第2話 看板
高校を卒業した俺は、薬剤師を目指して岐阜のとある大学へ進んだ。
自衛官であった父が行方不明となった後、母一人子一人の母子家庭で育った俺は、手に職をつけたかったのと、実家の近くに住むために薬局であればどこでも働き口がある薬剤師を希望した。
一方、逸花は、医者を目指して名古屋のとある大学へ進んだ。
逸花は、さらに偏差値の高い東京の大学を狙えたが、俺の進学する大学の近くに進路を決めた。
そのことをあらかじめ知っていたら、たぶん俺は反対しただろう。
せっかくもっと上位の大学に進めただろうに勿体ない、と。
だが、逸花はそういうことも俺に言わなかった。
俺に相談していたら反対されることを察して、
進路の決定を“時短”したのかもしれない。
そして俺たちは、大学生活を契機に同棲を始めた。
「シェアハウスの方が生活費が浮くじゃない?
住むとこも決めたから。メールで送るね!」
淡々とした口調で逸花はそう言った。
このように逸花は、常に“時短”の最先端を行く、
そういう女性だった。
やがて俺たちは、大学を卒業し、同じ大学病院に勤務することが決まったタイミングで結婚することになった。
そして、なぜか俺は自分が結婚することを、
自分の母から聞かされた。
「あんたたち、本当に結婚式挙げないの?
あんたはそれで良いのかもしれないけど、逸花ちゃん、本当はウェディングドレス着たいんじゃないかしら?
あんたもいつまでも逸花ちゃんに気を使わせっぱなしじゃダメよ。もう少し───」
あとの方のうんたらかんたらは記憶に残らなかった。
俺がその時に思っていたことを、
とても言える雰囲気でなかったことは確かだ。
すなわち、“いつ正式に結婚すると決まったか?”
ということを。
「結婚? 以前に話したじゃない。
“お互い一人前になったらちゃんとしようね”って」
夕飯の支度をしながら、あっけらかんとして逸花は言った。
“ちゃんとする”とは、“同棲の恋人状態”から
“結婚して家庭を築く”ことだと、その時はっきり悟った。
逸花との結婚に不服や不満があるわけではなかった。
ただ、こういうときはきちんと自分の口から相手の両親に挨拶したい。
そう思い、逸花の両親に挨拶に行こうとした矢先――
『結婚おめでとうー! 充くん、これからはお義母さんと呼んでねー!』
『充君、結婚おめでとう! これからも頑張れ!!
結婚には三つの袋がある。特に妻に破られるとマズいのは“堪忍袋”だ! それを破らなければたいてい大丈夫だ! 陰ながら応援してるぞ!!』
逸花の父母から、俺宛てに“おめでとう”のメッセージが届いた。
幼少期から家族ぐるみで付き合っていた俺たちは、
男女交際としても家族公認の仲だったのだ。
一人娘の逸花の父母は、息子も欲しかったと言って、昔から逸花と同じ年齢の俺のことを逸花の弟のように可愛がってくれた。
同じ年齢なのになんで弟のように接していたかは、推して知るべしだ。
特に逸花の父は、俺が逸花に振り回されるたびに、なにかと俺に温かい言葉を贈ってくれた数少ない俺の理解者だった。
「今さら“娘さんを下さい”なんて儀式、やりたくないに決まってるじゃん! だからもうお知らせ回しておいたよ」
ビールを飲みながら、逸花は大笑いした。
このとき、俺は逸花の“時短”の威力を、
はっきりと思い知った。
“婚約”も時短、という理由により婚約指輪も省略され、二人で近くのデパートに結婚指輪を買いに行った。
逸花にとっては、結婚も指輪も単なる飾りなのかもしれない──
そう思いかけていた俺だったが、逸花はデパート内のブライダルリング専門店に入ると、これまで見たことのないくらい、はしゃいだ様子でペア指輪を見て回った。
少し安心した俺は、逸花に似合いそうな派手すぎず、品の良さそうなハート形のペア指輪を指さすと、店員がすぐに逸花のサイズを出してくれた。
すると逸花は、俺に左手を差し出した。
俺は、たとえ試着だとしても落とさないように、
慎重に逸花の薬指にはめてみた。
そのときに見せた逸花の嬉しそうな笑顔は、
これまで見たどの表情よりも、美しく輝いていた。
こうして結局、俺たちは区役所に婚姻届を出しにいくという究極の“時短”婚により、結婚生活をスタートさせた。
◇ ◇ ◇
紅砂の風が吹くなか、俺はいつまで続くともしれない道をひとりで歩いていた。
辺りに人らしい影は存在せず、上空を飛んでいたでかい鳥はしばらくするといなくなった。
目先の危険が去ったことに安堵しつつも、俺は早く身を落ち着けられる場所がないかを探しながら歩き続ける。
すると、一本の看板のような物が立てられているのを見つけた。
標識とかならここがどこかを示すものかもしれない。
小走りになって標識の前まで進み、書かれてあるものを読もうとする。
紅砂が覆っていて文字が見えなくなっているので、手で砂を払う。
すると、一行の大きな文字で書かれていたものが出てきた。
だが、そこに書かれている文字を見て俺は愕然とした。
――日本語ではない。
それどころか、英語などのようにローマ字表記ですらなく、内容が全く想像できない文字の羅列。
強いて言えば、高校の時の世界史の授業中に、中国の古代文字かなんかで似たようなものを見た気がするくらいだ。
……あれは確か殷の時代で使われていた甲骨文字とか言ったっけ?
しかし、俺の生活圏内で、それどころか現代の日本で、こんな人外郷のような場所が存在するなんて想像できない。
まさかある日突然、世界が核の炎に包まれて俺だけ奇跡的に助かり、気づいたら道端に寝ていたなんてオチはないよな……。
それにしたって意味の分からない文字の説明がつかない。
こうなってくると、俺に起きた事態に対する一つの仮説が俺の頭に浮かぶ。
昨今のラノベ界隈において、無尽蔵に増え続けている“あるあるな世界”の話だ。
もはや、新たな人生の形としては一部の人には定番化しているかもしれない状況。
――ここは、まさか「異世界」 ?
――俺はひょっとして、「異世界」に転移されたのか?
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