四角くない空
サービス終了まで 残り26日
「広場の掲示板まで、ご案内しますね!」
ニナの口から、聞いたことのない明るい声が飛び出した。
言った本人が、いちばん驚いた顔をしていた。
両手で口を押さえて、目を丸くしている。
「い、今の、わたしじゃないです」
「分かってる」
俺の目の前には、半透明の板が浮かんでいた。
【クエスト「はじめてのおつかい」を再開します】
【案内役:ニナ】
倉庫から出した、十年前のメモ。
それを店のカウンターの上で使った瞬間、止まっていた時計が動き出したのだ。
「八年ぶりに言いました、今のセリフ」
ニナは、まだ口を押さえている。
「昔は、新しい冒険者さんが来るたびに言っていたんです。お店がいっぱいになりすぎて、なくなりましたけど」
そういえば、そうだった。
サービス開始のころ、初心者は全員この店でチュートリアルを受けた。ニナが一人ずつ広場まで案内するので、店の前に百人の行列ができて、苦情が殺到した。それで、ニナは店から出なくなった。
店の外で、ガンテツとミオが待っている。
窓の四角の向こうで、二人が小さく手を振った。
「……じゃあ、行くか」
「はい」
ニナが、カウンターの跳ね上げ板をくぐった。
棚の前を通る。樽の横を通る。
ゆうべ、見えない壁にはね返された扉の前で、ニナは一度だけ止まった。
ガロが、天井を見て言った。
「ニナ、店番を頼む」
ニナが、父親のほうを振り返った。
ガロは、もう天井を見ていた。
「……ごめんなさい、お父さん。すぐ戻ります」
ニナは扉に手をのばした。
指先が、木の扉に触れた。
空気は、波打たなかった。
扉が、開いた。
◇
夜だった。
リュネの広場には、街灯が並んでいる。
石畳の上に、オレンジ色の光の輪が点々と落ちていて、その真ん中で、噴水が水を吐いている。
ニナは、扉の外に一歩出たところで、動かなくなった。
顔を上げていた。
見ていたのは、噴水でも、街灯でも、俺たちでもなかった。
空だった。
リュネの夜空は、作りものにしてはよくできている。
星が、端から端まで、こぼれるくらいに散らばっていて、西の空の低いところに、白い月がかかっている。
十年間、ログインするたびに見上げもしなかった空だ。
「……星って」
ニナの声が、震えていた。
「窓の四角の中には、三つしか入らなかったんです」
だれも、何も言わなかった。
ガンテツが、鼻をすすった。ミオが、肘でつつく。
「ガンテツさん、まだ一歩目だよ」
「うるせえ。分かってる」
ニナが、二歩目を踏み出した。
石畳が、こつんと鳴った。
ニナは、自分の足元を見て、もう一度踏んだ。こつん。
「音がします」
「石畳だからな」
「お店の床は、こういう音じゃないんです」
こつん、こつん、と、ニナは音を確かめながら歩いた。
クエストの案内役だから、行き先は決まっている。広場の掲示板まで、二十歩。
ニナは、その二十歩を、十年分の時間をかけるみたいに、ゆっくり歩いた。
途中で、噴水の前を通った。
ニナが、急に道をそれた。
噴水のふちに駆け寄って、身を乗り出して、水面に手をのばす。
「おい、待て――」
遅かった。
ニナは、のばした手の勢いのまま、頭から噴水に落ちた。
ばしゃん、とは鳴らなかった。
ニナの体は、水面を通り抜けて、噴水の底に、ぺたんと座りこんだ。
水は、ニナのまわりで、何ごともなかったように揺れている。髪も、エプロンも、まったく濡れていない。
「……濡れません」
「NPCは、水に濡れない仕様なんだ」
ニナは、水の中で、しばらく自分の手のひらを見ていた。
それから、顔を上げて言った。
「仕様の範囲内ですね」
ミオが、声を上げて笑った。ガンテツも笑った。俺も、笑ってしまった。
ニナは、噴水の底に座ったまま、いちばん大きな声で笑っていた。
◇
掲示板の前に着いた。
クエストの最後は、メモを掲示板に貼ることだ。
俺は、十年前の羊皮紙の切れ端を取り出して、ピンで留めた。
【クエスト「はじめてのおつかい」を完了しました】
【報酬:10ゴールド】
十年遅れの、十ゴールドだった。
「これで、おつかいは完了です! 冒険者さん、いってらっしゃい!」
ニナの口から、また、あの明るい声が出た。
チュートリアルの最後のセリフだ。
ニナは、もう口を押さえなかった。
言い終わってから、掲示板を見上げていた。
掲示板のいちばん上に、一月から貼られている羊皮紙がある。
窓の四角の中からは、字が小さくて読めなかった紙だ。
ニナは、一行ずつ、指でなぞって読んだ。
「……三月三十一日、二十四時をもちまして」
声に出して、最後まで読んだ。
「長い間、本当にありがとうございました」
読み終わって、ニナは、羊皮紙から指を離した。
そのとき、ニナの体が、ふっと光った。
足が、勝手に、店のほうへ向いていた。クエストが終わって、案内役の時間が終わったのだ。
「あ」
ニナは、引っぱられるように歩きながら、振り返った。
「マカベさん」
「ああ」
「わたし、出られました」
知ってる、と言おうとして、言えなかった。
ニナは、二十歩を逆に歩いて、扉の向こうへ戻っていった。
鈴が鳴った。ガロの声が聞こえた。「よう、いい天気だな」。
俺たちは、しばらく広場に立っていた。
やがて、店の窓の四角の中に、ニナの顔がのぞいた。
窓に手のひらをくっつけて、こっちを見ている。
俺が店に戻ると、ニナは窓辺から離れずに言った。
「マカベさん。次は、草原が見たいです」
「草原?」
「風見の草原です。皆さんが、いつも話していました。最初の狩り場で、風がすごく気持ちよくて、スライムがかわいいって」
門の外の、初心者用の草原だ。
広場の二十歩とは、わけが違う。町の外へ出る方法なんて、見当もつかない。
それでも、口が勝手に動いた。
「連れていく」
言ってから、しまった、と思った。
約束は、守れないなら、しないほうがいい。十年社会人をやって、それくらいは分かっている。
ニナは、窓から手を離して、こっちを向いた。
「約束ですね」
俺は、首の後ろをかいた。
残り二十六日で、守らなきゃいけない約束が、一つできた。




