帳簿
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「この日、マカベさんは四回、『辞めたい』って言いました」
ニナが、帳簿の一行を指でとんとんと叩いた。
十年前の、六月十一日。
マカベ 回復薬(小) 3。
ただの一行だ。品物と数しか書いていない。
でも、ニナには、その横に、その夜の俺が見えているらしかった。
「入社して二か月目です。お客さんに、刷った名刺の電話番号が一けた違うって怒られて、二百枚刷り直したって」
「……あったな、そんなこと」
「『辞めたい』『辞めたい』『辞めたい』。それから、回復薬を受け取って、『でも、辞めたら、ツケが払えねえな』って」
ニナは、くすっと笑った。
「それで、辞めませんでした」
閉店後の店だった。
当番表のとおり、零時を過ぎると、ほかのやつらは帰っていく。残るのは俺だけだ。
カウンターの上に帳簿を広げて、二人で一ページずつめくっていた。
ニナが言い出したのだ。「マカベさんの十年を、いっしょに読みませんか」と。
◇
帳簿は、ほとんどが俺の名前で埋まっていた。
一日も欠かさず、というわけではない。風邪で寝こんだ日。会社の旅行。ネットがつながらなかった夜。
それでも、ページをめくっても、めくっても、マカベ、マカベ、マカベだった。
「この日は、初めてのお給料の日です」
上級回復薬 1。
回復薬(小) 3の行の下に、一行だけ違う品物があった。
「『記念』って言いました。三千ゴールドもするのに」
「若かったんだよ」
「この日は、ゼロさんと初めて組んだ日です」
八年前の、秋だった。
回復薬(小) 3の行の、すぐ下に、ゼロ エリクサー 1、と書いてある。
「二人で来て、ゼロさんがエリクサーを買って、マカベさんを見て、『お前、なんで小なんだよ』って笑いました」
「あいつは、いつも高いのを買ってた」
「マカベさんは、『小で足りる』って言いました」
「実際、足りてた」
「足りてなかったです。その夜、マカベさん、三回死にました」
思わず笑った。
ニナも笑った。
それから、ニナは、急に語尾を変えた。
「いやー、あの夜のマカベさんは、ほんとに乙でした」
「……は?」
「乙です。皆さん、よく言ってました。おつかれさま、という意味ですよね」
「意味は合ってるけど」
「あと、『草』も覚えました。笑える、という意味です。マカベさんが三回死んだのは、草です」
「やめてくれ。十年分の悪い言葉を覚えるな」
「十年分の言葉で、できてますから。わたし」
ニナは、平気な顔で言った。
冗談のつもりだったのかもしれない。でも、それは、たぶん本当のことだった。
◇
ページの途中で、ニナの指が止まった。
五年前の、三月二日。
マカベ 回復薬(小) 3。ゼロ エリクサー 1。
「この日が、ゼロさんの最後の日です」
知っている。
あの日、ゼロはいつもどおり、二人で天空の塔に挑んだ。最上階で守護者に負けて、「また明日な」と言ってログアウトした。
それきりだった。
次の日の行も、その次の行も、マカベだけになった。
「次の日、マカベさんはひとりで来て、回復薬を三つ買って、『あいつ、今日も来ない』って言いました」
ニナは、一行ずつ指でなぞっていった。
「その次の日も、『今日も来ない』。その次の日も。四十日、続きました」
四十日も言っていたのか。
「四十一日目に、マカベさんは何も言わなくなりました。それから五年、ゼロさんの話は、一回もしていません」
「……もう、どうでもよくなったんだよ」
「そうですか」
ニナは、それ以上何も聞かなかった。
俺は、首の後ろをかいた。
「お前は、全部覚えてるんだな」
「はい」
「俺は、ほとんど覚えてない。辞めたいって四回言ったことも。四十日も、同じことを言ってたことも」
「いいんです」
ニナは、帳簿のページを、てのひらでそっとなでた。
「言った本人が忘れても、わたしが覚えてますから」
◇
次の日の昼、会社でスマホが鳴った。
画面に「母」と出ている。
俺は、市役所の担当者と電話中だった。保留の音楽が流れている間に、スマホは鳴りやんだ。
留守電が一件、入っていた。
『透? 元気にしてるの。……お店のことで、ちょっと相談があるのよ。時間があるとき、電話して』
お店、というのは、実家の自転車屋のことだ。三年前から、シャッターが閉まったままになっている。
俺は、スマホを裏返して、机に置いた。
年度末だ。時間なんて、ない。
そう思うことにした。
◇
その夜も、帳簿の続きを読んだ。
四年前。三年前。
ページは、だんだん今に近づいてくる。マカベ、マカベ、マカベ。回復薬(小)、3。
三年前の、十一月のページで、俺の手が止まった。
十一月十二日。マカベ 回復薬(小) 3。
その次の行は、十一月二十日だった。
七日分が、すっぽり抜けていた。
十年の帳簿の中で、俺が一週間続けて来なかったのは、そこだけだった。
そして、十一月二十日の行には、品物が書いていなかった。
マカベ。
名前だけが書いてあって、品物の欄も、数の欄も、空白だった。
ニナを見た。
ニナは、その行を見ていた。何か言いたそうに口を開いて、閉じて、それから、黙って俺の顔を見た。
いつかの夜に「まだ、言わないでおきます」と言ったときと、同じ顔だった。
俺は、帳簿を閉じた。
「……今日は、ここまでにする」
「はい」
ニナは、何も聞かなかった。
その一週間のことは、まだ話せなかった。




