第3話 転機
……いやいやいや。
そんなことあるわけない、
と自分の思考の迷走を戒める。
“異世界転生”とか“異世界転移”と言えば、勇者のような世界を救う逸材が選ばれると相場が決まっている。
今日のラノベ界では数えきれないくらいの異世界への道が開け、料理人や司書のような非戦系職業にも門戸が広げられているようだが、そんなこと俺には関係がない。
俺は自他ともに認めるMOB中のMOB!
一般人がそう簡単に異世界転移なんてされてたまるもんですか!
第一、死亡して異世界に生まれ変わる”転生”現象ならいざ知らず、現に税金を払っている一般市民が異世界に”転移”されるようなことがあったら、社会的にいろいろと問題となることが多いはずだ。
そんなことが頻繁に起こっていたら、『〇〇市在住のAさん、突如として失踪。またもや異世界転移か?!』というように、異世界転移事件が朝のワイドなニュースの定番コーナーになっていることだろう。
ないわー! それはないわー!
と自分を納得させ、現実的な状況を想定してみる。
ここは大規模なアトラクション会場で、誰かが大掛かりに俺をドッキリに“嵌めている”という可能性だ。
そのとき、俺の頭の中で過去のある出来事が急速浮上した。
◇ ◇ ◇
逸花との結婚生活は、同棲生活の延長線上であったため、順調そのものだった。
だが、社会の中では違った。
逸花は、一般人のなかでは並の美女ではなかった。
それも病院内では病院関係者や患者はおろか、病院内ですれ違う人まで振り返るほどだった。
俺と逸花は夫婦であることを公表していたため、周囲から羨望の目で見られる“穂積逸花の夫”という存在であることに多少の誇らしさを感じていたが、同時に俺は気づくべきだったのだ。
逸花を取り巻く人たちが逸花に向けた好色の視線と、俺に向けた嫉妬の視線を。
あるとき、医療事故が起こった。
当直医師の指示した投薬の処方箋が患者の体質に合っておらず、服用したことによりアレルギー反応を起こした患者の容体が急変し、そのまま死亡してしまったのだ。
その際、当直医師の処方箋に従って、
病院内薬局で薬を調剤したのが――俺だった。
その頃、大学病院では、
脳神経外科と心臓外科――
二人の教授を頂点とする派閥が真っ向から対立し、
激しい派閥抗争が繰り広げられていた。
指示を出した当直医師は、脳神経外科の教授の派閥の急先鋒として知られる人物だった。
教授の覚えもめでたく、派閥争いの最前線で功績を上げようと躍起になっていた。
一方、逸花は心臓外科の教授の“秘蔵っ子”と呼ばれていた。
もっとも、本人は派閥争いには全くの無関心だったが、それでも教授の秘蔵っ子と呼ばれるようになったのは、理由がある。
新人とは思えないほどの基本技術の精度。
術式に対する理解の深さと、状況判断の速さ。
そして、天賦の才ともいえる執刀技術のセンス。
一年目にして教授執刀の第一助手を任されるなど、
その実力は新人の枠を軽々と飛び越えていた。
教授が特に目をかけるのも当然で、病院内では“次代のエース”として早くも話題の的だった。
――だが、社会人として駆け出しだった俺たちは、まだ気づいていなかった。
人が権力者の派閥に取り込まれるとき、
必ずしも“能力”だけで選別されるわけではないこと、を。
当直医師は、診察に同席していた看護師を懐柔し、
対立派閥に所属する逸花の夫――つまり俺が、
故意に処方箋を操作したのだと主張した。
投薬指示の誤りをでっちあげて、
対立派閥の自分を陥れるためだ、と。
だが、院内薬局の薬剤師にとって、
大学病院の派閥争いなど無縁の世界だ。
処方箋が出れば、それに従って薬を調剤する。
それがルールであり、例外はない。
だから、そんな主張が通るはずがない、と思っていた。
当直医師の派閥の教授以下、主だった医師たちが一斉に彼を擁護し始めた。
それどころか、対立していたはずの心臓外科の教授までが、「可能性としては否定できない」、と理解を示した。
その瞬間、病院内の空気は決定的に傾いた。
“何らかの理由で薬剤師が処方箋を取り違えた”という方向へ――
院内薬局の薬剤師の間でも、
医者の派閥争いに巻き込まれた要注意人物として、
俺は腫れ物のように扱われていた。
病院内で、俺の主張に耳を傾ける者は、
一人もいなかった。
それどころか心臓外科の教授は直接俺を呼び出し、妻である逸花に醜聞が及ばないうちに俺が責任を取って辞表を出すべきだ、と言った。
「逸花くんはこれからの医療界を背負って立つ人材だ。君も彼女の重荷になることは望んでいないだろう?」
ほどなくして俺は辞表を提出し、大学病院から去った。
大学病院内では、俺の妻である逸花にも非難の声が上がり始め、妻の立場が厳しいものになりつつあったからだ。
俺のせいで、逸花まで苦しい目に遭わせたくなかった。
医療事故は大学病院内で秘密裏に処理され、
世間に報道されることはなかった。
――だが、俺が辞めてからの方が逸花の表情は沈んでいった。
逸花は心臓外科の教授から、俺との離婚を勧められていた。
「彼は、君の重荷にはなりたくないと言っていたよ」
教授はそう言ったらしい。
教授の派閥の医師たちも、逸花の経歴の汚点になるから、と執拗に圧力をかけているという。
心臓外科医としての重圧、病院内での立場の悪化による心労で、逸花が家の中で一人涙を流している姿をしばしば見かけるようになった。
俺はほかの大学病院や近くの調剤薬局に再就職をしようとしたが、業界内の情報は伝わるのが早いのか、どこからも敬遠された。
そんな主夫のような状態で過ごしていたある日、それは起こった。
義父から言われていた、特に破ってはならない“袋”の一つ。
逸花の“堪忍袋”が、切れたのだ。
それは、俺に対してではなかった。
やりきれない思い。
抗うことのできない立場。
許容できない何か。
そのすべてに対して、逸花の精神は限界に来ていた。
逸花は食事中に突然食器を叩きつけ、号泣した。
逸花は、心臓外科の教授に、男女の関係を迫られていた。
教授は外科医としての能力だけでなく、女としての逸花に惚れていたのだ。
対立派閥の当直医を擁護したのも、逸花と同じ大学病院に勤めている俺を病院から追い出すためにしたことだった。
俺は、逸花との夫婦関係の限界を悟った。
このままでは、俺と職場との葛藤で逸花が壊れてしまう。
その翌日、身の回りの物を持って、俺は逸花のもとを去った。
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