四手目が待っている
練兵場の砂は、朝露を吸って黒っぽく湿っていた。
「三手」
木剣を下げたまま、ベルナルトが言った。
「今日はそれだけだ。三つ受けきったら、あとは好きにしていい」
「好きにって、温室に戻っていいってこと?」
「師匠のところでも、温室でも、厨房でも」
レオは思わず木剣を握り直した。ベルナルトの稽古は、いつもなら朝の鐘から次の鐘まで続く。それが三手で終わるなら、昨日の青い光の続きを、朝のうちに試せる。
「構え」
レオは構えた。
構えながら、頭の隅では素焼きの縁を半周走った青を追っていた。風の輪をほどいた順番のせいか、それとも鉢の素焼きのほうか。師匠は外側からゆるめたのがどうとか言っていた。もし皿でも同じことが起きるなら――
こん、と額に何かが当たった。
木剣の切っ先だった。ベルナルトが、ほとんど力を入れずに、レオの額に置いていた。
「一手目」
「……今の、なし」
「なしにしたければ、なしにしてやる」ベルナルトは剣を戻した。「その代わり、何を考えていた」
「昨日の、温室の。……あ、肩は見てた。見てたつもり」
「光か」
レオは目を丸くした。
「なんで知ってるの。まだ誰にも――あ、母上?」
「朝食の席で、イレーネ様が三回話した。四回目は陛下が止めた」
ベルナルトの眉が、ほんの少し動いた。この人はそれで笑っていることになる。近衛でいちばんの剣を持ち、王宮でいちばん表情の動かない男だった。
「魔術のことを考えるなとは言わん。お前から魔術を取ったら、残るのは寝癖くらいだ」
「ひどい。寝癖は毎朝ちゃんと直してる。……三日に一回は」
「ただ、剣を持っている間は、見る場所を二つにしろ。相手の肩と、自分が帰る足場だ。それ以外は終わってから考えろ」
肩と、足場。
レオは頷いて、構え直した。
一手目は肩を見ていたら分かった。右肩がわずかに沈む。上から来る。レオは木剣を斜めに立てて受け、衝撃を横へ流した。母に何十回も直された角度だ。母とベルナルトは同じヴァルディス流の剣聖で、受けの角度にだけは、二人とも寸分の甘さも許さない。
二手目も分かった。肩が引かれる。突き。半歩下がって、剣の腹で払う。
――いける。
そう思った三手目、ベルナルトの剣は、レオの剣ではなく、その横を通り過ぎた。
打たれない。代わりにベルナルトが一歩、前へ出た。大きな体が壁のように迫ってきて、レオは押されるように下がった。一歩、二歩。三歩目の踵が硬いものに当たった。
振り返らなくても分かる。練兵場の端に並ぶ、背の低い柑橘の鉢だ。兵士の目が休まるようにと、母が置かせたものだった。
下がれない。
手首に風を集めかけた。剣を風で押し返せば、ベルナルトの剣くらい弾ける。昨日の雲よりずっと簡単だ。
「それをやったら、三手からやり直しだ」
剣の向こうから、静かな声がした。
レオは歯を食いしばって、風を手首からほどいた。ベルナルトの木剣が、とん、とレオの胸に触れた。
「三手目、取られたな」
「植木鉢がなければ、受けてた」
「戦場にも植木鉢はある。荷車だったり、怪我人だったり、お前の母上の大事な花だったりする」
レオは黙った。言い返す言葉が、すぐには見つからなかった。
*
「もう一回」
「何回でも」
二度目も、三手目で植木鉢に追いこまれた。三度目も同じだった。ベルナルトの三手目は毎回同じで、レオも毎回、同じ場所へ下がっていた。
四度目の構えに入る前、フェリクスが練兵場の端からすたすたと歩いてきた。手に、拳くらいの白い小石を三つ持っている。
「ちょっと、失礼します」
フェリクスは砂の上にしゃがみ、レオの足元から斜め後ろへ向かって、小石を一つ、二つ、三つと置いた。三つ目は植木鉢のすぐ手前だった。
「なにそれ。石の並べっこ?」
「レオの踵が着いた場所です。三回とも、ほとんど同じでした」
レオは小石を見た。まっすぐ後ろ。一直線に鉢へ向かって並んでいる。
ちゃんと受けて、ちゃんと下がっているつもりだった。でも横から見れば、決まった線の上を、鉢へ向かって後ずさっていただけだ。
昨日の雲みたいだ、とレオは思った。
「……後ろじゃなくて、横」
小声で言って、構えた。
一手目、受ける。二手目、払う。
三手目、ベルナルトが前へ出る。
レオは下がらなかった。受けた剣を相手の剣に添わせたまま、半歩だけ右へ踏み替える。押してくる力が、レオの体の横を素通りしていく。さっきまで真後ろにあった植木鉢は、いつの間にか左手のずっと遠くにあって、踏み替えた足の下には、まだ乾いた砂が残っていた。
ベルナルトの剣が止まった。
練兵場が静かになった。見物していた若い兵士の誰かが、小さく口笛を吹いた。
「……三手」
レオは木剣を下ろし、ベルナルトを見上げた。顔が勝手に笑ってしまう。
「三手、受けた! 受けたよね! 今の――」
こん。
額に、木剣の切っ先が置かれていた。
「四手目」
「さっき、三手って!」
「三手受けたら好きにしていい、と言った」ベルナルトは剣を引かずに言った。「好きにしていいのと、構えを解いていいのとは別だ。稽古は、俺が剣を下ろすまで終わらん」
レオは口を開け、閉じ、また開けた。
三手を受けたうれしさが胸の中でまだぱちぱち弾けているのに、その上から四手目で蓋をされた。ずるい、と言いかけて、レオは唇を噛んだ。ベルナルトは、まだ一度も剣を下ろしていなかった。
「……明後日も」
ベルナルトは剣を下ろさないまま、目だけで続きを促した。
「明後日も三手。今度は四手目まで受ける」
「明日じゃないのか」
「明日は近衛の当番の日でしょ。知ってる」
ベルナルトの眉が、今日いちばん大きく動いた。
「遅れるなよ」
*
練兵場の柵の上に、小さな人影が腰かけていた。
赤みがかった栗色の髪を一本に結んだ女の子が、膝の上に紙を広げ、指先に灯した小さな光で手元を照らしている。ベルナルトの娘のセシリアだった。
「四手目、きれいに入ったね」
「見てたの? いつから?」
「最初から。一手目でおでこに、こんってされたところから」
セシリアは膝の上の紙をひっくり返して見せた。練兵場の四角い枠と、柑橘の鉢の丸がいくつか。その中に点が並んでいる。三回分の点はぴったり重なって鉢へ向かう一本の線になり、四回目の点だけが、ぽつんと右へ外れていた。
「柵の上からだと、線になってるのがよく見えるんだよね。フェリクスが石を置く前から、私、描いてたよ」
「じゃあ言ってよ」
「言ったら、レオは自分で気づかなかったでしょ」
セシリアはさらりと言って、紙を丁寧に四つ折りにした。
「これ、もらっとく。来月の丘の探検で、レオが勝手に先へ行こうとしたら見せるから」
「行かないよ。……たぶん」
「去年も同じこと言った。隊長は私。地図ももう描いてあるの」
それから彼女は、レオの頭を指さした。
「あと、髪がまだ湿ってる。温室で何かしたでしょ」
「雨を降らせた。鉢の上にだけ。こう、ぱた、ぱたって」
「へえ」
セシリアの目が、ほんの少し丸くなった。
「……見たい。今度、見せて」
「予約制なんだ。一番は母上で、二番はまだ空いてる」
「じゃあ二番」
即答だった。遠くからセシリアを呼ぶ侍女の声がして、彼女は光をぱちんと消し、柵から飛び降りて走っていった。
*
近衛の詰所の裏には、見習いが自分たちの朝食を作る小さな竈がある。
野営で飯も作れない騎士は役に立たない、というのが近衛の方針で、従者見習いのフェリクスも週に二度はここで卵を焼く。今朝はレオも勝手についてきた。
「それでね、外側からゆるめたら光ったんだよ。内側からだったらどうなると思う?」
「さあ。……塩、取ってもらえますか」
「はい。でさ、もし素焼きじゃなくて銅の皿だったら」
「銅だと熱の逃げ方が違います。昨日の鉢は」
「そう! それ! フェリクスもそう思う?」
「思います。去年、師匠の部屋で銅の匙を焦がしたとき――」
フェリクスは話しながら木べらを置き、両手で匙の形を作って見せた。熱がどこから逃げたか、身振りが止まらない。この相棒は、実験の話になると口が倍の速さになる。
焦げた匂いがした。
二人は同時に竈を見た。フライパンの上で、六つの卵が、縁から茶色く、それから黒くなっていくところだった。
二人とも、すぐには声が出なかった。
フェリクスが慌ててフライパンを火から下ろした。もう遅い。
「話しかけたのは、レオです」
「でも、焼いてたのはフェリクスだろ。木べら置いたのもフェリクス」
「置かせたのは銅の匙の話です」
「その話、始めたのフェリクスじゃん」
フェリクスは木べらを握ったまま、一度、口を閉じた。
フェリクスの口が、いつもより速く動いた。
「レオが外側だの内側だのと言うから、つい考えてしまったんです。それに先週の卵は、私一人で焦がしたので、今日の分は半分以上レオの責任です」
「先週も焦がしたの?」
「会計なら一枚の銅貨も間違えません。竈は、帳面と違って待ってくれないんです」
フェリクスは怒ると、声を荒げる代わりに早口になる。レオはそれを知っていたので、笑いをこらえるのに少し苦労した。
二人は焦げた卵を木べらで割った。黒い表面の下に、かろうじて黄色いところが残っていた。柵に並んで座り、一つずつかじる。苦い。レオは顔をしかめ、フェリクスも顔をしかめ、同時に吹き出した。
「焦げたところ、なんか素焼きの縁の焦げに似てない?」
「卵を食べながら実験の話をするのは、今日はもうやめてください」
詰所の角から、聞き慣れた声が飛んできた。
「焦げた匂いがすると思ったら、やっぱり」
稽古着に剣を提げた母が、調練へ向かう途中らしく、歩きながら顔だけこちらへ向けていた。
「ベルナルトから聞いたわよ。三手、受けたんですって」
「四手目で取られたけど。ずるいんだよ、終わったと思ったら、こんって」
「あの人の四手目は、私でもたまに取られるわ。……たまによ。三年に一回くらい」
母はそう言って笑い、歩みを止めずに、肩越しにひとこと付け足した。
「次のお休みの日、中庭にいらっしゃい。私とも勝負しましょう。袖に触れたらあなたの勝ち。勝ったら、お菓子を選ばせてあげる」
「袖? 剣じゃなくて?」
「剣に触れるのは、まだ十年早いわ」
母の背中が角を曲がっていく。レオは焦げた卵を口に放りこみ、柵から飛び降りて、その背中を追いかけた。
「母上! 袖って右? 左?」
角の向こうから、笑い声だけが返ってきた。
「どっちでも。取れるほうを取りなさい」




