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5/17

四角くない空

サービス終了まで 残り26日


「広場の掲示板まで、ご案内しますね!」


 ニナの口から、聞いたことのない明るい声が飛び出した。


 言った本人が、いちばん驚いた顔をしていた。

 両手で口を押さえて、目を丸くしている。


「い、今の、わたしじゃないです」


「分かってる」


 俺の目の前には、半透明の板が浮かんでいた。


【クエスト「はじめてのおつかい」を再開します】

【案内役:ニナ】


 倉庫から出した、十年前のメモ。

 それを店のカウンターの上で使った瞬間、止まっていた時計が動き出したのだ。


「八年ぶりに言いました、今のセリフ」


 ニナは、まだ口を押さえている。


「昔は、新しい冒険者さんが来るたびに言っていたんです。お店がいっぱいになりすぎて、なくなりましたけど」


 そういえば、そうだった。

 サービス開始のころ、初心者は全員この店でチュートリアルを受けた。ニナが一人ずつ広場まで案内するので、店の前に百人の行列ができて、苦情が殺到した。それで、ニナは店から出なくなった。


 店の外で、ガンテツとミオが待っている。

 窓の四角の向こうで、二人が小さく手を振った。


「……じゃあ、行くか」


「はい」


 ニナが、カウンターの跳ね上げ板をくぐった。


 棚の前を通る。樽の横を通る。

 ゆうべ、見えない壁にはね返された扉の前で、ニナは一度だけ止まった。


 ガロが、天井を見て言った。


「ニナ、店番を頼む」


 ニナが、父親のほうを振り返った。

 ガロは、もう天井を見ていた。


「……ごめんなさい、お父さん。すぐ戻ります」


 ニナは扉に手をのばした。


 指先が、木の扉に触れた。

 空気は、波打たなかった。


 扉が、開いた。



◇



 夜だった。


 リュネの広場には、街灯が並んでいる。

 石畳の上に、オレンジ色の光の輪が点々と落ちていて、その真ん中で、噴水が水を吐いている。


 ニナは、扉の外に一歩出たところで、動かなくなった。


 顔を上げていた。


 見ていたのは、噴水でも、街灯でも、俺たちでもなかった。

 空だった。


 リュネの夜空は、作りものにしてはよくできている。

 星が、端から端まで、こぼれるくらいに散らばっていて、西の空の低いところに、白い月がかかっている。

 十年間、ログインするたびに見上げもしなかった空だ。


「……星って」


 ニナの声が、震えていた。


「窓の四角の中には、三つしか入らなかったんです」


 だれも、何も言わなかった。


 ガンテツが、鼻をすすった。ミオが、肘でつつく。


「ガンテツさん、まだ一歩目だよ」


「うるせえ。分かってる」


 ニナが、二歩目を踏み出した。


 石畳が、こつんと鳴った。

 ニナは、自分の足元を見て、もう一度踏んだ。こつん。


「音がします」


「石畳だからな」


「お店の床は、こういう音じゃないんです」


 こつん、こつん、と、ニナは音を確かめながら歩いた。

 クエストの案内役だから、行き先は決まっている。広場の掲示板まで、二十歩。

 ニナは、その二十歩を、十年分の時間をかけるみたいに、ゆっくり歩いた。


 途中で、噴水の前を通った。


 ニナが、急に道をそれた。

 噴水のふちに駆け寄って、身を乗り出して、水面に手をのばす。


「おい、待て――」


 遅かった。

 ニナは、のばした手の勢いのまま、頭から噴水に落ちた。


 ばしゃん、とは鳴らなかった。


 ニナの体は、水面を通り抜けて、噴水の底に、ぺたんと座りこんだ。

 水は、ニナのまわりで、何ごともなかったように揺れている。髪も、エプロンも、まったく濡れていない。


「……濡れません」


「NPCは、水に濡れない仕様なんだ」


 ニナは、水の中で、しばらく自分の手のひらを見ていた。

 それから、顔を上げて言った。


「仕様の範囲内ですね」


 ミオが、声を上げて笑った。ガンテツも笑った。俺も、笑ってしまった。


 ニナは、噴水の底に座ったまま、いちばん大きな声で笑っていた。



◇



 掲示板の前に着いた。


 クエストの最後は、メモを掲示板に貼ることだ。

 俺は、十年前の羊皮紙の切れ端を取り出して、ピンで留めた。


【クエスト「はじめてのおつかい」を完了しました】

【報酬:10ゴールド】


 十年遅れの、十ゴールドだった。


「これで、おつかいは完了です! 冒険者さん、いってらっしゃい!」


 ニナの口から、また、あの明るい声が出た。

 チュートリアルの最後のセリフだ。


 ニナは、もう口を押さえなかった。

 言い終わってから、掲示板を見上げていた。


 掲示板のいちばん上に、一月から貼られている羊皮紙がある。

 窓の四角の中からは、字が小さくて読めなかった紙だ。


 ニナは、一行ずつ、指でなぞって読んだ。


「……三月三十一日、二十四時をもちまして」


 声に出して、最後まで読んだ。


「長い間、本当にありがとうございました」


 読み終わって、ニナは、羊皮紙から指を離した。


 そのとき、ニナの体が、ふっと光った。

 足が、勝手に、店のほうへ向いていた。クエストが終わって、案内役の時間が終わったのだ。


「あ」


 ニナは、引っぱられるように歩きながら、振り返った。


「マカベさん」


「ああ」


「わたし、出られました」


 知ってる、と言おうとして、言えなかった。


 ニナは、二十歩を逆に歩いて、扉の向こうへ戻っていった。

 鈴が鳴った。ガロの声が聞こえた。「よう、いい天気だな」。


 俺たちは、しばらく広場に立っていた。


 やがて、店の窓の四角の中に、ニナの顔がのぞいた。

 窓に手のひらをくっつけて、こっちを見ている。


 俺が店に戻ると、ニナは窓辺から離れずに言った。


「マカベさん。次は、草原が見たいです」


「草原?」


「風見の草原です。皆さんが、いつも話していました。最初の狩り場で、風がすごく気持ちよくて、スライムがかわいいって」


 門の外の、初心者用の草原だ。

 広場の二十歩とは、わけが違う。町の外へ出る方法なんて、見当もつかない。


 それでも、口が勝手に動いた。


「連れていく」


 言ってから、しまった、と思った。

 約束は、守れないなら、しないほうがいい。十年社会人をやって、それくらいは分かっている。


 ニナは、窓から手を離して、こっちを向いた。


「約束ですね」


 俺は、首の後ろをかいた。

 残り二十六日で、守らなきゃいけない約束が、一つできた。


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