私を連れ出して
サービス終了まで 残り28日
「NPCがしゃべった? そりゃお前、疲れてんだよ」
ギルド|《黄昏亭》のマスター、ガンテツは、酒場のカウンターでジョッキを置いて笑った。
岩みたいな体の、髭のドワーフ。中身は五十五歳のタクシー運転手で、夜勤明けにここで一杯やるのが日課だ。もちろん、ゲームの酒では酔わない。
黄昏亭は、リュネの裏通りにある酒場を、まるごとギルドの拠点にしている。
最盛期には、メンバーが三百人いた。壁一面に、攻略の記念写真が貼ってある。今も残っているのは、ガンテツを入れて十一人だ。
写真の中の顔は、ほとんどがもうログインしていない。それでもガンテツは、一枚もはがさない。
「年度末だろ、印刷屋は。三月は寝てねえって、去年も言ってたじゃねえか」
「寝てないのは本当だ。でも、しゃべった」
「どんなふうに」
「十年前のツケを請求された」
ガンテツが、ジョッキを持ったまま止まった。
「……お前、それ、相当疲れてるぞ」
「おじさん、それAIのアップデートでしょ」
カウンターの端から、声がした。
銀色のショートカットに、ぶかぶかの魔術師のローブ。ミオだ。
中身は高校二年。二年前、サービスがさびれ始めてから入ってきた、数少ない新しいプレイヤーで、黄昏亭のメンバーではないのに、なぜかいつもここにいる。
目の前に、小さな配信の画面を浮かべている。
同時視聴者数、三。
「今どき、NPCに会話AI入れるの普通だし。最後だから運営がテストしてんじゃない?」
「十年前の冗談を、一字一句覚えてるAIか」
「ログ読ませたんでしょ」
「俺が店でひとりごとで言ったことも?」
ミオは口を開けて、閉じた。
ガンテツが、ジョッキをカウンターに置いた。
「……行ってみるか。どうせ暇だ」
◇
鈴が鳴った。
「よう、いい天気だな」
ガロのいつものセリフに、ガンテツが「おう」と返す。十年間、この男はガロに返事をしてきた。
カウンターの向こうで、ニナが顔を上げた。
俺を見て、ガンテツを見て、ミオを見た。
「いらっしゃいませ! ガンテツさん。……おかえりなさい、は変ですね。三日ぶりです」
ガンテツの髭が、ぴくりと動いた。
「前回は、解毒薬を二つでした。『娘がまた口きいてくれねえ。ゲームしてるのが恥ずかしいってよ』って言ってました」
ガンテツは、ゆっくりと俺のほうを見た。
俺は、黙ってうなずいた。
「その前は、二月の二十日。毛布を一枚。『夜勤の車の中、寒くてよ。ゲームの毛布じゃあったまんねえけどな』」
「……」
「その前は――」
「なんで知ってんだぁ……」
ガンテツの声が、途中で崩れた。
髭のドワーフが、カウンターに両手をついて、肩を震わせていた。
ゲームのアバターは涙を流さない。それでも、泣いているのはだれが見ても分かった。
「ガンテツさん、泣いてる」
「泣いてねえ」
「泣いてますよね」
「泣いてねえって言ってんだろうが、ちくしょう、十年だぞ……」
ガンテツは、昔からこうだ。ギルドの仲間が引退するたびに、だれよりも先に泣く。
ミオだけが、腕を組んで一歩下がっていた。
「……まあ、ガンテツさんは常連だし。ログがあれば、それくらい」
「ミオさん」
ニナが言った。
ミオの肩が、小さくはねた。
「二年前の九月十二日に、初めて来ました。回復薬を一つだけ買って、帰り際に、こう言いました」
ニナは、少しだけ声を落とした。
「『ここなら、だれもわたしのこと知らないから、いい』」
ミオの顔から、表情が消えた。
しばらくして、ミオは目の前の配信の画面に手をのばして、切った。
同時視聴者数が三から、ゼロになる。
「……配信、切った」
それだけ言って、ミオはうつむいた。
「ごめんなさい。言っちゃいけないことでしたか」
「ううん」
ミオは首を横に振った。
「わたしが、言ったんだもんね」
◇
ガンテツが泣きやむのに、十分かかった。
それから三人で、ニナに、ちゃんと説明した。
ゆうべ俺が答えられなかったことを。
三月三十一日の二十四時に、このゲームは終わる。
サーバーが止まる。町も、草原も、空の都市も、この店も、なくなる。
ガロも。ニナも。
「なくなる、というのは」
ニナは、言葉を一つずつ確かめるみたいに聞いた。
「お店がお休みになる、というのとは、違いますか」
「違う。もう開かない」
ガンテツが、また泣きそうな顔をした。ミオが、その背中を叩いた。
ニナは、しばらく黙っていた。
ガロの店の棚には、十年間、同じ品物が同じ順番で並んでいる。回復薬、解毒薬、毛布、松明、地図。
品切れになったことは一度もない。売っても売っても、次の瞬間には補充される。
この店には、なくなる、ということが、一度もなかったのだ。
それから、ニナは「わかりました」と言った。
何がわかったのかは、言わなかった。
零時前に、ガンテツは「ギルドの連中に話してみる」と言って帰った。ミオも、黙ってついていった。
店に、俺とニナだけが残った。
ニナが、カウンターの端の、跳ね上げ板に手をかけた。
カウンターの内側と外側を分ける、小さな板だ。
十年間、ニナがそこを通るのを、見たことがなかった。
ニナは、板を上げた。
カウンターの外に、一歩、出た。
それから、ゆっくりと店の中を歩いた。棚の前を通り、樽の横を通り、俺の横を通って、入り口の扉の前で止まった。
扉に、手をのばす。
指先が、扉の手前で止まった。
空気が、水面みたいに波打った。見えない壁だ。
【このエリアから移動できません】
ニナの前に、半透明の板が浮かんで、消えた。
ニナは、もう一度、手を押しつけた。
波打つだけで、扉には届かない。
ガロが、天井を見て言った。
「ニナ、店番を頼む」
ニナは、手を下ろした。
振り返らずに、扉に向かって立ったまま、言った。
「マカベさん」
「……ああ」
「なくなる前に、一度でいいから、外が見たいです」
ニナが、振り返った。
十年間、窓の四角い空しか見てこなかった目が、俺を見ていた。
「わたしを、ここから連れ出してください」
十年間で、初めての、お願いだった。




