第3話 ゴブリン・チャンピオンと初めての掌底
ずしんずしんと地響きが近づいてくる。一歩ごとに洞穴全体が揺れて天井から細かな砂がぱらぱらと落ちてきた。
その足音に合わせるように、脳内の画面が控えめに震える。
『天宮 湊 Lv.10』
でかいのが姿を現すまでの間にも、群れからはぐれた雑魚がちらほら湧いてくる。片っ端から蹴散らしているうちに、いつの間にかLv10まで来ていたらしい。極振りスイッチで遊んでいただけのつもりが、ずいぶん稼いでいたようだ。ところが次の瞬間、無機質な警告文が視界に割り込んできた。
『警告:安全基準値に到達。以降のレベル上昇を一時ロックします』
「……ロック?」
ステータスを覗くとレベルの数字が10で固まって、それ以上びくともしない。妙な話だ。今この瞬間も雑魚を倒した手応えは指先に残っているし、経験値そのものは間違いなく入ってきている。なのにレベルだけが上がらない。
しばらく画面を睨んでようやく合点がいった。上限で堰き止められた経験値は、どうやら消えるわけじゃないらしい。行き場を失った分が画面の裏側のどこかへ静かに溜め込まれていく。空の器にじわじわ水が満ちていくみたいに、俺の"取り分"が見えないところで膨らんでいる。そういう感覚があった。
「まあいいか。後で考えよう」
どうせ今は、目の前のほうがよほど面白そうだ。
洞穴の奥の暗闇を、巨大な影が押し退けて現れた。
身の丈は俺の三倍近い。丸太のように太い腕。全身を覆う瘤だらけの筋肉。手には人の頭など西瓜みたいに潰せそうな無骨な鉄の棍棒を提げている。その足元では、さっき取り逃した雑魚どもが怯えたように群れて頭を垂れていた。一歩踏み出すたびに洞穴の空気がびりびりと震える。E級の雑魚とは、明らかに格が違った。
なるほど。こいつが群れを従えるこの階層の主か。
『ゴブリン・チャンピオン』
「でかいな。E級の散歩コ-スにしちゃ上等な出迎えじゃねえか」
軽口が気に障ったのか、チャンピオンが地を揺るがす咆哮を上げた。そして棍棒を頭上高く振りかぶる。ぶうんと鉄の塊が空気を唸らせた。まともに食らえば生身のオール5の人間なんて跡形も残るまい。
だから――ちょっと試してみることにした。
俺は脳内で、振れるポイントを残らずVITへ叩き込む。他の四項目は下限の5に据え置いたままだ。
『VIT:140』
次の瞬間、振り下ろされた棍棒が俺の脳天へ真上から直撃した。
ゴッと腹の底に響く衝撃。足元の地面が円形に陥没して砂埃が濛々と舞い上がる。チャンピオンが勝ち誇ったように牙を剥いた。
――が。
砂埃が晴れたとき、俺は傷ひとつ負わずにその場へ突っ立っていた。むしろ俺を叩いた鉄の棍棒のほうがぐにゃりと嫌な角度にへし曲がっている。硬い。人間の体が鍛えた鉄より硬いなんて理屈はまるでわからんが、要はそういうことらしい。
「へえ。防御に全振りすると殴られても平気なわけか。便利だなこれ」
チャンピオンが信じられないという顔で硬直した。それでも主の意地か、すぐに我を取り戻して、今度は薙ぎ払うような横殴りの一撃を放ってくる。俺はその軌道を見切ってひょいと身を沈めるだけでかわした。頭上を鉄の塊が虚しく通り過ぎていく。
「悪いけど、そういうのはもういいや」
この一瞬の隙で十分すぎる。俺は指を滑らせ、今度はVITに預けた全部をそっくりそのままSTRへ流し込んだ。
『STR:140』
そして開いた右の手のひらを、無造作にチャンピオンの分厚い胴へ向ける。
「付き合ってくれて助かった。これで終わりだ」
軽く手のひらを突き出す。
掌底。ただ手のひらでとんと押しただけ。そのはずだった。
次の瞬間、大気を引き裂く衝撃波がまっすぐチャンピオンの巨体を撃ち抜いた。ドンッという破裂音はずいぶん遅れて追いかけてくる。丸太のような巨体がまるで木の葉みたいに爆ぜ飛んで、洞穴の奥の岩壁へ叩きつけられ――そして塵ひとつ残さず掻き消えた。
あとに残ったのは深い深い静寂だけだった。
「……手のひらでこれか。加減がちょっと難しいな」
と、その時だ。脳内でけたたましい警告音が鳴り響いた。
『警告:Lv10個体による物理法則の整合性喪失を検知。安全措置を強制シャットダウンします』
「……は?」
直後。
『レベルアップ』『レベルアップ』『レベルアップ』――
さっきまで堰き止められていたはずのレベルが堰を切ったように爆発的に上がりはじめた。脳内でレベルアップの音がマシンガンみたいに連射される。10、13、17、21――数字が目まぐるしく駆け上がっていく。
『天宮 湊 Lv.25』
そしてぴたりと止まった。見ればロックの上限がいつの間にかLv30まで引き上げられている。
一瞬で十五もレベルが跳ねた。裏側に溜め込まれていた経験値が一気に決壊したんだ。体が羽根みたいに軽い。指先まで力が満ちて、今なら岩山だって素手で崩せそうな気がした。振れる総ポイントも刻印式のときとは桁が違う。この手札を全部一点に寄せたらいったいどんな数字になるのか。想像して、俺は思わず口笛を吹きそうになった。
「……なんだこれ。色々と壊れてんな」
最弱の欠陥品、か。あの水晶も蛇喰も麗奈も、俺のことを揃ってそう笑った。使い物にならないゴミだと切り捨てて追い出した。
だがどうやら俺のスキルは、笑った連中が思っているよりずっと面白いことになりそうだ。
あいつらは、俺という札を裏も見ずに捨てた。その捨て札が、実は場をまるごとひっくり返すジョーカーだったと知ったとき、いったいどんな顔をするだろうな。……いや。今はまだいい。焦る必要など、どこにもない。じっくりと、この壊れた力を育てていくとしよう。
「このペ-スだと……いったいどこまでいけるんだろうな」
自分でもまだ底がまるで見えない。だからこそ、これから先が少しだけ楽しみになってきた。
とはいえ、強くなるにも飯を食うにも先立つものがいる。まずはこいつを金に換えるところからだな。俺は奥の壁際でチカチカと微かに光る何かへ、ゆっくり歩み寄った。
チャンピオンが残していったのは握り拳ほどもある、深い紅色の魔石だった。手に取るとずしりと重く、内側で小さな火が燃えているみたいにぼんやり熱を持っている。ランクの低いダンジョンでこんな上等な石が出るとは思わなかった。
これが俺の最初の軍資金だ。追放された落ちこぼれの、たった一人きりの再出発。悪くない。むしろ上々の滑り出しじゃないか。
俺は魔石を懐にしまうと来た道を軽い足取りで引き返しはじめた。表で待ちくたびれているだろうお人好しの親友の顔を、思い浮かべながら。
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