第1話 俺の名は
気づいたのは、頬に当たる乾ききった砂の感触からだ。
俺は目を開け、起き上がると、目の前の光景に言葉を失った。
果てしなく広がる、紅い荒野がそこにあった。
見渡す限りの荒野、そして紅い地平線だけのその光景をなぜかとても美しいと感じたのは、俺の身に起きた出来事の異常さに、心がついていかなかったせいだろう。
紅いと感じたのは、風とともに顔に吹き付けてくる
無数の紅砂によるものだった。
掌を開けると、粒子の細かい紅砂が皮膚を覆うように薄く張りついていた。
……ここは、何処だろう?
記憶が混濁している。
自分が何者なのかすら、よく覚えていない。
だが、このような極限状態のなかでパニックになってはならない、と冷静に考える自分がいた。
まずは、自分の置かれた状況を思い出すべきだ。
俺は何者で、なぜこんなところで寝ていたのか。
意識を内面へ集中させる。
俺の名は―――
そのとき、荒野の上空に、
巨大な鳥が群れを成して飛んでいくのが見えた。
見たこともない形の翼。
記憶のどこを探しても、あんな生物は存在しない。
やはり、記憶を喪失しているのだろうか。
突風が吹き、砂礫が顔に叩きつけられた。
思わず目を細め、顔を手で覆ったとき――
頭の中で幾度、声が響いた。
『──たる、──あ…る、──充!!』
とても柔らかく、懐かしい響きの、女性の声だった。
心なしか、年齢が少しずつ違うように感じる。
その声が、俺の記憶の扉を少しだけ開いた気がした。
――そうだ。俺の名は、充。
――穂積 充、だ。
名前を思い出した瞬間、上空の鳥がこちらを見下ろした。
嫌な予感しかしない。
あんな化け物に襲われたら、ひと飲みにされそうだ。
俺は刺激しないよう、そっとその場を離れた。
かすかに道らしきものが見えたので、
MOBに徹して、そこへ向かって小走りに移動する。
すると、別の記憶が浮かんだ。
俺のことを睨んでいる
端正な顔立ちの年端もいかない少女。
少女は、幼い顔から年齢を重ねるごとに輝きを増し、聡明で美しい大人の女性へと変化した。
なぜか俺を見る顔はいつも怒ったような表情をしているその女性と、先ほどの声が織り重なる。
『充! もう本当にあんたって、いつもそうなんだから!!』
『うん……ごめんね、逸花』
――逸花。
彼女の名が開かれたことで、俺は一気に記憶の扉が開かれた気がした。
――逸花は、俺の幼馴染だった。
幼少期から、まるで周囲の景色から切り離されて映し出されるような美少女だった。
それどころか、小学校から中学校にかけて成績優秀、スポーツ万能、書道、そろばん、ピアノ、英語を嗜む超越的存在だった。
取り立てて目立つところのないMOBの俺には、
まったく不釣り合いとも言うべき存在。
だが彼女はなぜか当然のごとく、ずっと俺の傍にいた。
ほかの人には輝く笑顔を振りまくのに、
俺の方を向くと、途端に怒ったような表情になる。
そんな彼女を、周りの男たちが放っておくはずがない。
だが、彼女の威厳に満ちた笑顔を崩せる男は、ついに現れなかった。
ときに彼女に振られた男が俺の方に牙を向いてくることがあった。
校舎の裏に連れていかれ、目障りな存在だ、と言いがかりに近い攻撃的圧力を受けることも一度や二度のことではなかった。
だが、俺はMOBな平和主義者だ。
なんとか穏便に事を収めようと、対話を試みる。
すると、まるで緊急車両の如き不穏な気配を漂わせた逸花が現れ、威厳と笑顔と理屈で男どもを散らす。
そして、一人その場に残された俺に、
いつもの怒ったような表情に戻った逸花は言う。
「もう、本当にあんたっていつもそうなんだから! 少しは言い返してやりなさいよ!」
「うん、ごめんね……いつも逸花に助けてもらってばかりだね」
目の前に迫る逸花をなだめるように、俺は苦笑いを浮かべた。
そんなことが続く日常に変化が生じたのは、
高校に入学した年の夏に入る前くらいの頃。
同じクラスの女子から、下校前に受けた“アンケート調査”だ。
「穂積くんって、付き合っている女の子とかいるの?」
「……いや、別にい―――」
その瞬間、逸花が隣のクラスから彗星のごとくやってきた。
逸花は、俺の胸倉を掴んだ。
「充、帰るよ?」
いつもの怒ったような顔より遥かに怖い笑顔が、
そこにあった。
俺は瞬時に、死を覚悟した。
クラスの女子は引き攣った笑顔で急速下校していったが、胸倉を掴まれた俺はそれも叶わない。
「へ、へい。合点承知……」
走馬灯のように流れる生徒の引き潮を眺めながら、
俺は意味不明なことを口走った。
この一件は、MOBな日常を送っているつもりでも、ひとたび急変すれば即死となるような事態が存在することを教えてくれた。
そんな俺たちが男女交際として付き合うことになったのは、その一件があった年の夏の終わり頃。
彼女の方から、付き合おうと告白してきたのだ。
ただし、その理由は俺の常識を超えたぶっとんだ理屈だった。
「あたし、余計な男に振り回されるなんて時間の無駄遣いしたくないの!“時短”こそ正義!
昔から知っている充ならその点は大丈夫。
つまり、充と付き合えば“時短”になるの。
それに、充と一緒に居れば、他の害虫みたいな男が寄って来ないでしょ?」
「付き合う理由が“時短”って……
てか、俺は虫除けスプレーかよ!」
彼女はいつもの会話をするように告白し、
俺は呼吸をするように抗議を入れた。
そんな彼女との記憶は、星屑のようにキラキラしていた。
◇ ◇ ◇
上空の鳥に追われるように道に出た俺は、
記憶を辿りながら、あてもなく道沿いに歩いた。
ここはいったい、どこなのだろうか。
俺の記憶にある日本には、こんな場所は存在しないのではないかと思った。
こんな吹きっさらしの風が吹く荒野というと、外国のどこかなのだろうか。
とにかく、いつまでもこんなところにいては身体に悪い。
だがすぐ近くには建物はおろか、
風から身を守れるような岩場のような場所もない。
紅砂混じりの風のせいで視界もあまり良くない。
無情に吹き荒ぶ風は、それでもなぜか、
あてもなく歩く俺の身体に徐々になじんでいくように感じられた。
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