回した。師匠の器はどれも形がばらばらで、一つとして同じものがない。
「買いに行く。今から。まだお店、開いてるよね?」
レオは塔の窓に飛びついた。中庭を見下ろすと、詰所の前の石段で、フェリクスが膝に帳面を広げ、何かを数えている。
「フェリクス!」
窓から身を乗り出して叫ぶと、相棒が顔を上げた。
「皿を三枚買いたい! 予算って、いくらある?」
三階下から、落ち着いた声が返ってきた。
「なぜ私が答える前提なんですか」
そう言いながら、フェリクスはもう帳面の頁をめくっていた。




