第28話 ドーピングの効果
身体の反応速度の上昇とは裏腹に、視界がまるで少しスローモーションになったように世界がゆっくりに感じた。
軽い興奮状態に感じるのは、脳内でアドレナリンが過剰に分泌しているせいだろうか。
今なら、身体機能を完全に生かした動きができそうな気がする。
モアイが振り抜こうとした足を、勢いそのままに両手で柔らかく受け止め、柳のようなしなやかさで圧力を受け流しつつ、背後にそのままひらりと跳んだ。
体操選手のようにきれいに着地した俺は、自分の身体の動きの変化に驚いていた。
身体がまるで羽のように軽くなり、踏み込んだ足は地面に吸い付くようだ。
モアイが怪訝な表情で俺のことを見つめていた。
一見、派手に蹴り飛ばしたはずなのに、手応えがなかったのと俺が平気な様子に困惑しているのだろうか。
反撃の機会だと思った。
今の俺ならこれだけ体格差のあるモアイにも負ける気がしない。
俺は、地面に足を押し付けるように強く踏み込むと、チーターのような俊敏さで真横に飛んだ。
景色が見たことのない軌道を描く。
壁が間近に迫る。
そのまま、身体を一回転させて壁面に一瞬足を着地させると、反動を利用してさらに強い反発力を生み出し、モアイの後方へ一直線に翔んだ。
頭上を飛び越えて瞬時に背後に回られたことに、モアイが驚愕の表情を浮かべて振り返る。
俺は飛翔した身体を反転させ天井に着地し、そのまま蹴り返してモアイの顔面に接近した。
俺の動きに全く反応できないモアイに、渾身の力を込めて血鞭を放った。
荒縄のような太さに生成された血鞭がモアイの顔面に直撃した。
それは、これまでとは比較にならない速度と強靭さを兼ね揃えていた。
これまでの鞭と異なり、弱体化を狙うような攻撃ではなく、鞭本来の速度と弾性を生かした純粋な打撃力による物理攻撃。
さしものモアイの表情も苦悶に歪み、姿勢をぐらりと崩す。
巨人に対して有効打を入れることができた俺は、地面へそのままきれいに着地する。
『アタリ』670/810Lx[D]△3300
[体力]80/100 [D]△400
[魔力]80/200 [D]△0
[攻撃力]50/50 [D]△800
[素早さ]40/40 [D]△900
[器用さ]100/100 [D]△500
[耐久力]70/70 [D]△300
[精神力]250/250 [D]△400
自分のステータス値を確認してみたら大変なことになっていた。
[D]と表示された数値は、劇薬摂取の追加上昇分ということだろう。
魔力がごっそり削られているが、その効果は想像以上だった。
[攻撃力]や[素早さ]を始め、身体能力が本来のMOBの俺とは桁違いの数値になっている。
人を殴ったことすらない俺が、いきなり巨人と渡り合おうとしたらこれくらい必要になるのか。
だが、どれくらいの効果時間があるのかわからない。
この効果が切れないうちに、巨人モアイをなんとかしなくてはならない。
態勢を立て直したモアイが、回し蹴りを放ってきた。
俺にとっては自分の体幹と同じ太さの丸太が真横から迫っているのと同じ圧力だ。
すかさず軽く地面を蹴り、宙を跳んでかわす。
体勢の崩れたところを血鞭で一閃しようと構えた。
だが、次の瞬間、拳が頭上から振り下ろされてきた。
回し蹴りよりもはるかに大きな圧力を感じた。
どうやら回し蹴りは囮で、本命は渾身の力で打ち下ろす右ストレートだったようだ。
着地するより拳が届く方が早い──
そう直感した俺は、血鞭の生成ではなく防御姿勢に転じ、腕十字で受けた。
頭の芯から後頭部まで伝導するような衝撃に耐えながら、なるべく衝撃を逃がすため、ゴムボールが弾かれるように吹き飛ばされた。
言うまでもないことだが、もともとの俺はこんな忍者みたいな芸当はできない。
ステータス値が異常値った今だからできることだ。
どうやらこの劇薬には、格闘漫画の主人公のようなことがさらりとできてしまうくらいには脳筋作用もあるらしい。
勢いのままに壁の方に飛ばされ、宙返り反転して壁に着地すると、その反動で巨人に再接近した。
だが、モアイは再度の俺の接近を予測していたのか、右拳を目一杯に引いて迎撃態勢を取っていた。
目には警戒心と殺気がこもっていた。
どうやら、手や足の骨の1本か2本くらいで済ませてくれる雰囲気ではなさそうだ。
俺は、モアイの右ストレートに合わせるように血鞭を振るう。
俺の放った血鞭と、モアイの右拳が正面から激突する。
バシィッ!と乾いた音がして、鞭と拳がそれぞれ弾かれた。
剛の拳と柔の鞭、本来は強度で劣る鞭が拳に弾かれてしまうところだろう。
だが、今の俺は、血鞭に強度の弾性を付与することができる。
強靭な真竹のような弾性を付与した鞭は、拳自体にダメージを与えることができる。
その効果が出たのか、硬さで勝るはずの拳を放ったモアイが、苦悶の表情をして背後に上体を傾かせている。
これは効いたのでは、と思って着地したのもつかの間、俺は危機を察知して思わず後方に飛び退いた。
一瞬の差で、俺のいた場所が岩のような右足の踵に打ちつけられて陥没した。
モアイは右拳にダメージを負った勢いで背後に身体を反らしたのではなく、かかと落としに攻撃を切り替えていたのだ。
モアイと視線が合った。
気迫は全く衰えていない。
――まさに傭兵。相手を倒すことを生業とする戦いのプロだ。
――劇薬摂取で身体能力が上昇しただけの俺とは、戦いに対する向き合い方が根本的に違う。
攻防のやりとりで少し優位に立ったと考えてしまった俺は、その攻撃の切り替えの早さと気迫に一瞬たじろいだ。
すると、打ちつけた右踵を支点にして上体をはね起こし、そのまま前傾姿勢に転じたモアイが、俺の方に一足飛びに接近してくる。
俺は警戒心からモアイの攻撃を迎撃する頭に切り替えた。
左拳を下から突き上げてきそうな攻撃態勢をしている一方で、対称的に右腕を目一杯引き絞っている。
上下の拳のどちらが初動で距離を測り、二撃目で本命の一撃を繰り出すコンビネーションのような気がするが、どちらの方が初動かはわからない。
その答えは、一瞬後に明らかになった。
左拳がショートアッパーのように打ち出されてきた瞬間、右腕が頭上まで振りかぶり、そのまま振り下ろされたのだ。
上下の巨大な拳が同時に迫る様子は、肉食動物の顎のようだ。
(――この一撃は、耐えるしかない……!)
後方に飛び退いたまま体勢が整っていない俺は、身体を屈めて防御態勢を取った。
モアイの両拳が俺の身体を捉える。
上下顎の牙を想起させる凄まじい圧力に、身体全体が軋む。
踏み込むと同時の両手拳なので、腰の入っていない腕力のみの一撃なのだろうが、巨体から放たれる圧力は十分すぎるほどの威力を持っていた。
身体をミシミシと潰されるような感覚とともに、耐久力がぐんぐん削られるのを感じた。
だが、それでも劇薬効果が保つうちはなんとか耐えられそうだ。
そう思った直後、――圧力が瞬時に抜けた。
防御していた腕の中から顔を上げると、眼前に迫ったモアイの巨体が見えた。
モアイが後ろ足だった右足を着地させると同時に、胸を大きく仰け反らせ、肘を背中の方に締めるように両腕を強く引いていた。
モアイの眼光から放たれる殺気に、俺は顎が上下顎だけではないことを悟った。
初撃の上下顎の牙の圧力は、あくまで標的を逃げられないようにその場に留めるもの。
そして腰と溜めを十分に効かせた左右顎の牙こそ、本命だったのだ。
「白帝竜咬牙!!」
左右から同時に襲来した巨拳は、俺の耐久力をあっさりと突破した。
ぺキベキバキベキと、両腕両肩の骨が粉砕骨折する音が聴こえた。
俺は声にならない叫びを上げて、その場に倒れた。
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