第9話 森の主と斬撃をまとう掌底
主の低い唸りが開けた空間の空気をびりびりと揺らした。
合図はそれだけで十分だった。
周囲の暗がりに並んだ取り巻きども――ひと回り小さなフォレストウルフの群れが、いっせいに牙を剥いて地を蹴る。左右から、背後から。十を超える影が唸りを上げて俺めがけて殺到した。
なるほど。数で押し包んで、消耗したところを主が仕留める算段か。群れで狩る獣らしい堅実な戦法だ。
だが。
「悪いな。その手はさんざん洞穴で見飽きたんだ」
俺は指を滑らせ裏に溜め込んだポイントを一息にAGIへ叩き込んだ。
『AGI:440』
世界の速度が、がくんと落ちる。
牙も爪も、宙で凍りついたように緩慢に見えた。俺は最小限の足運びだけでその濁流をすり抜ける。狼の顎が虚しく空を噛み、あとには俺の残像だけがぽつんと置き去りにされた。
すれ違いざまに一体の脇腹へ手のひらを添える。次の刹那、AGIからSTRへ――全ポイントを瞬時に乗せ替えた。
『STR:440』
軽く押し込んだだけの掌底が狼の巨体を横倒しに吹き飛ばす。木の幹に叩きつけられた影は、二度と起き上がらなかった。
避けるときはAGI。触れるときはSTR。コンマ数秒でスイッチを切り替えながら、俺は群れの中を舞うように泳いだ。
一体、また一体。手のひらが触れるたびに影が沈んでいく。やり込んだ格ゲーのコンボと同じだ。相手の隙間を縫い、途切れさせず次へ繋ぐ。牙の届かぬ間合いを一瞬で作り、作った端からまた踏み込む。
瞬く間に取り巻きの群れは物言わぬ骸の山へと変わっていた。
「さて」
俺は息ひとつ乱さず、中央の巨影へと向き直る。
「お待たせ。次はあんたの番だ」
主が、初めて動いた。
地を蹴る一歩でその巨躯が掻き消える。
――速い。
取り巻きとは比べ物にならない。さすが格上と称賛する暇もなく、銀灰の影は俺の眼前に迫っていた。裂けた口が牙を剥き、そのまま喉笛を食いちぎろうと襲いかかる。
俺はぎりぎりで首をひねってかわした。頬のすぐ横を灼けるような熱風が通り抜ける。
だが主の攻めは止まらない。かわした先へ回り込むように、鞭のような尾がしなって薙ぎ払われる。とっさに身を沈めてやり過ごすと、今度は逆側から爪が跳ね上がってきた。速い。重い。しかも一撃ごとに次の手が淀みなく繋がってくる。
なるほど。ただ強いだけの獣じゃない。こいつは"戦い方"を知っている。
と――その主の喉が、ぐう、と低く鳴った。
直感が警鐘を鳴らす。来る。
次の瞬間、主が咆哮とともに前肢を薙いだ。爪の軌跡に沿って空気そのものが刃と化す。目に見えぬ斬撃の風が、俺の立っていた地面をごっそりと抉り飛ばした。
「へえ」
紙一重で跳び退きながら俺は思わず感嘆した。
ただの獣かと思えば、芸を持っているじゃないか。今のは間違いなく"スキル"だ。風を刃に変えて飛ばす、遠隔の斬撃技。
そして――俺の脳内の画面が、その技をしっかりと捉えていた。
『解析中……スキル《斬撃強化Ⅰ》を検出』
ほう。
俺のスキルは、どうやらステータスをいじるだけの代物じゃないらしい。敵の放った技の構造を覗き見て、そっくり手元へ写し取ることもできる。
『《斬撃強化Ⅰ》を習得しました』
脳内画面の隅に真新しいスキル欄がひとつ増えていた。
「悪いな。いい技だ。ありがたく貰っておくよ」
主が、俺の余裕をあざ笑うように吼えた。
再びの突進。今度は先ほどより速く重い。前肢の一撃、牙の連撃、そして時折混じる斬撃の風。格上の猛攻が休む間もなく降りかかる。
だが――俺は避けなかった。
『VIT:440』
全ポイントをVITへ。
振り下ろされた爪が、まともに俺の肩口を捉えた。
鈍い衝撃。だが、それだけだ。硬化した肉体の前で格上の爪は皮一枚裂くこともできず、火花じみた手応えだけを残して弾かれた。返す牙も、しなる尾も同じこと。俺の体に食い込む寸前で、ことごとく力を失って滑り落ちていく。
「……なるほど。これは確かに悪くない防御だな」
主の隻眼が初めて戸惑いに揺れた。
最弱に見えた獲物が渾身の一撃を平然と受け止めている。獣なりに、理解が追いつかないのだろう。
だが、付き合うのもここまでだ。
俺は肩口に食い込んだままの爪を掴み、主の巨体をぐいと引き寄せた。逃がさない。この間合いこそ、俺の一撃が最もよく届く距離だ。
『STR:440』
VITからSTRへ。すべてを乗せ替える。
そして覚えたばかりの技を――拳ではなく、開いた手のひらへと纏わせた。
『斬撃強化Ⅰ』
手のひらの周囲で空気がぎちりと軋んで刃と化す。
「餞別だ。持ってけ」
俺は、その胸元へ掌底を叩き込んだ。
――ドンッ、と。
空気が爆ぜた。斬撃をまとった一撃が格上の巨躯をまっすぐ後方へと撃ち抜く。
主は数十メートル先の巨木をへし折り、なぎ倒し、そのまま動かなくなった。
静寂。
森の主のあっけない最期だった。
「ま、こんなもんか」
と――呟いた、その時だった。
『警告:Lv30個体による物理法則の整合性喪失を検知。安全措置を強制シャットダウンします』
脳内に、いつぞやとまるで同じ調子の無機質な警告が走った。
ぴしり、と。
Lv30を頑なに閉ざしていたあの見えない天井に――ひびが入る音がした。
『セーフガード、クラッシュ』
『保留経験値プールを開放します』
次の瞬間。
『レベルアップ』
『レベルアップ』
『レベルアップ』
『レベルアップ』――
堰を切ったダムのように、脳内でレベルアップの音がマシンガンじみて鳴り響いた。せき止められていた経験値が一気になだれ込み、数字が目まぐるしく駆け上がっていく。
そして。
『天宮 湊 Lv.80』
「……はっ」
Lv30から一足飛びにLv80。溜め込んだダムが予想通りに決壊したわけだ。
裏の未配分プールを覗けば、ポイントの桁がまるで変わっている。極振りすればもう一項目で軽く千を超える。その一点だけなら、A級ランカーはおろかS級の領域にすら踏み込む数字だ。
それでいて、表向きの俺はあいかわらずオール5の最底辺のまま。ずいぶんと剣呑な"最弱"になったものだと思う。
「悪くない。実に悪くない収穫だ」
俺は倒れ伏した主に背を向け、開けた空間から森の出口へと歩き出した。
この隠し領域の"お楽しみ"も、これで打ち止め。この森で得られるものは、もう粗方いただいた。
さて――次はどこへ足を向けたものか。
まだ見ぬ格上の気配を求めて、俺は霧の晴れた森を悠々とあとにした。
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