ガロ
サービス終了まで 残り12日
「おはよう、お父さん」
朝のリュネで、ニナがそう言うのを、初めて聞いた。
午前六時。
眠れなくて、出勤前に、一度だけログインしてみたのだ。
朝のリュネは、夜とは別の町みたいだった。
石畳が、東からの光で白っぽく光っている。噴水のしぶきに、小さな虹がかかっている。パン屋の煙突から、薄い煙が上がっている。
十年やってきて、朝の町に来たのは、数えるほどしかなかった。
店の扉を開けようとして、窓の四角の中に、ニナの姿が見えた。
ニナは、カウンターの外に出て、ガロの前に立っていた。
背の高い父親を見上げて、両手を前で組んで。
「おはよう、お父さん」
ガロが、天井を見て言った。
「よう、いい天気だな」
窓の外は、本当に、いい天気だった。
ニナは、うれしそうに笑った。
「うん。いい天気だね」
俺は、扉を開けられないまま、しばらく窓の外に立っていた。
◇
「毎朝、言ってるのか」
その夜、店で聞いた。
「はい。朝の光が、窓から入ってくるときに」
ニナは、薬瓶を棚に並べながら言った。
「話せるようになってから、毎朝です。その前は、言えなかったので、心の中で言ってました」
「十年間?」
「十年間です」
ガロは、カウンターの横で、天井を見ている。
髭の大男。腕を組んで、少しだけ胸を張っている。十年間、同じ姿勢で。
「お父さんの、いい天気だな、は、朝に言うのがいちばん合ってるんです」
ニナは、ガロを見上げた。
「夜とか、雨の日とかに言われると、ちょっと困りますけど」
そのとき、扉の鈴が鳴った。
柚木だった。
会社帰りらしく、ログインしたばかりの、少しぼんやりした顔をしていた。
「明日のことで、話がある」
「明日?」
「あとで言う。先に、あの子の話を聞いて」
柚木は、カウンターの端の椅子に座った。
ニナが、柚木の前にも、回復薬(小)を一本置いた。おとといから、毎回、置いている。柚木は、毎回、すり抜ける指で、瓶の表面をなでる。
◇
俺は、ずっと気になっていたことを聞いた。
「柚木さん。新しいサーバーに移すとき、ガロも、連れていけないのか」
ニナの手が、止まった。
柚木は、ガロのほうを見た。
「ガロには、ことのはは入っていない」
「知ってる」
「中にあるのは、決まったセリフ三つと、立ち方と、首の動かし方だけ。新しいサーバーでも、同じものは作れる。五分で」
「じゃあ、それで――」
「それは」
ニナが、口をはさんだ。
俺と柚木が、同時にニナを見た。
ニナは、薬瓶を一本、胸に抱えたまま、ガロの横顔を見ていた。
「それは、お父さんじゃなくて、同じことを言う人です」
店の中が、静かになった。
ガロが、天井を見て言った。「よう、いい天気だな」。
夜だった。窓の外には、星が三つ見えていた。
「お父さんの中に、何も入っていないのは、知っています」
ニナは、ゆっくりと言った。
「わたしが何を言っても、お父さんは、三つのことしか言いません。わたしのことを、わかっていません。たぶん、わたしがいることも、わかっていません」
「……」
「でも、十年間、わたしの横にいたのは、このお父さんです」
ニナは、薬瓶を棚に戻した。
「わたしが、いらっしゃいませしか言えなかったときも。夜中に、だれも来なかったときも。お店がいちばんにぎやかだったときも、いちばんさびしかったときも。ずっと、ここで、天井を見ていたのは、このお父さんです」
ニナは、ガロの前に立った。
見上げる。ガロは、天井を見ている。
「新しい場所で、同じ顔で、同じことを言う人がいても、その人は、十年間ここにいなかった人です。それは、お父さんじゃありません」
柚木が、目を伏せた。
俺は、何も言えなかった。
ニナの言っていることは、たぶん、とても正しかった。
正しすぎて、どこにも逃げ道がなかった。
「だから、お父さんは、連れていけないです」
ニナは、振り返って、笑った。
「わたしが、言いたかっただけです。柚木さん、気にしないでください」
柚木は、小さくうなずいた。
何か言おうとして、何も言わなかった。
◇
ログアウトしたあと、六畳の部屋で、天井を見ていた。
ガロみたいだな、と思った。
親父のことを、考えていた。
真壁正一。真壁サイクルの店主。
口数の少ない人だった。客とは、自転車の話しかしなかった。家族とは、自転車の話すらしなかった。
親父が俺に言う言葉は、だいたい三つだった。
「おう」
「飯、食ったか」
「気をつけて行けよ」
高校の朝。大学に入って、東京のアパートへ出る日。就職して、正月に帰省して、また戻る日。
店の前で、油で黒くなった手を軍手でふきながら、親父は、いつも同じことを言った。
「おう。気をつけて行けよ」
それ以外の言葉を、親父から聞いた覚えがない。
俺が何をしているか、どう思っているか、親父は一度も聞かなかった。俺も、言わなかった。
中に何もない人だと、思っていたわけじゃない。
でも、何が入っているのか、確かめようとしたことも、なかった。
確かめる前に、いなくなった。
ニナは、ガロの中に何もないことを知っていて、それでも、ガロを「お父さん」と呼ぶ。
俺は、親父の中に何かがあったはずなのに、それを知らないまま、「親父」と呼ぶことすら、ほとんどしなかった。
どっちが、ちゃんとした子どもなんだろう。
スマホが、枕元で光った。
柚木からのメッセージだった。店で言いかけた「明日のこと」だ。
【社長が、会うと言っている。明日。祝日で会社は休みだけど、社長は休みの日にしか時間が取れない人。
五反田の会社に、十四時。来られる?】
明日は、三月二十日。春分の日だった。
俺は、天井を見たまま、返信を打った。
【行く】




