第7話 レベル30の壁と無能のフリ
森の深部は外周とは空気からして違っていた。
木々はいっそう背を高くし、頭上で幾重にも折り重なった枝葉が昼の光を閉ざす。昼だというのに、あたりは夜のように薄暗い。足元の苔は湿り気を増し、踏み込むたびにじゅくりと嫌な音が返る。どこを見ても同じような木立が続く。少し進めばもう来た方向すら怪しくなった。なるほど"彷徨いの森"とはよく言ったものだ。
もっとも、方角を見失ったところで俺は困らない。魔素の濃いほうへ、面白そうなほうへ、ただ足を向ければいい。
壊れたアイアンソードはとっくに投げ捨てた。どうせ極振りした一撃には安物の鉄なんぞ耐えられやしない。俺はその暗がりを拳一つで悠々と進んでいく。
道中の行く手を塞ぐ魔物は数え切れないほど湧いた。牙を剥くワイルドボア。太い腕を振るうオーク。木々の間から糸を垂らす大蜘蛛。だがどれも同じだ。AGIに振れば残像すら残さず置き去りにできる。STRに振れば拳の一発で沈む。もはや戦闘というより庭の草むしりと変わらなかった。血の匂いと魔物の骸だけが通った道に点々と残されていく。
倒すたびに脳内で控えめなレベルアップの音が鳴る。この分ならあっという間に――とそう思った矢先だった。
『レベル上限に到達。以降のレベル上昇をロックします』
ふいに無機質な警告文が視界に割り込んできた。
『天宮 湊 Lv.30』
「……Lv30、か」
覚えのある文面だ。E級ボスを掌底で吹き飛ばしたとき、上限が"Lv30まで"広がった。どうやら今度はそのLv30が天井らしい。
試しに目の前のワイルドボアを一体、拳で沈めてみる。手応えは確かにある。倒した実感も経験値の流れ込む感覚もちゃんとある。だがレベルの数字は30からぴくりとも動かない。
妙な話だ。倒した分の経験値は一体どこへ消えている?
しばらく画面を睨んで、ふとあの"配分プール"のことを思い出した。レベルアップで得た余りのポイントが裏に溜まっていく、あの仕組みだ。
……そうか。おそらくこれも似たようなものだ。
行き場をなくした経験値は消えるわけじゃない。上限で堰き止められた分が画面の裏側のどこかへ着実に溜め込まれていく。ちょうど川をせき止めたダムに水が満ちていくみたいに。
「ダム、ねえ」
溜まった水はいつか放流されるものだ。この経験値の"ダム"も、何かの拍子に決壊すれば――一気にレベルが跳ね上がる。溜め込まれた力がある日どっと解き放たれるわけだ。悪くない想像じゃないか。
まあ、それが"いつ"なのかは今の俺にはまだわからないが。
ふと、ギルドの資料室で暇つぶしに眺めた"探索者ランクの相場表"を思い出した。
あれによれば、ステータスの伸びは一レベルにつき一項目あたり平均で二ほど。それが五項目に散らばって育っていく。駆け出しのE級で一項目およそ二十から六十。一人前のD級で六十から百六十。ベテランのC級で百六十から三百。その上のB級エリートになって、ようやく一項目が三百から五百に届く。世間の物差しとはだいたいそんな按配だったはずだ。
で、俺はどうだ。
裏の未配分プールをそっと覗く。溜まったポイントは四百三十五。全部を一項目に乗せれば、顕現値は四百四十に届く。
「……B級、ねえ」
思わず口の端が緩んだ。測定器の前じゃ俺はいまだにオール5の最底辺。総合ランクだってお情けでD級がいいところだ。なのに一点に全てを注いだ瞬間だけは、その一撃はB級のエリート様と平気で殴り合える計算になる。
五項目に律儀に配っていたら、こうはいかない。伸びしろを丸ごと一つに束ねられる俺のスキルだからこそ、自分のレベルより数段上の格上を真正面から一点で撃ち抜ける。
我ながらとんでもない反則を抱え込んだものだ。
と――そこまで考えたところで、俺は足を止めた。
森の、さらに奥。
木々が不自然にぽっかりと途切れた先。淀んだ黒い霧のような魔素が渦を巻いてわだかまっている。まるでそこだけ世界に穴が空いたかのようだ。他の場所とは明らかに毛色が違う。ギルドで確認した地図にも、こんな領域は載っていなかった。
その霧の奥からぞくりと背筋を撫でるような剣呑な気配が漂ってくる。近づくだけでうなじの産毛が逆立った。これまで屠ってきた雑魚どもとは格が違う。間違いなくこの森の主だ。
「……お。なんか、面白そうなのがいるじゃないか」
一瞬、このまま踏み込んでやろうかとも思った。だが、あいにく今日はもう日が暮れかけている。腹もとっくに限界だ。空きっ腹を抱えたまま"お楽しみ"と遊ぶのは、どうにも俺の趣味じゃない。
「ま、明日の楽しみに取っとくか」
俺はその不気味な淀みに背を向けて、ひとまず街へと引き返すことにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝の探索者ギルドは、ちょっとした騒ぎになっていた。
「おい、あのオール5のガキ、生きて帰ってきたらしいぞ」
「マジかよ。D級にソロで潜って? 運が良かっただけだろ」
「どうせ入口の辺りで震えてただけさ。あんなのが奥まで行けるわけがない」
受付に顔を出した俺を見て、周りからひそひそとそんな声が飛び交う。
俺はそれを右から左へと受け流した。スキャナーにかざした探索者証には今日も涼しい顔で『天宮 湊 総合ランク:F(オール5)』と表示されている。誰の目にも、俺はただの運だけで生き延びた最弱だ。
――結構なことだ。
昨日、たった一人で森を半分ほど枯らしてきた張本人が、こうして"雑魚"扱いを受けている。この滑稽なほどのズレこそが、俺にとっては何よりの安全地帯なのだ。
もし本当の実力が露見すれば、面倒事が雪崩のように押し寄せてくる。俺を除籍したあの選民思想の教師あたりは、手のひらを返して利用しようと擦り寄ってくるだろう。きな臭いギルドの上層部だって黙ってはいまい。真っ平ごめんだ。
俺は道すがら買ったポテトチップスの袋を開けて一枚つまみながら日向のベンチにのんびり腰かけた。空は嫌味なほど晴れていて、探索者稼業の血なまぐささとはまるで無縁の陽気さだった。
パリ、と小気味のいい音。ほどよい塩気が疲れの残る体に染み渡る。
最弱の欠陥品。落ちこぼれ。――大いに結構。せいぜい今のうちに存分に侮っていてくれ。皆が油断しきったその裏で、俺はこっそり誰も届かない高みまで登ってやる。
――そういえば、と。
袋の底をあさりながらふと昨日の森の淀みを思い出した。あの黒い霧の奥に、いったい何が眠っているのか。あの剣呑な気配の正体は、何なのか。
考えるほどにじわじわと狩人の血が騒いでくる。
最後の一枚を口に放り込み、指についた塩を舐めて俺は立ち上がった。
さて。腹ごしらえは済んだ。
あの"面白いもの"の顔も、そう遠くないうちにじっくり拝ませてもらうとしよう。
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