鉢の上の雨
雲は、枕ひとつぶんの大きさだった。
温室の梁の下、鉢植えの棚から腕一本ぶん上に、白くやわらかいものが浮いている。東の硝子から差しこむ朝日が透けて、ふちだけがうっすら金色をしていた。
「動くなよ……そのまま、そのまま……」
レオは脚立の最上段に立ち、両手で雲を左右から挟むように構えていた。九歳の腕は、肩の高さに上げているとすぐに震えだす。それでも下ろせない。ここで手を離せば、三日かけてやっと形になった雲が、温室の湿気に混じって消えてしまう。
棚の下の水盆では、火で温めた水が細い湯気を上げつづけている。その湯気を風でくるんで持ち上げ、雲の底だけを水の術で冷やす。冷えた底で水がまとまり、粒になり、落ちる。
理屈は分かっていた。師匠の書庫で、背表紙の剥がれかけた本を三回読んだ。
分からないのは、本の通りにやっているのに、どうして一滴も降らないのかだ。
「レオ」脚立の下からフェリクスの声がした。「左へ流れています」
「分かってる、分かってるって。今、左の端っこを見てる」
「分かっているなら、追いかけないでください。追いかけると――」
遅かった。
逃げていく雲を風で押し戻した瞬間、冷やしていたはずの底がずれた。温かい湯気と冷たい空気が、雲の真ん中でぶつかった。
ぶるっ、と雲が身震いした気がした。
次の瞬間、桶をひっくり返したような水が、まっすぐ下へ落ちてきた。
脚立の上のレオは頭から、脚立を押さえていたフェリクスは肩から、温室の床は一面、水びたしになった。棚の鉢には――鉢にだけは、一滴もかからなかった。
「……」
フェリクスは黙って、袖の先から水を一滴ずつ落としていた。
前髪の先から水が垂れる。レオはそれを指でつまんで眺め、それから吹き出した。
「見た? 今の。ちゃんと雨になってた。量が多すぎただけで」
「見ました。全身で」
フェリクスは濡れた上着の裾を絞りながら、表情を変えずに言った。同い年なのに、この相棒はときどき老執事みたいな顔をする。実験に使う銅貨の出し入れまで帳面につけているのも、たぶんそのせいだ。
「これで三度目です。師匠を呼びますか」
「呼ばない。約束しただろ、ちゃんと降るまで呼ばないって」
「完成してから見せたい、という約束でしたね」
「そう。ちゃんと降ったら、師匠、絶対びっくりするから。腰を抜かすかも」
「完成の前に、私が風邪をひかないという約束も追加できますか」
レオは笑いながら脚立を降り、棚の前にしゃがんだ。
素焼きの鉢に、赤い小さな花をつけた草が植わっている。紅鈴草。母の故郷の、乾いた丘に咲く花だそうだ。春の最初の雨が降った朝に、鈴みたいな花がいっせいに開く。
でもこの温室には、雨が降らない。庭師が毎朝、根元へそっと水をやる。それで枯れはしない。ただ、葉を叩く雨の音を、この花は一度も聞いたことがない。
――だったら、降らせればいい。
それが三日前に思いついたことのすべてだった。
「この子、水をやりすぎると拗ねるんだって。だから鉢の上にだけ、ちょっとだけ降らせたいんだ」
「さっきのは、ちょっとではありませんでした」
「だから困ってるんだってば。量の決め方、本のどこにも書いてないんだよ。三回読んだのに」
フェリクスは手拭いをレオの頭に放り投げ、それから脚立の位置を一歩ずらした。
「次は、下から見ていてもいいですか」
「下から? 雲を、下から見るの?」
「上にいるレオには雲の上側しか見えません。私は下側が見えます。さっき、崩れる前に、左の下のほうから白いのが漏れていました」
レオは手拭いをかぶったまま、しばらく黙った。
下から見る。考えたこともなかった。雲は自分が作るものだから、自分がいちばんよく見えていると思っていた。
「……それ、もっと早く言って」
「三度目にようやく気づきました。一度目は驚いていましたし、二度目は濡れていたので」
*
四度目の雲はさっきより小さくした。
水盆の湯気を細く上げる。風でそっとくるむ。底を冷やす。ここまでは同じだ。
「漏れてます。左下」
下からフェリクスの声。
レオは反射的に雲を押し戻しかけ、指を止めた。
追いかけるから、冷やすところがずれる。だったら、雲そのものは動いてもいい。動いていい範囲の、外側を決めてしまえば。
レオは雲を押すのをやめ、風を雲の周りに輪にして回した。鉢の口と同じくらいの、見えない皿のふちを作るつもりで。内側の雲はゆらゆらと揺れて、左へ寄り、ふちに当たって戻り、また右へ寄る。底の冷たいところは、輪と一緒に回るから、ずれない。
「止まりました」フェリクスが言った。「漏れていません」
腕が痛い。息を吐く。底をもう少しだけ冷やす。
ぽつ。
音がした。
赤い花のすぐ横、細長い葉の真ん中に、丸い水の粒がひとつ乗っていた。葉がわずかにしなり、粒が転がって、土に吸いこまれる。
レオは声を出せなかった。出したら、全部崩れる気がした。
ぽつ。ぽつ、ぱた。
ぱたた、ぱた。
粒が増えていく。葉を叩き、花のふちを揺らし、鉢の土に小さなくぼみを作っていく。雨だった。鉢の口の上にだけ降る、小さくて、ちゃんとした雨だった。
フェリクスが黙って懐から砂時計を出し、棚の端でひっくり返した。頼んでもいないのに、こういう物を持っている相棒なのだ。
砂が落ちていく。
しびれてきた腕をこらえながら、レオは葉を叩く音を聞いていた。ぱた、ぱたた。雨はこんな音がするのか、と思った。外で降る雨は大きすぎて、音が全部混ざってしまう。こんなふうに一枚の葉の音だけを聞いたことは、たぶん一度もない。
「――あら」
温室の入り口で声がした。
振り向かなくても分かる。張りのある、少し低い声。剣の稽古場ではよく通り、食卓では笑い声になる声。
「母上、静かに。今、降ってる」
「見れば分かるわよ。それに、静かにって言うなら、いちばん声が大きいのはあなた」
母――イレーネは、稽古着の上に薄い外套を羽織っただけの格好で、足音を殺して棚の前まで来た。近衛の朝の調練へ出る前に、自分の花を見に寄るのが母の日課だった。
母は鉢の前にしゃがみ、降っている雨の下に手のひらを差し出した。三粒、四粒、手のひらに落ちる。母はそれをじっと見て、それから濡れた花に顔を近づけた。
「この子、濡れてる」
「うん。……母上の手のひらも、ちょっと濡れてる。そっちは予定外だけど」
「上から濡れてる。初めてよ、ここに来てから」
母は笑った。目尻にしわを寄せて、子どもみたいに。
砂時計の最後のひと粒が落ちた。
レオは雲の底を冷やすのをやめ、雨を細くし、止めた。鉢の上には薄い雲だけが残っている。紅鈴草の葉の先から、しずくが一つ、二つと落ちた。
「レオ、ひとつ相談」
「なに? もう一回って言われても、腕がもう無理だよ」
「私の部屋の窓辺にも鉢があるでしょう。あの子にも、ひとつ予約していい?」
「予約? 雨を?」
「そう。予約。順番待ちの札を出しておくの。王子殿下の雨は、どうやら人気が出そうだから」
母はわざとらしく片目をつむってみせた。
レオは胸の中がふくらんで、どこかから空気が抜けていきそうな感じがした。それをごまかすように、わざと大げさに胸を張った。
「いいよ。一番の札をあげる。……あ、でも窓辺のって、大きいほうの鉢? 大きいほうなら雲も二倍いるから、二日待って。それと、母上の部屋、風が入るから――」
「二日くらい待つわよ、一番なんだから」母はフェリクスを振り返った。「二番はフェリクスかしら」
「私は、さっき予約なしで浴びましたので」
母が声を上げて笑った。
その笑い声の向こう、温室の入り口に、いつの間にか背の高い人影が立っていた。白髪まじりの頭に、袖をまくった研究着。裾が膝まで濡れている。床を伝った水を、廊下からたどってきたらしい。
水の賢者オルウェン。レオの師匠だった。
師匠は口の前に指を一本立てて、黙っていなさい、という顔をした。呼んでいないのに来たことを、どうやら謝る気はないらしい。
*
「じゃあ、消すところも見てて。師匠も」
レオは脚立に一段だけ上り、残った雲に手をかざした。
術は作るより消すほうが難しい。オルウェン師匠がいつも言っている。いきなり全部を切ると、残っていた熱や水が、思ってもいないところへ飛んでいく。だから、入れた順番を逆にたどるように、ひとつずつほどく。
まず、水盆の火を落とす。湯気が細くなる。
次に雲の底の冷たさを解く。
最後に、鉢の上で回っていた風の輪を、外側からゆるめるように――
ほどいた瞬間だった。
鉢のふちに細い光が走った。
青かった。髪の毛一本ほどの細さで、素焼きの縁を半周、ちりっと音を立てて駆け抜け、消えた。瞬きひとつより短い。
レオは手をかざしたまま固まった。
フェリクスも、母も、入り口の師匠も、動かない。
「……今の、なに?」
最初に口を開いたのは母だった。母は身を引くどころか、少し顔を近づけて縁を見ていた。
「きれいね」
「分からない」レオは言った。自分の声が、少し上ずっているのが分かった。「分からない。あんなの、本にない」
「濡れた台から、二人とも離れなさい」
師匠の声は穏やかだったが、足はもう棚の前まで来ていた。
「師匠、呼んでないのに。ちゃんと降るまで呼ばないって、フェリクスと約束してたのに」
「廊下まで水が来ていたからね。呼ばれる前に来るしかなかった」
師匠は言いながら、レオの脇に手を入れて脚立から下ろし、フェリクスの肩を軽く押して棚から二歩下がらせた。それから自分も濡れた床に膝をつき、鉢のふちに顔を寄せた。
レオも横からのぞきこんだ。
素焼きの縁に、ほんの小さな焦げのような点が一つ。その周りで、雨の名残の水滴が、ゆっくりと――一方向へ、動いていた。
術は全部、消したはずだった。火も、冷たさも、風も。
それなのに水滴は、見えない誰かに押されるように、縁の外側へ寄っていく。
「師匠、あれ、なに?」
オルウェンはすぐには答えなかった。
世界に六人しかいない賢者の一人が、九歳の弟子の作った鉢の雨を、息を詰めて見ていた。水滴が縁にたどり着き、そこで止まるまで、ずっと。
「分からない」
やがて師匠は言った。
「私にも、まだ分からない。だから決めつけずに、もう少し見ていよう。――レオ、今、何をどの順番で消した?」
朝食の鐘が鳴ったとき、レオの手帳は濡れた指の跡だらけになっていた。
火。冷たさ。風。消した順番を三回書き直して、余白に小さな青い線を描いた。それから少し考えて、頁の一番下に、こう書き足した。
――ぱた、ぱたた。葉の上の雨はこういう音がする。
鐘がもう一度鳴った。母が温室の入り口で、外套を翻して振り返った。
「行くわよ、二人とも。朝ごはんを食べながら、さっきの話を全部聞かせてちょうだい。陛下にもね。一番の予約者として、私が先に自慢するけど」
レオは手帳を閉じ、走りだした。
術を消したあとに残っていたものが何なのか、知りたくてたまらなかった。




